音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

オレンジとミルテの花

2024-09-30 21:08:00 | ロマン派
裏庭小さな木ですが、結構採れます。
今年は暑かったのでどうかと思いましたが、大きな実で、香りも充分。

酸味も丁度いい感じです。
スダチ(酢橘、学名: Citrus aurantium Sour Orange Group、 Citrus sudachi)ミカン科。徳島県特産の果物。
食酢として使っていたことにちなんで、「酢の橘」から酢橘(すたちばな)と呼ばれていました。
木乃酢(きのす)とも呼ばれます。

レモンやライムの果汁に豊富なエリオシトリンは、スダチ汁にも同等程度含まれています。またネオエリオシトリン(脂質過酸化にたいする抗酸化作用があり、ダイダイやベルガモットに豊富)も、スダチの果皮や果汁に検出されています。
アレルギーや動脈硬化に関与するリポキシゲナーゼの形成を阻害するとされています。

また、ナリルチンは、花粉症に効き目があるとされるスダチ汁にもユズ汁の3倍との結果があります(100ml あたり20.1 mg 対 6.6 mg)

2006年、徳島大学の研究チームが、スダチの搾りかすに血糖値の上昇を抑える効果があると発表しました。

すだちはヨーロッパにはありませんでしたが、オレンジは古くからあります。

ロベルト シューマン(1810-1856年)プロイセン王国ツヴィッカウ生まれ、プロイセン王国エンデニヒ没


作曲の「オレンジとミルテの花」WoO.26No.4

蓋はオレンジとミルテで飾られ、
繊細な花で囲まれ、
中央にはグランドピアノがあります。
これは私の愛する人からの贈り物に違いありません。

彼があなたにふさわしい人でありますように。
彼女は美しく咲き誇りますように。
花は散りますが、より深い輝きが
あなたの心の奥深くに宿りますように。
芸術があなたにふさわしいものであり続けますように。

そして私がいつもあなたと一緒にいられないときは、
急いであなたの友人のもとへ行き、私のことを考えてください。
それでも、私たちはいつも
喜びも苦しみも共に背負っていくと思います。
リチャード・ストークス(『歌集』(Faber、2005年)の著者)による翻訳
 

重たいと言えばあの曲

2024-09-29 21:10:00 | ロマン派
土曜朝は伊藤公一先生のレッスンでした。
ドルチェ楽器さんのレッスンルーム。

パールのバスフルート吹かせてもらいました。音でやすい。それに昔のモデルに比べて軽いです。
とは言っても重い。
本体60万円。
支持棒は別売り約2万円。
買えないなぁ〜。
代わりに私がお借りしているバスフルートを調整できないか?聞いてみました。メーカー不詳。よそで買ったものは基本できないそう。
でも、とりあえず、調整できるかどうか見てくれることになりました。
練習日と重ねてみましたが、コンサートフルートと2本持ち重た〜。
これで調整できなかったら嫌だなぁ〜。

重い気分の時に聴く、重い曲と言えば「ピアノ幻想的小品集から前奏曲「鐘」op.3-2」
1892年に作曲されました。
19歳のラフマニノフ。一体何を背負っていたのでしょう?

セルゲイ ラフマニノフ(1873-1943年)ロシア帝国ノプゴロドセミョノヴォ生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビバリーヒルズ没

]で下級貴族の家に生まれました。家系はモルダヴィア公・シュテファン3世(1433-1504年)

"Rachmanin" の愛称で呼ばれた "ヴァシーリー" の子孫という伝承を持ちます。

ラフマニノフ家は音楽家の素養を持つ家系でした。
陸軍の将校だった父ヴァシーリイ・アルカジエヴィチはアマチュアのピアニストで、彼はピョートル・ブタコフ将軍の娘リュボーフィ・ペトローヴナと結婚し、その際に妻の持参した5つの地所を手に入れていました。

夫妻は3男3女を儲け、セルゲイはその第3子でした。父親は音楽の素養のある人でしたが、受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれたころには一家はすでにかなり没落していました。

1877年、セルゲイが4歳になった後、一家はセミョノヴォから180 km離れた豊かな自然に恵まれたオネグの地所に移り住みセルゲイは9歳まで同地で過ごしました。その後セミョノヴォの地所は1879年に売却されました。

セルゲイは4歳のとき母からピアノのレッスンを受け始め、才能を発揮仕出します。

父ヴァシーリィは息子のためペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナツカヤを招き、セルゲイは彼女からレッスンを受けました。

父ヴァシーリィはセルゲイに軍人の道へ進んでもらいたかったが、その為の資金が捻出できず、逆に借金返済のために5つの地所を次々と売り払っている状況でした。

1882年、ついに父は破産してオネグの地所も競売にかけられ、一家はペテルブルクに移住しました。

1883年、オルナツカヤの紹介で奨学金を得てセルゲイはペテルブルク音楽院

の幼年クラスに入学することができました。その年の暮れ、妹ソフィアがジフテリアで亡くなり、まもなく両親は離婚し、父は家族をおいてモスクワに去りました。

この頃、セルゲイは宗教教育に熱心な母方の祖母ソフィア・アレクサンドロヴナ・ブタコワに連れられてよく教会に通っており、そこでロシア正教の奉神礼の聖歌や鐘の音に影響を受けました。

ロシア正教会で最も重要な修道院の一つ、
至聖三者聖セルギイ大修道院の全景(モスクワ州・セルギエフ・ポサード)。
1885年、声楽の才能に恵まれ、チャイコフスキー作品を紹介するなどセルゲイに大きな影響を与えていた姉イェレナが悪性貧血により17歳で亡くなると大きな喪失感に襲われ、ボリソヴァの地所で療養ましたが、音楽院の授業にも身が入らなくなって不登校となり、一般教養の試験で落第を繰り返すようになります。

1885年

この時期、彼はモスクワ音楽院で行われたコンスタンチン大公

ら著名人も臨席する演奏会で演奏の披露もしていましたが、春季試験で落第します。

悩んだ母は、セルゲイにとって従兄にあたるピアニストのアレクサンドル・ジロティ(1863-1945年)
ジロティ(左)とチャイコフスキー(右)
に相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院
モスクワ音楽院のボリショイ・ザール
に転入し、厳格な指導で知られるニコライ・ズヴェーレフ(1832-1893年)

の家に寄宿しながらピアノを学ぶことになります。

1885年以降の約4年間をここで過ごします。ズヴェーレフは、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込みました。
ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特に彼はピョートル・チャイコフスキー(1840-1893年)

に才能を認められ、目をかけられました。

2年後、音楽院初等科を修了したラフマニノフは奨学金を得て高等科に進みます。

ズヴェーレフは弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていましたが、作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフは1889年に作曲のための時間が欲しいこと、作曲のための部屋と専用のピアノを提供して欲しいとズヴェーレフに願い出て彼の不興を買います。

ズヴェーレフ邸を出ることになったラフマニノフは父方の伯母ワルワラ・アルカジエヴナの嫁ぎ先にあたるサーチン家に身を寄せます。
ここで姻戚のスカロン家の末娘ヴェラに初めて恋
1990年からは夏にはタンボフ県イヴァノフカにあるサーチン家の別荘を訪れて快適な日々を過ごすのが恒例となり、ロシアを離れるまで毎年訪れていました。イヴァノフカの牧歌的な環境はラフマニノフの創作意欲を刺激し、1891年7月に完成させジロティに献呈した『ピアノ協奏曲第1番 嬰へ短調』(作品1)をはじめとする多くの作品が同地で生まれています。

1891年、ジロティが8月(学年度末)にモスクワ音楽院を離れることを知らされ、他の講師の教えを受けることに不安を覚えたラフマニノフは音楽院に卒業試験の1年繰上げ受験を希望します。その時点で試験までの準備期間が3週間しかないことなどからジロティも院長のワシーリー・サフォーノフも試験結果にはさして期待はしていませんでしたが、ラフマニノフは卒業生から試験の傾向を教えてもらうなどの対策を講じ、同年7月に優秀な成績で合格し、その3日後には音楽理論と作曲の学年試験にも合格しました。

しかし、年の後半を休暇を過ごしていたイヴァノフカでマラリアに罹患し、療養に費やしました。

メダルを授けられてモスクワ音楽院を卒業しました。卒業試験の委員を務めていたズヴェーレフからは金時計を贈られ、和解を果たしています。
5月29日、音楽院から卒業証書が発行され、正式に「自由芸術家」(プロの音楽家)として活動する資格を得ました。

卒業後、ピアノ教師として月15ルーブルの収入を得ながら作曲を続けていたラフマニノフは、グートハイル社と500ルーブルの出版契約を結び、『アレコ』『チェロとピアノのための2つの小品』(作品2)『6つのロマンス』(作品4)が同社から初版されました。

しかしグートハイルからの入金が遅れがちなため新たな収入を求めて1892年、モスクワ電気博覧会にピアニストとして出演し、『幻想的小品集』(作品3)(1.エレジー 2.鐘 3.メロディ)から「前奏曲 嬰ハ短調《鐘》」(作品3-2)を初演し、50ルーブルの出演料を得ました。この曲は熱狂的な人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞的な存在になりました。

しかし当時ロシア以外で33は版権が保護されていなかったため、これを守るための努力を強いられました。
性格的小品より「前奏曲鐘」op.3-2












サロンで生まれた曲

2024-09-28 21:00:35 | 近代
9月27日(金)は枚方市 牧野生涯学習センターで第16回聴き合い会でした。
今回は、ギター、ビウエラ、チェロ、フルート、ピアノ13名の参加でした。

フルート2本とチェロでハイドンの「ロンドントリオ」

古楽器ビウエラもずっときてくれています。
頭部管木管のフルートとギターで即席合奏。
もちろん独奏も

19世紀ギター。とても深い音です。
ルネサンスからロマン派、現代音楽までバラエティ豊かでした。
みんなでジョスカン・デ・プレの「千々の悲しみ」の4声版をみんなで合奏もしました。

第17回聴き合い会は10月25日(金)12:15 牧野生涯学習センター音楽室。1人15分 協力金500円
みなさんもぜひご出演ください。

ステファヌ マラルメ(1842-1898年)
フランス王国パリ生まれ、フランス共和国セーヌ エ マルヌ県ヴァルヴァン没



本名エティエンヌ・マラルメ。
若いうちにユーゴーらのロマン派の影響を受けて詩作を始め、ボードレールの作風やアメリカの詩人・作家のエドガー・アラン・ポーの『詩の原理』をもとに創った詩が文壇に知られるようになりました。

第三共和政下パリで、コンドルセ中学の教師として英語を教える傍ら、生涯にわたって詩の可能性を探り、難解な詩や批評を書き綴りました。

マラルメはローマ街(パリ17区ローム通り (Rue de Rome) 87番地(現89番地))にある自宅で「火曜会」というサロンを開いていました。

画家のモネ、ルノワール、そしてドガなどの印象派をはじめゴーギャンやドニ、ホイッスラー、詩人のヴェルレーヌ、ヴァレリー、作家のオスカー・ワイルド、アンドレ・ジッドなとま多くの芸術家が出入りしていました。

クロード アシル ドビュッシー(1862-1918年)フランス帝国サン・ジェルマン・アン・レー生まれ、フランス共和国パリ没

はマラルメのサロンに出入りしていた1人です。

1889年27歳、この時の体験はのちにマラルメの詩による歌曲(『ステファヌ・マラルメによる3つの詩』)や、『牧神の午後への前奏曲』の作曲へとつながっていきます。

マラルメの詩を3篇取り上げたこのような歌曲集が作られました。

モーリス・ラヴェルも同じステファヌ・マラルメの詩を3篇取り上げて歌曲集を書いています、しかも偶然に初めの2曲の詩は全く同じものが選ばれています。

1.ため息
2.空しい願い
3.扇

3.扇
おお夢見るひとよ 
ぼくが飛び込むために
この純粋な喜びに 
道なきところから 巧みな偽りで
ぼくの翼をきみの手に持っていて欲しいのだ

たそがれ時のさわやかな空気は
一度あおぐたび毎にきみに届き
この捕らわれた扇のはばたく音は広げていく
地平線を ほんのささやかに

めまいがする! 
今ここで震えているのは
大きなくちづけのようなこの空間
誰かのために生まれようともがくけれども
あふれ出ることも 静まることもできないくちづけのような

きみは感じるかい 残酷な楽園を
秘められた笑いのように
きみの口元から湧き出してきて
きれいに揃った襞の底へと広がっていく

バラ色に輝く王の杖が
この金色の夕暮れによどんでいる、それこそが
閉ざされた白い飛翔 きみが巻き起こしたのだ
そのブレスレットの輝きのそばに




パリ万博で作曲

2024-09-27 20:56:00 | 現代
三連休の最後に出会ったトーマス列車。
いつもは交野線を走っていますが、夜遅くなると京阪本線を走っているみたい。しかも快速急行。

私は初めてでしたが、3月から走っていたようです。
新キャラアジア系のアシマ

もちゃんといました。

おなじみのパーシー。

1日重たいバスフルートを背負ってコロコロにコンサートフルートや譜面台を入れて兵庫、大阪をウロウロしてお疲れ〜でしたが、急に元気になって写真を撮りまくりました。

ボフスラフ・マルティヌー(1890-1959年)オーストリア=ハンガリー帝国ボヘミア ポリチカ生まれ、スイス ジュネーブ没


靴屋を営む両親のもとに生まれました。
両親は、この村の火災監視とヤコブ教会の教会堂の管理を任されており、教会の鐘楼塔に住んでいました。

マルティヌーが生まれ、幼少期を過ごした教会の塔(1910年代の絵葉書)
親は音楽家ではありませんでしたが、父親はアマチュア劇団の熱心な団員で、母親は読書や歌が好きで、民謡歌手の靴職人を同居させてもいて、文化的な環境に恵まれてはいました。

幼少期の彼は内向的な性格で塔の外へ出ることはほとんどなく、一日中本を読んで過ごしていました。

7歳の時から近所の仕立屋にヴァイオリンの手ほどきを受けると、めきめきと腕を上げ、やがて地元の弦楽四重奏団でヴァイオリン奏者を務めるようになりました。

12歳の時には弦楽四重奏曲を作曲しています。 
プラハ音楽院に入学しましたが、ここでの授業に満足できず、学校の許可を得ずに素人の楽団に加わったりしたため「慢性的な怠慢」によって1910年に退学となっています。

その後1912年からは故郷の小学校で教師を務めていましたが、1917年に音楽院時代の友人スタニスラフ・ノヴァークの世話でチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の第二ヴァイオリン奏者となりました。

1919年にはカンタータ『チェコ狂詩曲』でスメタナ賞を受賞し、作曲家としてのデビューを飾りました。

同じ年に国民劇場オーケストラの国外公演で行ったパリで印象派の音楽を知り、ルーセルのスコアに魅せられた彼は、その後、演奏活動の合間に図書館へ通い印象派の作品を研究しました。1922年スークのマスタークラスに入り作曲を学ぶことになった時には「ドビュッシーのように」作曲したいと語っていました。
翌1923年には奨学金を得て、念願のパリで学ぶこととなりました。

パリではルーセルに対位法を学び、フランス六人組やストラヴィンスキーなどの影響を強く受けた作品を作曲しました。

1929年、故郷ブルノの音楽院ヤン・クンツから作曲科の教授にと招聘を受けますが、これを断り、作曲に専念します。

この頃から作風は擬古典的なものとなり、故郷の民謡などを題材にバロック風の作品を書くようになります。

1931年、パリのカフェで知り合った縫製工シャルロットと結婚します。

1938年ミュンヘン協定が締結された後は、二度と故郷に戻ることはなかった。1940年、彼の名がナチスのブラックリストに載ったことを知ったピエール・フルニエやルドルフ・フィルクスニーの勧めでパリを離れ、スイスの友人パウル・ザッハーやエルネスト・アンセルメの援助でアメリカに渡りました。

Le train hante, H. 258
憑いている列車
1937年Le Train hanté (幽霊列車) H.258 は、1937 年のパリ万国博覧会




のために作曲されました。実際の鉄道輸送に特化したパビリオンもありましたが、この作品はアトラクション パークのさまざまなジェットコースターのような乗り物をテーマにしています。






9月

2024-09-26 21:08:00 | ロマン派
火曜日は塚口駅近くのt-raumで野田千晶先生のハープのレッスンでした。

涼しくなったので猫が帰ってきました。

夏の間どこにいたのかな?
t-raumのオーナーの飼い猫さんなので部屋の中にいたのかも。

過ごしやすくなってきましたが、ハープの方は、たどたどしく毎回冷や汗ものです。

和音、右手と左手で違う音などフルートの時と脳の違う部分を使っているような気がします。

過ごしやすく、ようやく9月になったような気がします。

ファニー メンデルスゾーン ヘンゼル(1805-1847年)自由都市ハンブルク生まれ、プロイセン王国ベルリン没 

は、1841年ピアノのための組曲「12の性格的小品 1年」を作曲
しました。

9月 「川にて」は、全曲にわたって川の流れを描写する三連符が繊細かつ優美に歌い続ける曲。
この曲だけは、「ピアノのための4つの無言歌作品2」の第2曲として生前に出版されています。

夫で画家ヘンゼルの挿絵
9月 あふれる流れよ
親愛なるムソー 私は決して幸せにはなりません




赤蜻蛉の詩 三木露風

2024-09-25 21:02:00 | 日本
三連休最終日、午後から西宮ギター練習会に参加した後、渡辺橋サロン ド プリンシパルでフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。

今津公民館から阪神で梅田に出てバスで移動

彼はやっぱり甲子園で降りました
11月10日に定期演奏会があるので必死ですが、私のバスフルートが鳴りません。
結局、キーの不具合が見つかってようやく自分の吹き方せいでは無いことが判明しました。

ネジが緩んでキーが浮いてしまう箇所があって、締めても少し吹くとまた緩みます。
榎田先生「ネジを締めてマニュキアか、アロンアルファで止めなさい!」となりました。

それからタッピングでパコパコ音がするということですが、それはタッピングしているせいではなく離した時にキーがどこかにあたって音がするのですが…
Cのキーが浮いているのでCを出そうとすると思い切り叩かないとキーが締まりません。…やっぱりタッピングしているか😅💦まいったなぁ〜!
終わったら小指が痛いです。

定演のアンコールの楽譜を初めて渡されました榎田先生編曲の「赤とんぼ」

この編曲は販売していなくて終ると回収されるのでここでしか聞けません。
ぜひ定演いらしてください!

「赤とんぼの歌詞の意味知ってるかな?」と榎田先生。

若いメンバーは歌を聞いたこと無いそうです。
「外国の例えばマーラーの「亡き子をしのぶ歌」なんて大げさなんだよ。
日本の「しゃぼん玉」なんかは悲しいんだけれど、亡くなった子どもをしゃぼん玉に託して風、風吹くな、と奥ゆかしいんです。」
「歌詞の意味を考えたら、そう簡単な演奏はできないはず」

「山田耕筰は東京の人だったから赤とんぼの「あ」が上に来るイントネーションであっているんです。」
「誰か歌詞を書いて送ってくれませんかね。」
ということで浅学ですが、調べてみました。

三木 露風(みき ろふう、1889年(明治22年)6月23日 - 1964年(昭和39年)12月29日)兵庫県龍野町生まれ、埼玉県三鷹市没

日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家。本名は三木 操(みき みさお)。

異父弟に映画カメラマンの碧川道夫。国木田独歩の曾祖母が三木家出身。その縁もあり1912年『独歩詩集』を刊行しました。

早稲田詩社結成に加わり、『廃園』(1909年)を刊行。ほかに詩集『寂しき曙』(1910年)、『白き手の猟人』(1913年)。

1889年(明治22年)6月23日、兵庫県揖西郡龍野町(現・たつの市)に父・三木節次郎、母・かたの長男として生まれました。

生家跡兵庫県たつの市
5歳の時に両親が離婚し、祖父の元に引き取られて育てられました。

小中学生時代から詩や俳句・短歌を新聞や雑誌に寄稿していました。

1905年(明治38年)に17歳で処女詩集『夏姫』を、1909年(明治42年)には20歳で代表作『廃園』

を出版し、北原白秋とともに注目されました。

龍野中学校(現・兵庫県立龍野高等学校)

で一年学んだ後、中退して上京。早稲田大学および慶應義塾大学で学びました。

1918年(大正7年)頃から、鈴木三重吉の赤い鳥運動に参加し、童謡の作詞を手掛けます。

『赤い鳥』創刊号表紙1918年

1921年(大正10年)には童謡集『真珠島』を出版しました。本書に収録された童謡「赤とんぼ」は、山田耕筰
(1886-1965年)

によって作曲されました。

1916年(大正5年)から1924年(大正13年)まで、北海道上磯町(現・北斗市)のトラピスト修道院

で文学講師を務めました。
その間の1922年(大正11年)、ここでカトリックの洗礼を受けクリスチャンになりました。

キリスト教の信仰に基づく詩集のほか、『日本カトリック教史』や随筆『修道院生活』などを著し、バチカンからキリスト教聖騎士の称号を授与されました。

1928年(昭和3年)より、東京都三鷹市牟礼に在住。以来1964年(昭和39年)に死去するまでの36年間、この地に居を構えます。

当時の三鷹は、桑畑や雑木林が連なる武蔵野の農村で、牟礼田んぼに霞がかかる田園地帯でした。この地の自然を愛した露風は、出身地である龍野町(現・たつの市)にある龍野城が別名「霞城」
と呼ばれたことから、牟礼に新築した自宅を「遠霞荘」と名付けていました。

旧居宅は1990年(平成2年)まで現存していましたが、現在は庭の松の木だけが残り、三鷹市により「三木露風旧居跡」として案内板が設置されています。

三木露風旧居跡
1963年(昭和38年)に紫綬褒章受章。

翌1964年(昭和39年)12月21日午前9時15分頃、三鷹市内の下連雀郵便局から出てきたところを、タクシーにはね飛ばされ頭蓋骨骨折で病院に運ばれ意識不明の重体となり、その8日後の12月29日午後3時35分頃に脳内出血により75歳で死去しました。

「赤蜻蛉」は、

赤とんぼ石碑(兵庫県たつの市)
三木露風が故郷の兵庫県揖保郡龍野町(現在のたつの市)で過ごした子供の頃の郷愁から作ったといわれています。
同年8月に雑誌『樫の木』
に最初に発表しました。
その後、12月に童謡集『真珠島』

で一部修正します。

この詩に、1927年(昭和2年)、山田耕筰が曲をつけました。

露風は1920(大正9年)、函館のトラピスト修道院の講師に就任します。
トラピスト修道院の初代院長であるジェラール・プーリエ院長(のちに、帰化が認められ、岡田晋理衛を名乗ります。)
岡田晋理衛(1859-昭和22年)
が、三木露風に講師を依頼しました。

同年、三木露風は婦人とともに函館にやってきて、函館トラピスト修道院講師に着任しました。翌1921年(大正10年)に2人は洗礼を受け、
「ふるさとの」詩碑除幕式での撮影
後列大塚徹、八木好美
前列吉川則比古、露風、なか夫人
この年に三木露風は「赤とんぼ」の詞を書いています。


1 夕焼け、小焼けの あかとんぼ
負われてみたのは いつの日か。

2 山の畑の 桑の実を
小籠に摘んだは まぼろしか。

3 十五で姐やは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた。

4 夕やけ小やけの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先。

三木自身が『赤とんぼの思ひ出(日本童謡全集S12)』に「・・・姐やとあるのは子守娘のことである。私の子守娘が、私を背に負ふて広場で遊んでいた。その時、私が背の上で見たのが赤とんぼである・・・」と書いています。
また、森林(もりりん)株式会社の広報誌に寄稿された 「赤とんぼのこと」 と題した三木露風の随筆に、

「これは私の小さいときのおもいでである。赤とんぼを作ったのは大正10年で、処は、北海道函館付近のトラピスト修道院に於いてであった。或日午後4時頃に、窓の外を見て、ふと眼についたのは、赤とんぼであった。

静かな空気と光の中に、竿の先に、じっととまっているのであった。それが、かなり長い間、飛び去ろうとしない。私は、それを見ていた。

家で頼んだ子守り娘がいた。その娘が、私を負うていた。西の山の上に、夕焼していた。草の広場に、赤とんぼが飛んでいた。それを負われている私は見た。そのことをおぼえている。北海道で、赤とんぼを見て、思いだしたことである。

だいぶん大きくなったので、子守り娘は、里へ帰った。ちらと聞いたのは、嫁に行ったということである。山の畑というのは、私の家の北の方の畑である。」


なので「姐や」は自分の姉ではなく、この家で子守奉公していた女中のことです。

「お里のたより」は、諸説あって女中の故郷からこの家に送られてくる便り、または、故郷に帰った女中からの便りなどの解釈、女中を介して実母から届く便りなどといった説があります。

「十五で姐やは嫁に行き」は姐や自身が15歳になった時にお嫁に行ったという説と露風が15歳になった時に姐やは嫁に行ったという説があります。

姐やは売られたという説は今はあまり取られていません。

しかし、貧しい家の娘は自分の意思で相手を選ぶことなど発想にも無く、嫁とは言っても子を成す道具で、同じように貧しい家の働き手として日々の労働に追われるまま、奴隷のように働き続け、手紙さえ書けなくなったということが「お里のたよりも絶えはてた」という歌詞に暗示されているような気がします。

最後に、「夕焼け小焼け」は、1919年(大正8年)に発表された中村雨紅の詩に使われている他に使用例があまりなく、語調を整えるために使われたもので意味はないということと、(『日本国語大辞典13』(小学館) (p362))
夕やけがだんだん薄れること
『新明解国語辞典』(三省堂) (p1427)の二説ありました。

今年8月31日の東京混声合唱団
田中信昭(1928年1月1日〜2024年9月12日)さん96歳の指揮、最後の演奏会での「赤とんぼ」





ギターエテュード

2024-09-24 21:00:00 | 近代
連休最終日は、今津公民館て西宮ギター練習会にギター川原さんと参加しました。

曲はバッハのバディネリ、モーツァルトのソナタop15の二楽章、イベールの間奏曲、ピアソラのリベルタンゴとアヴェ・マリアを演奏しました。

バッハはギター譜が見つけられなくて、ピアノ譜でした。
10月12日(土)光明寺お寺ライブでもするつもりですが、ギター譜を見つけるか?楽譜を作っちゃうか…もうちょっと考えなくちゃ。

モーツァルトはかわいい曲です。
7歳から10歳までに作った曲ですからロンドン旅行で出会ったバッハの末弟ヨハン クリスチャン バッハの影響も曲の中に見えます。
かわいいけれど簡単では無いですが…。

川原さんはソロでも弾いていましたよ。
マキシモ ディエゴ プホール(1957-)の
「9月」
タレガの「2人の姉妹」


他の人で、ヴィラ=ロボスの「エテュード」を弾いた人がいました。

これはなかなかの難曲でコンクールの課題曲にもなっているようです。
何人か果敢に挑まれていました。

エイトル ヴィラ=ロボス(1887-1859年)ブラジル帝国ブエノスアイレス生没
エイトルの父ハウル・ヴィラ=ロボス 
はスペインからブラジルに移住した大学教授で、またアマチュア音楽家でした。
母、ノエミアの父は作曲家のアントニオ・サントス・モンテイロです。
ハウルとの間に8人との子どもをもうけました。

ヴィラ・ロボス家は二階建ての家に住んでおり、一階に叔父と叔母が商店を営んでいて、二階にはハウルとノエミア、エイトルが暮らしていました。 叔父たちが営む商店では音楽家を招いたパーティが行われていて、エイトルは「トゥフ」というあだ名で可愛がられていました

しかし1892年、ハウルが職場のトラブルや、当時の副大統領への政権批判記事を新聞に掲載したことによる政治的危険性から、一家はリオ・デ・ジャネイロを離れ、ブラジル各地を転々とする生活を送ることになります。

1893年、最終的にリオ・デ・ジャネイロへと戻り、再び音楽家たちを集めたパーティが再開されます。

この時、就寝時間の言いつけを破って度々、音楽家たちのパーティを見に行きました。
また叔母はJ.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集
平均律クラヴィーア曲集第1巻自筆譜の表紙
を好んで弾いたと伝えられていて、エイトルのその後の音楽に大きな影響を与えました。

こうしてエイトルはハウルからピアノ、クラリネット、チェロを演奏することを学び、また演奏会などにもハウルに引き連れられ見学に行きました。

その後、独学でギターとサキソフォンを学び、作曲も1899年頃には記録に残る最初の作品が音楽家たちのパーティの中で発表されました。

1899年に当時ブラジルで流行していた天然痘によって父ハウルが亡くなります。

どうにか医学部のある大学へと進学させたい母ノエミアの反対を押し切って、エイトルは16歳の時に家を出て叔母の家に移り住みます。
その後、ギターのレッスンなどで収入を得つつ、演奏家としての活動を始めます。



1905年にはブラジル北部に民謡の収集に出かけ、1907年には税関の警備員などをし、1908年にはパラグアイを拠点に演奏活動を続けました。

1913年にはピアニストのルシリアと結婚しました。

ルシリア

1915年から1917年にかけて多くの室内楽作品や管弦楽作品などを作曲し、また自作品だけの演奏会も度々企画して興行を行いました。

1922年には「近代芸術週間」や「独立百周年記念博覧会」などで主に室内楽を中心に作品が演奏され、イベントの前衛的な趣旨と相まって、前衛作曲家としての地位を高めていきます。

こうした活動がダリウス・ミヨー

やアルトゥール・ルービンシュタインを通じて認められ、政府の奨学金を得て、1923年にパリへ留学します。 

この頃に書かれた作品として、ヴァンサン・ダンディの手法による3つの交響曲 (交響曲第1番から第3番)、3つの戦争交響曲 (交響曲第4番から第6番)、ヴァイオリンとピアノのための幻想曲第1番などがある。

1923年にはアルトゥーロ ルービンシュタイン(1887-1982年)

によって「赤ちゃんの一族」第1集が上演されたほか、同第2集、ノネット、ピアノ三重奏曲などが上演され好評を得ます。

またルービンシュタインの紹介もあり、音楽出版社であるマックス・エシック社との契約が結ばれ、声とヴァイオリンのための組曲などが出版されます。
その後、資金が底を付き、ヴィラ=ロボスは一旦、ブラジルに帰国することになります。ヴィラ=ロボスの代表作ショーロスの多くはこの時期に作曲されました。

その後、カルロス・ギンレの資金援助を受け、再びパリを拠点に活動を再開します。
この時期にはショーロスを始め、多くの作品がパリで上演され、パリでもヴィラ=ロボスの名が知られるようにななります。

またエドガー・ヴァレーズやレオポルド・ストコフスキー、セルゲイ・クーセヴィツキー、アンドレス・セゴビアなどの著名な音楽家たちと交友関係を築いたのもこの時期です。

セゴビアとヴィラ=ロボス

しかし、1930年革命により、金銭難に陥ったため留守にしていたパリのアパートから立ち退きを余儀なくされます。この時に、2つのショーロス(第13番と第14番)を含む多くの作品の自筆楽譜と筆写譜が失われたと考えられています。

ブラジルに帰国後、サンパウロ州を統治していたジョアオ・アウベルト・リンス・ジ・バホスよりブラジル内陸部でクラシック音楽のイベントを行うよう要請されます。

このイベントは「ヴィラ=ロボス芸術ツアー」と命名され、サンパウロ州、ミナスジェライス州、パラナ州などを巡りました。

1932年には25歳年下の音楽教師アルミンダ・ネヴェス・ダウメイダと愛人関係になり、ルシリアとの婚姻関係の解消を巡り裁判沙汰にまで発展します。

1933年には、ジェトゥリオ・ヴァルガス政権が設立した音楽芸術教育庁の初代長官に就任します。

1940年代になると、アルゼンチンやアメリカなど南北アメリカ大陸を中心に渡り歩き、各地で講演や自作の演奏会などを行いました。
1945年にはブラジル音楽アカデミーを設立し、初代会長に就任しました。

1948年には膀胱がんと診断され手術が行われます。以降、入退院を繰り返しながらも、戦後のヨーロッパやアメリカ、イスラエル、フィンランドなど世界中を巡り、自作の演奏会などを行います。
1959年、故郷リオ・デ・ジャネイロで72年の生涯を終えた。

ヴィラ=ロボスの没後、アルミンダはブラジル大統領ジュセリーノ・クビチェクに掛け合い、ヴィラ=ロボス博物館を設立、初代館長に就任しました。

1928年ギターのために書かれた「12曲の練習曲」(エテュード)はバッハの平均律クラヴィーア曲集に影響を受けています。

練習曲第1番、第7番、第8番は1947年3月5日、アンドレス・セゴビアによってマサチューセッツ州ウェルズリーのウェルズリー大学で初演されました。
第2番。
Leonora Spangenberger13歳が演奏しています。


合唱交響曲

2024-09-23 22:16:00 | ロマン派
土曜はプロージットオーケストラ、合唱団と初めての合同練習でした。
チェロも7台。

初めはオーケストラだけで献堂式と第九の第1、2.3楽章を練習しておいて、後半第九の第4楽書を合唱と合わせます。その後ミサ・ソレムニス。

大雨の中、コントラバスや打楽器を運ぶの大変です。他にもいろいろ事情がある人もいますが
みんなで集まれるだけでも奇跡です。
合唱団の人たちは毎週集まって練習し、すべて暗譜されているそうです。
すごい!

トレーナーの先生は繊細に音楽を組み立てられるタイプの方で私としてはありがたいです。

合唱交響曲(がっしょうこうきょうきょく、仏: Symphonie chorale)は、内容的、全体の音楽構造はおおまかに交響曲形式を踏まえつつ、管弦楽、合唱、そして時に独唱者のために書かれた音楽作品のことです。

「合唱交響曲」という用語はエクトル・ベルリオーズ(1803-1869年)フランス第一共和国パリ生まれ、フランスパリ没

が自作の『ロメオとジュリエット』において用いた造語でした。

これにじかに先立つ合唱交響曲はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番のみです。

これが主要作曲家が交響曲の内に楽器と同じ水準で人の声を使用した最初の作品になりました。

続く
劇的交響曲『ロメオとジュリエット』(Roméo et Juliette)作品17(H.79)はエクトル・ベルリオーズが作曲した交響曲。「合唱、独唱、および合唱によるレチタティーヴォのプロローグ付き劇的交響曲」(symphonie dramatique)と銘打っている通り、大編成のオーケストラに独唱、合唱をともなう大規模な作品です。

シェイクスピアの悲劇『ロメオとジュリエット』を題材としています。
7部1時間33分からなりますが、ここでは最後の部分だけ。

終曲
ロミオとジュリエットが亡くなった墓地で両家の人々がまだ争い、口汚く罵り合うのをロレンス神父が止めます。
「黙りなさい!あれほどの愛を前に、激しい憎悪をぶつけ合うとは?」というロランス神父の声をきっかけとして、両家の合唱はようやく和解のトーンを見せていく。そして、二人の愛の奇跡を讃え合い、その「運命に涙せずにはいられない」と歌い、両家の人々は改心し、永遠の友情を誓い合います。


家庭のミューズ

2024-09-22 21:13:00 | 近代
土曜午後からギターの川原久美子さんと合わせでした。

9月23日(月 祝日)今津公民館で13:00〜西宮ギター練習会でバッハの管弦楽組曲バティネリ、モーツァルトのフルートソナタK.14の第2楽章、イベールの間奏曲、ピアソラのアヴェ・マリアを演奏します。

ドライベジタブル買ってきてくれました。
これヘルシーで美味しいです。
オクラは食べたらぬめりが出てきます。

お返しの肉球フィナンシェ。
先週末知恩寺手作り市で買ってきました。
これ見た途端、川原さんのことが頭に浮かびました。
だって川原さんスペシャルな猫好きなんです。
猫のはるおさんを飼っているだけでなくほら今回も…

にゃんこのイヤリング!

ダリウス・ミヨー(1892-1974年)フランス共和国エクス=アン=プロヴァンス生まれ、スイス ジュネーブ没

アーモンド取引で財をなした富裕なユダヤ人の家庭に生まれます。父は商館をとりしきるかたわら地元の音楽協会の中心人物を務め、母はかつてパリで声楽を学んでいました。
生まれつき小児麻痺を患っていたため、車椅子を使っていました。

1920年代以降はリウマチにも悩んでいました。

パリ音楽院で作曲を学びます。
1914年第一次世界大戦では健康上の理由から従軍を免れます。
しかし、戦争と関わる仕事を求めて「フランス・ベルギー親善協会」(亡命者の受け入れや援助などを行うための組織)で働きます。

1915年ブラジル大使になり2年間ブラジルて過ごします。
1918年には連合国経済使節団のフランス代表となったポール クローデル(1868-1955年フランスの劇作家、詩人、外交官。外交官としては駐日・駐米フランス大使などを歴任)

に従ってアメリカまで同行し、そのままニューヨークを経由して1919年にフランスに帰国します。
そこで、「フランス6人組」

ジャック=エミール・ブランシュ『6人組の面々』(1921年)。中央はピアニストのマルセル・メイエ。左側、下からタイユフェール、ミヨー、オネゲル、ピアニストのジャン・ヴィエネル。右側、左上がプーランク、隣がジャン・コクトー、下がオーリック。デュレはこの頃すでに6人組から離れていたため描かれていない

として知られるようになります。
1920-30年にはリューマチの進行に苦しみながらも作曲した曲が評価されるようになり、映画音楽にも手を出し人気を博します。

1940年、ユダヤ人だったミヨーは、前年に始まった第二次世界大戦を避けるためにアメリカ合衆国に逃れます。

合衆国では、カリフォルニア州のミルス・カレッジ

で作曲を教えつつ、サンフランシスコ交響楽団、シカゴ交響楽団、ニューヨーク・フィルハーモニック、ボストン交響楽団などで客演指揮を行いました。

この中には、シカゴ交響楽団創立50周年のための委嘱作品『交響曲第1番』(1940年)や、クーセヴィツキー夫人ナタリーを追悼するためクーセヴィツキー財団による委嘱作品『交響曲第2番』(1944年)の初演が含まれています。

1944年作曲の「家庭のミューズ」op245は、ピアノの独奏のために作曲されました。後にオーケストラに編曲されました。

作曲の経緯なとはよくわかりませんでした。

ダリウス・ミヨーは
1925年、幼少から知り合いで従姉妹のマドレーヌ(1903ー2008年)と結婚しました。

1925 年 5 月 4 日、結婚式当日のミヨー家。@ ミヨー アーカイブス
彼女は、80年間パリの文化生活の中心にいた俳優兼脚本家で、結婚後ミヨーがリューマチを患い車椅子に乗っていたことから常に彼の後ろにいで車椅子を押していました。

1930年には息子ダニエルをもうけます。
1940年5月にドイツ軍がパリの射程圏内にまで迫ったとき、オペラ座はミヨーの『メディア』の初演を行っていました。
マドレーヌはセネカ、エウリピデス、コルネイユの文章を引用して台本を書きました。

しかし、音楽には高射砲の音が伴い、3回目の上演でオペラが中止されると、マドレーヌはダリウスに フランスを去るよう促しました 。

「あなたのためにできることはたくさんあるわ。でも、わたしはあなたを背負って隠すことはできないのよ」

と、彼らは10歳の息子ダニエルとともに、リスボンを経由してアメリカ合衆国に着きました。

その後戦争が終わるまでそこで暮らしました。

マドレーヌはラジオ劇の朗読をしたり、台本を書いただけでなく、文化人との広い交友も知られています。

ジッド、クローデル、コクトー、サンドラール、マルローなどの人気作家、レジェ、ピカソ、マッソンなどの画家、ルノワール、カヴァルカンティ、レルビエなどの映画監督と交流しました。

夫の死後105歳まで生きたマドレーヌはフランスの文化人を知る生きた情報源で、話し上手な人だったそうです。
フランス語ですが、彼女のインタビュー動画が残っています。

Mはマドレーヌのことでしょう。
家庭では息子が絵を描き、猫を飼い、台所では食事の用意がされ、洗濯したり、花が飾られていたり、病むときには看病。
音楽を合奏したり、友人たちと夜の集いをしたり、トランプ占いに興じたり「家庭のミューズ」(家庭の女神)はミヨーに安らぎと安定を与え、作品を書く原動力となっていたようです。

「家庭のミューズ」op245
第1曲 私のもの – M.M.M.M. に捧ぐ
第2曲 目覚め
第3曲 家事
第4曲 詩情
第5曲 台所
第6曲 家の中の花
第7曲 洗濯
第8曲 音楽の合奏
第9曲 絵を描く息子
第10曲  猫
第11曲 トランプ占い
第12曲  看病
第13曲 夜の集いの楽しみ
第14曲 夜の読書
第15曲 ミューズへの感謝

第10曲 猫






300年の命マクロブロス事件

2024-09-21 22:39:00 | 国民楽派
ミヤコグサ。
病院の駐車場に咲いていました。

病棟の待合室で待っていると、目の前のエレベーターホールにベッドごと降ろされて来ました。
全身麻酔で前回は爆睡中でしたが、今回は少し目が覚めかかっているみたいで、頭上の手術着の先生と話すと薄めを開けたり、首を振ったりしました。
『よかった!大丈夫。』

先生も「無事、終わりました。」
と、言ってくれました。

まあ、簡単な手術だから…でも前回の失敗もあるから…。
とにかく無事終わってよかったです。
明日以降いつ帰っても良いそうです。

レオシュ ヤナーチェック(1854-1928年)オーストリア帝国モラヴィア辺境伯フクヴァルディ生まれ、チェコスロバキア オストラヴァ没

1923-25年の間に作曲したオペラ「マクロブロス事件」
ヤナーチェックは年下の既婚女性カミラ・シュテッスロヴァ

への熱狂的な偏愛から着想を得て書かれました。
第1幕
コレナティ法律事務所、プラハ、1922年

コレナティの書記官は、グレゴール対プルスの遺言検認訴訟がほぼ 1 世紀にわたって続いていることに気付きます。

コレナティは、裕福で貴族的なプルス家に対して中流階級のグレゴール。

アルバート グレゴールが訴訟について質問にやってきます。

書記官の娘クリスティーナは若いオペラ歌手で、リハーサルで見た有名な歌手エミリア マーティを褒め、「自分はエミリア マーティのようなアーティストにはなれない。」と認めます。

エミリア・マーティ

がグレゴール事件に興味を示して入って来たので、コレナティは彼女に事件の概要を説明します。

ジョセフ・フェルディナンド・プルス男爵は1827年に亡くなり、遺言書も嫡出子も残しませんでした。
男爵のいとこが財産を主張しましたが、アルバートの先祖フェルディナンド・グレゴールも、男爵が彼に財産を約束していたと主張しました。

各当事者は実際の遺言書を提出できません。
ここでエミリアが口を挟みます。
彼女は昔の出来事について異常なほど詳しく話し、「フェルディナンド・グレゴールはジョセフ ブルス男爵とオペラ歌手エリアン・マグレゴールの私生児です。」といいます。

コレナティは、遺言書がないので、この事件は男爵のいとこ側が有利のようだと言います。

エミリアは、「遺言状は実際に存在する。」と言い、「プルス邸の古い戸棚にその文書があるかもしれない。」と語ります。

コレナーティは調査に行き、アルバートはエミリアに、「もし財産を受け取れなければ無一文になって自殺する。」と言います。
アルバートはエミリアに夢中で、彼女に言い寄ります。
しかし、エミリアは無関心で冷たく彼を拒否します。
しかし、彼女は遺言書と一緒に見つかる文書の回収に協力してほしいと頼みます。

コレナティはヤロスラフ プルスと共に戻ってきます。
彼らはエミリアが言った場所に遺言書を見つけ、ヤロスラフは「フェルディナンド・グレゴールが男爵の私生児であることを証明できれば勝利だ。」とアルバートを祝福する。エミリアは「それを証明できる。」と言います。

第2幕
オペラハウスの空っぽの舞台

舞台係と掃除婦がエミリアの素晴らしい演技について話し合う。ヤロスラフ・プルスが息子ヤネクとクリスティーナを連れてエミリアを探しにやってきます。
クリスティーナはヤネクと交際中ですがヤネクはエミリアに夢中。
エミリアが入ってきますが、ヤネクや高価な花を持ってきたアルバートなど全員を拒絶します。

老いたハウク=シェンドルフ伯爵が入ってきて、「エミリアは半世紀前にアンダルシアで情事があったロマの女性、エウジェニア・モンテスだ。」と言います。

エミリアは伯爵に「エウジェニアは死んでいない。」と告げ、スペイン語で彼を愛称で呼び、キスを求めます。

ヤロスラフはエミリアがなぜ自分の家族に興味を持っているのか説明を求め、男爵の子どもの母親はエリーナ・マクロプロスと記録されていることを明かします。
エミリアは「エリーナは彼がラブレターを読んだエリアン・マクレガーと同一人物かもしれない。」とほのめかします。

「フェルディナンド・マクロプロスの子孫だけが財産を主張できる」とヤロスラフは告げます。

エミリアは遺言書と一緒に見つかった謎の文書を買い取ると申し出ますが、ヤロスラフは拒否して立ち去ります。

アルバートが戻ってきて再び愛を訴えますが、エミリアは眠ってしまいます。

エミリアは文書を取ってくるようにヤネクに頼みますが、これを耳にしたヤロスラフはヤネクに立ち去るように命じ、「エミリアが彼と一緒に夜を過ごすなら、文書を提供する。」といいます。

第3幕
翌朝のエミリアのホテルの部屋

エミリアとヤロスラフは一夜を共にします。エミリアの冷たさにがっかりしながらも、ヤロスラフは書類の入った封筒を彼女に渡します。
息子のヤネクがエミリアに夢中になり自殺したという知らせが届きます。

ヤロスラフは悲しむが、エミリアは無関心。
ヤロスラフが彼女の反応に怒りを表明する間もなく、ハウク=シェンドルフ伯爵が入ってきます。
ハウク=シェンドルフ伯爵は「妻と別れ、エミリアとスペインへ駆け落ちしたい。」と言います。

アルバート、コレナーティ、クリスティーナが医者を連れて入ってきて、ハウク=シェンドルフ伯爵を連れ去ります。

コレナーティはエミリアの筆跡がエリアン・マグレガーの筆跡と一致していることに気づき、偽造を疑います。
彼女は「朝食を食べたら全てを明らかにする。」と言います。

残りの一行は彼女の書類や所持品を捜索し始める。捜索隊は多くの書類や記念品を発見するが、それらすべてに「EM」というイニシャルがついた名前が記されています。

ヤロスラフは、「フェルディナンドの出生証明書にあるエリーナ・マクロプロスの筆跡もエミリアの筆跡と一致している。」と言います。

エミリアは真実を話すことにします。

彼女はエリーナ・マクロプロス、



1575年生まれ、皇帝ルドルフ2世の宮廷錬金術師ヒエロニムス・マクロプロスの娘です。
ヒエロニムスは皇帝に、寿命を延ばす薬を作るよう命じられます。
薬が完成すると、皇帝は錬金術師に、まず娘に試すよう命じます。
彼女は昏睡状態に陥り、ヒエロニムスは刑務所に送られました。

1週間後、エリーナは目を覚まし、処方箋を持って逃げ出しました。
彼女はそれ以来3世紀にわたって放浪生活を送り、史上最高の歌手の一人となりました。

彼女は長生きであることを隠すために、「ユージニア・モンテス」、「エカテリーナ・ムイシュキン」、「エリアン・マクレガー」など、さまざまな名前を名乗りました。 

自分の秘密をジョセフ男爵に打ち明け、その調合法を彼に伝えました。
男爵はそれを息子への遺言に添付しました。しかし、その文書は男爵の死後、彼の書類の中に紛れ込んでしまいました。

薬の効き目がついに切れるエリーナは、さらに 300 年の命を得るための処方箋を望んでいました。

彼女の顔に老化の兆候が現れると、最初は彼女の話を信じなかった他の人々も、次第に彼女の話を信じ、哀れみを感じるようになります。

エリーナは、永遠の若さが疲れ果てた無関心を招いたことに気づき、喜びと目的意識は生まれつき短い人生から生まれることを理解して、自然に死を迎えることを決意します。

驚く見物人の目の前で急速に老いていくエリーナは、クリスティーナに処方箋を提供し、彼女自身が偉大な芸術家になるように言います。

しかし、クリスティーナは羊皮紙をろうそくの炎で燃やします。
エリーナはギリシャ語で主の祈りの最初の言葉を暗唱しながら最後の眠りにつきます。