紫紺野牡丹。子どもの頃、すんでいた家に植えていました。とっても懐かしい。
茶花にしてもいいような風情だと思っていましたが、調べてみたら、スパイダーフラワーの異名をもつ、ブラジル原産。耐寒性のある熱帯植物です。ちょっと、イメージが違う?
子どもが小さい頃、急に静かになったので、何かと思って覗いてみると、セロテープを切っては、グルグルと丸めて、新聞紙の上にくっつけ、また切っては丸め、立体の物体を作っているのです。
ただのモコモコした、物体のように見えますが、丸め方や、くっつける場所、くっつける強さなど、何か彼独特の美学があるようで、丸めなおしたり、つけかたを検討したり、一度くっつけたものを、また取って、付けかえたり。
その真摯で、集中していること。テープの無駄使いを、止める前に、その純粋な創造の姿に思わず手を合わせて祈りたくなりました。
アートって、作りあがった作品に、この楽しい思考のプロセスが見えるから、みんな共感して、感動するのじゃないかな?
立派なものを作り上げることでもなく、作品を残すことでもなく。
暑い日が続きますね。
土日は、次男の水泳部は、朝から練習。日曜日は市内の高校で大会がありました。プールに入れるから涼しいだろう。と言ったら、
「なにいうてんねん。水温は30度。今年、二人熱中症で倒れてんぞ!」
聞いてみないと人の苦労はわからないものです。
夏休みが終わって、ほっとしています。朝、レッスンの後。
午後は時間があったので、楽譜を探しをしました。ネットで、いろんなサンプル楽譜が検索できます。サン=サーンスのロマンスと、シャミナーデのエトワール。ポップのファウストの主題によるファンタジー、ケーラーのカヴァレリア・ルスティカーナなど、以前から欲しかった楽譜や、珍しい楽譜をたくさん見つけては、吹いてみて、わくわくした時間を過ごしました。
今週からは、もうちょっと、音楽に集中できる時間が増えるかも。
楽しみです。
ピンクノウゼンカズラ、南アフリカ原産。ノウゼンカズラも650種類もあるそうです。近所で、殺風景な鉄のフェンスを飾っていました。
午後、20代後半の生徒さんを教えていると、アナログの懐中時計を出してきたので、時計の話になりました。
彼女はアナログの時計がとっさに読めない時がある。と言っていました。
「生まれた時から、デジタル時計で育ったので、学校で習ったから読めるけれど、よく考えないとわからないんです」ということでした。
そういえば、小学生の勉強を見ていると、2年生、時計のところで、大混乱。
0から、2までが10分。じゃあ、2から4は?というと、また一から数えなおす子どもが多いです。同じ幅じゃない?といってもキョトンとして、ピンと来ない。
使わない能力は、育たない。
デジタル時計がある、計算機がある、自動翻訳器がある。今は、その使える手をしばっておいて、わざわざ不便さを自分に課すことで、能力を身につけなくてはいけません。
今の、子ども達に一番必要な能力は、不便さを楽しむ能力かもしれない。
鶏頭の花。小学生の頃、毛糸だと思っていました。花がフワフワな、アクリル毛糸かビロードのようにきれいだからかな?と思っていました。鶏の頭だと知った時はショック。鶏には悪いですが、「あんな醜いもの!毛糸の方がきれいなのに。」と勝手に思ってました。
ついに夏休みが終わり、新学期が始まりました。
といっても、子ども達は11時30分には帰って来て、児童会でお弁当を食べました。
明るくて、良い話をいつもしていたいですが、なかなか現実は厳しいです。
私達の中に、無邪気で、無知なことを尊び、愛でる気持ちがあることが、子ども達の成長を妨げ、暴力を容認する結果を招いていることを最近良く感じます。
大勢の子ども達がいる部屋の中で、固い積み木を無邪気に投げて遊んだら、どうなるか?
蛍光灯のある部屋でドッジボールを投げたらどうなるか?
積み木が子どもに当たったり、床の上で遊んでいる大勢の子ども達の上に蛍光灯の破片が落ちてきたら…。
なんてことを考えたり、感じたりするのは、誰か他の人の役割で、自分は考えなくていい。
大人の世界と子どもの世界は、本当に相似形。
自分の飲む安いコーヒーの豆が、インディオの子ども達を貧困に落とし、教育の機会を奪っているのかも?とか、儲かる投資先が、武器輸出をしていて、少年に人殺しをさせているのかも?
なんてことは、知らなくても良いし、考えなくてもいい。
「自由を生きるものは、自律していなくてはいけない。自律とは、自分の欲望を自分でコントロールし、自分のしたことの責任は自分で引き受ける。自分と同じような権利を他の人にも保障するということ。」4年生位の頃、学校の先生から聴いた覚えがあります。
私が大人になる頃には、もっと、自由で、すばらしい世界が広がっているんだろう。と思った覚えがあります。
自由を自分で律することが出来ない人が増えると、規制や、罰則を増やさないといけなくなります。放任は結局、自分たちの自由を狭める結果を招きます。
自分の頭で考えること、どこにいても、誰に見ようと、見られていまいと、守る規律を持つこと。社会が赦しても、自分は自分には赦さないというほど、厳しい規準をそれぞれの個人が持つほど、自由と民主主義は輝く。だから私は、そうありたい。
暑い暑い梅田3時頃。それでも、お初天神を吹く風が心なしか涼しいです。
・・・枚方に比べると涼しいだけかも。ニュース番組で枚方が暑いのは、海から吹く、涼しい西南西の風が山でさえぎられているからだそうです。
今日も、エレルトの9番と、テレマン無伴奏の2番。
ゆっくり丁寧にと心がけて、演奏していると、「ゆっくり丁寧に演奏しようと気をつけながら演奏しているね。」そのとおり。
「それはいいよ。だけどね、どんな音を出す時も、音楽にしなくちゃ。」
「音楽、musicと言う語源は、神に捧げるという意味があるらしいね。それは一つには、誰かに聴いてもらう。自分の中だけでなく、客観的に自分の演奏を聴くということもあるんだと思うよ。」
スタカートに「どんな音にも方向性を持って、ピンポン玉を床でついているのをイメージしてごらん。まっすぐ同じ位置でトントンつくのもあるけれど、いろんな角度でついたら、どちらへ行くか、方向性が出てくるでしょう。こんな角度で飛んでいくのとか、あんな角度で飛ぶのもある。」と言われました。
減衰の長さや、大きさかと思い、うまくいかなかったので、悩んでいたことを思い切って質問してみました。
「それは、入るときの角度も、違うと言うことでいいのでしょうか?鋭角に飛ばす時は、鋭角に入り、鈍角に飛ばしたい時は鈍角に入るといった感じでしょうか?」
「そうそう、入るときも違うんだよ。」
そうか、だから一つ一つ大切に出すって言うんだ。
言葉でわかっていることと、具体的にそういう状態を作り出すのでは、全く違います。そう言われると、いまさらながら、音の始まりから、終わりまでを、良くは聴いていなかった自分に愕然とします。
しかし、よかった。ヒントをつかめました。
朝顔、きれいな青い色は、浜の空。赤紫色の方は、浜の輝。
奈良時代遣唐使が持ち帰った朝顔の種は、江戸時代に大流行し、さまざまな品種が生み出されたそうです。熱帯アメリカからと、東南アジアから入った種類がありますが、これは、アジア産。通常日本朝顔と呼ばれます。
夏休み最後の一日勤務。
休暇で休む職員の替わりで入りました。
3年のAくんは、軽いパニック障害があります。お母さんは心配されていましたが、1年の時から見ていて、パニックを起したり、誰かとトラブルを起して大変だったり、暴言を吐いたりしたことは一度もありません。
初めの頃は、いつも一人でいるので、気になって声をかけたりしました。
いきなり誰かが、Aくんの遊んでいるおもちゃを取り上げていったりすると、「ぼくが、使っていたんだけれど、どうして急に持って行ったのかわからないんだけど?」と責める様子もなく、本当に不思議そうに言います。すると、相手の子は、急に我に帰って、「ごめん。」とおもちゃを返してしまいます。
ボールを持っても、走っても、少し人よりゆっくりなので、誰も誘いません。
遊んでいて、誰かが「入れて。」と言ってくると、「いいよ。」と気分よくいれます。
何人かになって、遊んでいるうちに中の、誰かが誰かともめだして、みんなが興奮して、せっかく作り上げたブロックや、家をこわされてしまったり、理不尽に遊びがメチャクチャになってしまった時も、
決して争いごとの中に入らず、
「うまくいかなかったねぇ。何でBくんは怒ったのかなあ?せっかく作ったのに残念だったね。」
と怒ったようすもなく、静かに、本当に不思議そうに考えています。
一緒に遊んでいたおもちゃを散らかしたまま、どこかへ行ったほかの子を、責任をとってもらおうと探していると、「いいよ、いいよ。先生、ぼくが片付けておくよ。」と丁寧に片付けてくれます。
誰かがけんかしていると、「先生。」と私の手をつんつんとつついて教えてくれます。行って見ると、当事者も、周りの子も、みんな感情的になって「あいつがわるい。」「こいつがこんなこといってたからや。」と口々に大声で叫んでいるのに、Aくんに聞いてみると「Bくんが、Cさんにばかっていったから、Cさんが泣いて、DくんがB君を蹴飛ばしたら、Bくんが泣いてしまったんだ。」と冷静に、事実を淡々と教えてくれます。
おとなしいから力が無いと、みんなに思われていますが、1年の時、「鉄棒ができないんだ。」と、言うので、「ウンテイとか、のぼり棒とかしている内に、だんだん腕やお腹の筋肉が強くなってできるようになるよ。」というと、本当に毎日少しづつ、練習して、鉄棒もできるようになり、力も結構ついてきました。
今日は、1年生の子が、鉄棒をできなくて困っていると、さりげなく足を持ってあげたりして、出来るように教えて、出来るようになると手を叩いて自分のことのように喜んでいます。
Aくんを見ていると、障害のある無しや、周りの環境や、年齢は、美しい生き方をすることと、全く関係は無いんだなぁと思います。
おとなしく、安全に遊んでくれる子は、ついついそれだけで、安心してしまってそれ以上に見ようとしないけれど、こういう子どもこそ、大人は注目と、関心を寄せて、学ばせてもらうことが大切。きっと平和な世界の実現は、こういう子どもが増えることに掛かっているのだと思います。たぶん。
さるすべりは、百日紅。この花は千日紅といいます。切花にして長持ちするのでこの名前がついたとか。千日もつとすると、3年!まさか。ドライフラワーにして色あせないと言う説もあります。中国では簪にしたとか。熱帯アメリカ地方原産。やっぱりこういう花が元気なのは、大阪が熱帯化している証拠かも。
フルートを吹くだけでなく、仕事にしても、勉強にしても、趣味にしても、それをやる良い条件や、環境が揃うのは稀(まれ)です。
身体的能力、住宅環境や、お金、時間、教育、家族の理解。欠けている場合の方が、多いです。
奇跡的に条件が揃っているからといって、続くとは限らない。でも、ある人は続け、ある人は辞めてしまいます。
どうしたら、練習し続けられるのでしょう?
息子が10歳頃。「何かが得意になるにはどうしたらいいのか?」
みんながそれを得意になるように新聞を書きなさいという、課題を出されました。
参観の時、息子の新聞を読んでみると、虫好きで当時、「虫博士」と呼ばれていた彼は、「虫が得意になるにはどうしたらよいか?」について、書いていました。
そこには「①まず、虫をよく見る。そして、好きになる。」とかいてありました。
それから、
「②飼ってみる。」
「③虫のことを調べる。」
手のひらに虫をのせている絵が描いてありました。
当時はおかしくて、仕方ありませんでしたが、最近、案外そんなものかもしれないと思います。
どんな習い事や仕事も、初めからどんなものかを全てを知ってはじめる人はいません。
それは、「愛する」とか「信じる」とか言うのと同じような気がします。
相手のことや、対象に関心を持ち、興味を持ち続け、具体的に生活のなかでそれを現し続けること。
世界に向かって心が開かれている子ども達は、あらゆることに、関心があります。
それは永遠の「?」マーク。
「どうして?」「なぜ?」「なんで?」「やらせて。」「こうやるの?」
興味が持てなくなったら、人は言い訳を探し出します。「お金がない。」「時間が無い。」etc.
でも、もしかしたら、それは、ワンパターンに陥った。一つのやり方に固執してしまったのかもしれないし、わかった気になってしまったのかもしれない。
今の世の中、あらゆることにチャレンジすることができるし、嫌になったら何でも他のものや、人に移ることもできる。
でも、人間の命の長さには限りがあり、愛する時間の限界はそう昔と変らない。自分の費やした時間や、人を使い捨てていると、人生が荒れてしまう。
今の社会、そうやっている人や、時間が多すぎる気がします。
好きになったら、その自分の気持ちを信じて関心を持ち続けることが、人を潤おし、豊かにすると思うのです。
そして、そういう自分を創り続ける努力をすることが、人生を意味あるものにすると、思うのです。
芙蓉の花は一日だけ、大輪の花を咲かせ、受粉してしぼみます。どんな虫がくるのか?と思っていたら、偶然見つけました。蜜を夢中になって集める熊蜂の足には、花粉がたくさんついていました。
天気予報では36度でしたが、運動場に先生の一人が温度計を持って行って測ったら50度・・・。それでも、今日はお客様が来て、かわった折り紙の折りかたを教えてくれたり、絵本を読んでくれ、その後、ドッジボールをほとんどの子ども達がたのしみました。
暑いというより、太陽が痛い。
残暑はまだまだ続くようですね。
音楽をしていて良いことは、どんなに理論や、説明を聞いて、わかったと思っても、自分の身体を通してしか音は出ないこと。
流行や、新しいものがどんどん出てくる時代に、みんなが聞きなれたクラッシック。誰もが演奏してきた同じ一枚の楽譜、一曲、一音。
どれだけ時間をかけたか?どれだけ大切に演奏しているか?どれだけ深く考えたか?そういうことが表現されていきます。
おもしろいのは、誰でも、何歳からでも、やればやっただけの成長があること。
今まで思ってもいなかった可能性や、能力を開いていく。
やっただけの自信。こういう自信は、鼻高々の虚構の自信とは違い、人を謙虚にし、前向きにします。音楽は聴く人以上に、練習する本人に効用があると思います。
ひまわりは、夏の定番。おなじみの花なので、良く知っていると、気軽に調べてみたら、その種類は100種類以上あって、この花がその中のどれにあたるのか?
たぶんサニーハイブリットでは無いかと思いますが良く似たのもあって、画像だけでは自信ありません。調べていると、モネのひまわり、ゴーギャンのひまわり、ゴッホのひまわりという種類もあって、楽しくなって画像を次々ひらいてしまいました。
今日児童会は1時、お昼寝からはいりました。
今日は加配の子ども達が出席だったので、1年女子Aさんにつきました。
感情のコントロールが難しいこどもにとって、狭い場所で大勢の子ども達とソデ触れ合うこの環境は刺激が多すぎ、最悪ともいえます。
4月には、運動場をグルグルグルグル何週しても、止まらない。5時から部屋に入っても、二クラスの部屋を何往復したでしょうか?それもすごいスピード。
あちらで、けんかが起きれば、飛んでいって加勢し、怒っている子がいれば輪をかけて怒り、殴ったり蹴ったり、罵詈雑言。
出て行く子がいれば、自分もついて校舎の中をおもしろがって逃げ回ります。
遊びたいおもちゃがあれば、誰が使っていようとお構い無しに手を出して、けんかになったり、突き飛ばされたり、泣かしたり。
人の使っているものに手を出しかけたら、「貸してっていうんだよ。」
相手が貸してくれたら「ありがとうっていうんだよ。」
「Aさん、順番に使おうね。どうやって順番を決める?」
殴りかけたら、「お口で話し合うんだよ。」
「静な穏やかな声で話してね。」
ことあるごとに、伝えます。
今日はお帰りの前にトラブル。
Aさんは同じ障害のBくんが、捕まえたバッタを放そうとしているところに、出くわしました。
バッタを上に投げて放そうとしたら、戻ってきました。すると、Aさんは、「やめといたり!」と大きな声でBくんに言いました。それを無視したように、Bくんはもう一度バッタを捕まえて、高く投げて放しました。
Aさんはそれを見ると、Bくんに飛び掛っていってお尻を蹴り上げました。Bくんは「なんやねん!」と言いながら、走って逃げましたがAさんは収まらずに追いかけていって殴ったり、蹴ったりしようとします。
部屋の中に入ってもとまらず、グルグルまわっています。
私は、二人を両手で捕まえて「座ろう、座ろう。座って話し合おう。」と言いましたが、近づくとAさんが蹴ろうとするので、実際には困っていたら、C先生が気付いてAさんを抱きとめてくれました。
「どうしたの、座って話し合おうよ。」C先生もいってくれます。
少しゆとりのあるBくんが机をはさんで先にすわりました。
Aさんも半ば抱きかかえられて座りました。
「何があったのか教えてね。」
「ぼくがな、バッタを帰してたらAが急に蹴ってきてん。」
「そうか、Bくんの言い分はわかった。今度はAさんの番。順番やから、待ってね。聴こうね。」
目が据わっていたAさんも「聞かせてね。」というと、落ち着いてきて「あんな、バッタが飛んで、草の上に落ちてん。そこやったら、待ってたらバッタは帰るから、私が『やめとき!』っていうたのに、」
「そんなんいうてないで!Aがな・・・」とBくんが興奮してさえぎりました。「BくんはAさんの声が聴こえなかったんやね。」というと、おとなしく「うん。」といいました。
「それで、どうしたの?」Aさんに聴くと、
「『やめとき!』言うたのに、Bはまた放ってん!」
「そうか、ばったが かわいそうだったから、AさんはBくんを止めようとしてくれたんだね。」
「そうだったの。じゃあ、殴ったり蹴らなくても良い話だね。Aさんは優しい気持ちがあるんだね。」
AさんもBくんも、もう穏やかな顔になっています。
こういう場に立ち会えることが時々あるのが、この仕事をやっている幸せです。
人の持つ力、話し合う力、成長を信じられる。感謝です。
これもフロックス。クレム ド メンテ crem de mentheフランス語でミントクリーム。なんで、ミントがピンクなのか?最近でこそ、ミントのチョコとか、メントスとか、日本でも、食べるようになりましたが、初めてフランスで飲んだミント水はおいしかったけれど、ミントチョコとか、ミントクリーム入りクッキーを食べた時は、人間の食べるものか?と思いました。ミントに関する感覚は日本とフランスでは全く違う!と言うのが実感です。
今日は8時半から一日児童会。
担当の子どもが休みなので、帰されるのかと思いきや、3年のAくん(健常で大変な子ども)を見て欲しいと言われて、残りました。
大変なとは、暴力行為を働く、勉強の時間、食事や、おやつの時間の時、同じように取れない、他の子の食事、おやつ、睡眠、遊び、を妨害する。フェンスを乗り越えて脱走する。
二年の時に、一度、加配の子がいない時に提案して担当しましたが、今はその時よりももっとパワーアップしていますし、1年の加配の子ども達がすごかったので、あまりAくんの様子も観察できていませんので、自信はありませんでした。
学生アルバイトの先生と野球をしている間は良いですが、食事の時に、一悶着。
お弁当も出さずに、自分とは隣の女の子達の班の長机に汚い靴下の足を乗せて、押すので、「迷惑になるから、足を降ろしてください。」と言っても無視。
黙って足を下ろさせても、また乗せます。
女の子達にお願いして、机を遠ざけると、足を乗せたままついてきます。
このままだと、女の子達は食事できません。
仕方ないので、足を下ろして、そちら側の席について、食事することにしました。
すると、ガン!と私の後頭部を思い切り殴って、外に飛び出してしまいました。
痛いし、追いかけたいけれど、彼の目的は「特別な注目」。
他の先生とも相談して、ちゃんとルールを守って食べている子どもを優先。
その子たちと食事をして、放っておきました。
誰も追いかけてこないのを知ると、5分とたたずに部屋に、入ってきました。
お弁当を食べていないと、お腹もすくし、親に報告しなくてはいけなくなるので、促しましたが、みんなが座って食べているのに、床でレゴで遊んでいます。
これも「特別の注目」になるので、食べない責任は本人にとってもらうことにしました。
しばらくすると「食べる」というので、今度は他の先生が、もう片付けてしまった長机ではなく、一つだけある学校机を拭いて、お弁当を用意しました。すると今度は床の上で食べると言い出します。「それはだめ。」と先生が拒否すると、「じゃあ、いらん。食わん。」と言って、また外に出て、今度は、2メートルあるフェンスを乗り越えて、学校の外に出て行ってしまいました。
外で、危険にあったら職員としては言い訳できませんが、他の先生と相談して、腹をくくってこれも迎えに行くのを拒否し、無視しました。
本当にドキドキするけれど、これを追いかけて行った結果を私達は現在進行形でさんざん経験してきています。実は全員が追いかけないと言うことに賛成しているわけではありません。そもそも私を呼んでくれたA先生が長い休暇から帰ってきて、キャリア30年の迫力で、正職員を説得してくれたからできたことで、職歴3年目アルバイトの私ではとても無理。
帰って来るという確信はありましたが、不安が無いわけではありません。
万が一はいつも起きますから…。
しかし、やっぱり5分経たずに帰ってきました。
これをやっていると、今日だけでもAくんがだいぶ学んだことがわかります。
おやつは率先して準備。お昼寝は、毎日奇声を発したり、レゴを投げたり、他の子どもまで巻き込んで大騒ぎだったのが、漫画は離しませんが一応静かにしています。
5時からも、机に乗って大騒ぎしたり、切れたりすることも無くおとなしく遊び、帰る頃になって「お弁当、食べたろうかな?」というので、「食中毒になるからやめて。」という私達に理性的な対応。
切れたり、暴れても注目を得られない、協力して注目を得た方が良いとわかるまで、これから、毎日毎時、くりかえされます。