二つ星の空

(旧「風からの返信」-11.21.09/「モーニングコール」/「夢見る灯台」/「海岸線物語」)

悔しいけど

2005-10-07 21:58:03 | その他音楽
悔しがる必要もないんだけど(笑)。

偶然つけたTVでサザンオールスターズが歌っている。
すごく、はまる。

あ~あ。ファンじゃない、と言いながら、好きなんだよなぁ。ちくしょー。わかりやすく、脳髄からゆさぶってくれるぜ。

(ちなみに、「サザンが好き!」と言うおいらの先輩は「歌詞聞いたことない」と堂々と言う人です。。。完璧な右脳の人。それでもファンなんだ。。。)

浜崎あゆみ。好きなんだけどな。ちょっと疲れてるか?おいら、彼女は「アバン」ファンだと勝手に思っている。実にピュアな娘だ。(何のことかわからん人、スルーして)

付記:「ALWAYS三丁目の夕日」完成試写会があったんだね。全てのスタッフに感謝と愛を。きれいなポスターだな。観るのが楽しみだ。東京タワーに会えるのも楽しみだ。それにしても、吉岡髪型変わったか。茶髪になってる。いいなー、最近自由な感じで。指輪物語みたいだぞ。おいらも髪型変えたくなっちゃった(寝癖カットなおいらには、まず無理だけど(笑))

今日は限界です、、、でも、tomorrow's going to be another working day...(S&G)
がんばれ、自分。
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「半落ち」考①(注:ネタバレあり。)

2005-10-07 00:30:10 | その他映画
「半落ち」を原作で読んだ(と言っても本屋で立ち読みだが)とき、軽いショックを受けた。この作品をどう受け止めればいいか、わからなかったからだ。

この物語には、ある事件が描かれている。そして、その事件に関わる人々の、内面の葛藤、とまどい等が、描かれている。

自分がとまどったのは、「梶」を、どう評価していいかわからなかったからだ。殺人を犯して悟りすましているような梶に全く感情移入できず、その他の人物達も(斜め読みで急いで読んだせいか)、微妙に入り込めなかった。彼らが、一種淡々と描写されていたせいかもしれない。(再読すれば印象が変わるかもしれない。今度、試してみよう、、、)

自分には、唯一、最終章の場面だけが、強烈に印象に残った。赤子のようにゆがんだ、梶が感情を噴出させた顔。それだけが。

そして、時が過ぎ、「半落ち」は映画になった。

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映画「半落ち」で、梶は、より一層、観る者をとまどわせる存在となった。なぜなら、寺尾聰演じる梶は、どこから見ても「いい人」で「誠実」で「高潔」な人物だからだ。志木刑事でなくとも、梶のたたずまい、人となりをしれば、彼を弾劾することにためらいを覚えるだろう。そして、そのように、梶に関わる人物達は、次々と梶に飲み込まれそうになっていく。

(梶って、奥さん殺したんだな。でも、無理もないかも、、、あんなにまじめな人があんなことになるのだから、よほどのことなんだろう、、、)そんなささやき声が、映画を観る者の耳元でも、幻聴のように鳴り始める。

それは、きっと、梶が「人としての悲しみ」にあふれた存在だからなのだろう。皆、梶の中に自分を見る。そうすると、梶はもはや自分自身であり、梶を裁くことは自分を裁くことにつながる。

そんな中、梶に同化するのではなく、梶と共鳴しながら、梶を定義し直す人物が現れる。

裁判所の藤林判事。彼は、梶を「手の届かない、犯しがたい存在」から、「殺人者」へと、引きずり下ろす。裁判所で、彼が声を震わせて梶を糾弾したとき、梶が人を殺した男であることを、私達は、突然、実感するのだ。その理不尽さ。樹木希林の迫真の演技によって、複雑な身内の心境を追体験した直後なだけに、観客の心も大きく振れることになる。

自分は、この場面が好きだ。
藤林に糾弾された梶は、「妻を愛していた」と告白し、「私は、妻を殺した人殺しです」と、唇をわななかせて、言う。
責められることで、彼は初めて、懺悔することを許され、一人の「間違いを犯した男」として、人間性を取り戻したとも言えるのではないか。今までの周囲がよってたかって彼を祭り上げていた異様な場から、梶は解放される。

そして、この場面でくしゃくしゃにゆがむ梶の顔がアップになったとき、原作の最後の瞬間の梶が、オーバーラップする。

そこには、何の主張も、何の啓蒙も、ない。生きている人間の、愚かな、哀しい、生き様が映し出されている。

この映画は、とても広い解釈を、観客に許している。
観客は、自分の背景により、様々な感想を持つだろう。ある者は「夫婦愛」を。ある者は「殺人への怒り」を。ある者は「一生懸命生きていたはずの人が道を選び間違えたこと」についてのむなしさを。

この映画には、結論はない。それこそ、新聞の片隅に載っているような、事件の顛末。そこにある、人の姿を、ただ、映し出している。

俳優達は、本当によい演技をしている。彼らは、登場人物の役割を、クリアに際だたせている。すなわち、志木は、梶への信頼を。植村は、善意と、他者の介入の限界を。佐瀬は、糾弾する者の中の挫折を。中尾は、梶の輪郭を浮かび上がらせる役割を。そして、藤林は、人々の感傷から梶を切り離し、梶を人間に戻す。

俳優達に、主張や目的はかぶせられていない。なぜなら、彼らは「生きて迷っている人間」を体現しているのだから。それぞれに限界があり、それぞれにテリトリーのある、人間。

「半落ち」を見ると、哀しいのは、カタルシスがないから。そこには「人間」が描かれている。愚かで、哀しくて、愛しい、失ってばかりの、わがままな人間達が。正しい人なんて、一人もいないのだ。皆、一生懸命、正しさを探しているけれど。

意味不明なレビューですいません。考えがどうしてもまとまらない。

とりあえずね。梶が「アンチヒーロー」だ、と思った時、初めておいらは、この映画を理解できたように思えたのだ。(あれだけ「ヒーロー」然としてるから、最初は「なんて映画だ!」と誤解した。)

だから、泣きもしなかったし、藤林に感情移入して、猛烈に怒ったり哀しんだりしながら観ていたけど、この映画は、「心して観るべき映画」の一つになった。いろいろ、考えろ。一つの感想に固定されるな。そう、思ったのだ。

まるで、佐々部監督に試されているようだ。けっこう、すごい作品だ、と思う。
(例によって、勝手読みしてますので、「優しく裁いて」ください。。。)
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