英語題:“The Nearest Place to the Sky”
「鴻上尚史は、ロンドンに行く前から英語にこだわってたんだなぁ。。。」とか、間の抜けた感想を持つ。今日は、この、ちょっと古い映画(ビデオ)の紹介。
脚本・監督:鴻上尚史。主演:吉岡秀隆。
「青空に一番近い場所」1994年度作品。東宝株式会社です。
極端な明るさと、極端な暗さ。最初観たときは、「こんな深刻なもの、よく公開されたな」と思った。でも、全編に漂うのは、鴻上流のファンタジー。役者達が映し出しているのは、優しい人間達が織りなす、哀しくもぐろい日本の一つの姿。
吉岡秀隆は、映画「ラストソング」撮影クランク・アップの翌日から、この作品に参加している。「ラストソング」と「青空。。。」こんなに振れ幅の広い演技を要求されたのは、吉岡にとっても幸運だったんじゃないかな、と勝手に思ったりもする。
「低予算」と鴻上尚史は再三メイキング本で強調しているが、「ダメジン」よりは、よっぽど「ふつーの映画」っぽい(笑)。でも、テイストは、「ダメジン」に通じるなぁ。
最初に観た当時は生々しすぎたので、観ても友人にも語れず、沈黙していた。13年たって観ると、その深刻さと真摯さとファンタジーの深さに、改めていろいろなことを思う。
鴻上尚史の全てを信奉しているわけではないが、この作品は、いい。
昔は思ったんだ。「これは、テレビで流せないよなぁ」って。だって、お堅い人がいいそうなんだ。「自殺の呼び水になる」「死を幻想的に描きすぎる」なーんてね。
でも、今、観ると思う。これは、「マニアじゃない人達」が観ても大丈夫なんじゃないかって。
あの痛い映像の中に、「疑似体験」の安心を、今の人は持つんじゃないかって。自分は「やらず」に生きていける方法を、この作品から得るカタルシスから思えるんじゃないかって。
おいらは、周囲の人間が何人か「やっちゃってる」んで、最初は、正視できなかったんだ。いかに吉岡や長谷川真弓や真屋順子や三浦友和がほのぼの演じてくれても。
でも、今なら、少し前向きに、この映画を観ることができるようになった。飛び降りてしまった仲間や友人達のことも思い出しながら、「生きる」って何なのか、もう少し考えてみようと思って。
吉岡演じる、崖っぷちサラリーマンが、後半、「癒しの人」になっている。
生きてろよ、生きていけよ、みんなの分まで。
応援しながら見続ける映画だ。
別に優劣を演じるつもりはないけれど、映画における「演劇性」について、時々考える。(主に、杉田監督のそれについて。)
杉田監督の「演劇性」は、他の場面がリアルすぎるので、時に「越えられない壁」と感じてしまう。例えば、「優駿(オラシオン)」で、斎藤由貴が黒装束着ている場面とか、演劇では象徴性としてアリなんだが、映画で、しかも杉田演出で疑似リアリズムの世界につれてこられた身としては、「こういう状況で黒着るか?!」と猛烈に違和感を感じるのだ。(同じことは、「死亡推定時刻」で、殺された少女の両親が、どちらも、少女の死体の写真を平静に見ていた場面でも感じた。「おまいら正視できるのか?!」って、そのことがおいらには衝撃的だった。)反面、杉田演出の演劇性ですごく好きなのは、「北の国から~巣立ち~」で、純が使ってる、白い手のオブジェとか、「北の国から~時代~」での、草太の墓での兄妹の姿の撮り方とか(ビジュアル的にすごく象徴的)、「遺言」でも、トド関連場面は、そういうのが多いよなぁ、と思う。
視聴者(おいら)が杉田演出の巧さにだまされすぎて、リアリズムを感じすぎてるから、ドキュメンタリーと勘違いして、時々の「これは映像芸術!」というメッセージに、違和感を感じてしまうのかもしれない。
鴻上監督のは、全編において演出が「演劇性」満載なので、役者の演技が自然なのとうまくブレンドされて、「ファンタジー」が成立している、と思う。まぁ、世の中こんな映画ばっかりになっても困惑するけど(笑)。
そんなわけで(どんなわけ?)。まぁ、この映画(ビデオ)が見られるときは、おいらの元気なときです(笑)。いつか、これがテレビのロードショーにかかったら、「日本も変わったなぁ」としみじみするんでしょうなぁ。。。(^-^;)「屋上の使い方」については、すでに、この映画のようになりつつあるから、意外とこの作品は世の中に秘かに浸透してるのかもしらんけど(笑)。
鴻上尚史氏、おいら、この映画好きですよー。と、最後にラブコールして、終わります。
(パソコンよ、「最期」なんて、、、なんて不吉な変換するんだよ(泣))
「鴻上尚史は、ロンドンに行く前から英語にこだわってたんだなぁ。。。」とか、間の抜けた感想を持つ。今日は、この、ちょっと古い映画(ビデオ)の紹介。
脚本・監督:鴻上尚史。主演:吉岡秀隆。
「青空に一番近い場所」1994年度作品。東宝株式会社です。
極端な明るさと、極端な暗さ。最初観たときは、「こんな深刻なもの、よく公開されたな」と思った。でも、全編に漂うのは、鴻上流のファンタジー。役者達が映し出しているのは、優しい人間達が織りなす、哀しくもぐろい日本の一つの姿。
吉岡秀隆は、映画「ラストソング」撮影クランク・アップの翌日から、この作品に参加している。「ラストソング」と「青空。。。」こんなに振れ幅の広い演技を要求されたのは、吉岡にとっても幸運だったんじゃないかな、と勝手に思ったりもする。
「低予算」と鴻上尚史は再三メイキング本で強調しているが、「ダメジン」よりは、よっぽど「ふつーの映画」っぽい(笑)。でも、テイストは、「ダメジン」に通じるなぁ。
最初に観た当時は生々しすぎたので、観ても友人にも語れず、沈黙していた。13年たって観ると、その深刻さと真摯さとファンタジーの深さに、改めていろいろなことを思う。
鴻上尚史の全てを信奉しているわけではないが、この作品は、いい。
昔は思ったんだ。「これは、テレビで流せないよなぁ」って。だって、お堅い人がいいそうなんだ。「自殺の呼び水になる」「死を幻想的に描きすぎる」なーんてね。
でも、今、観ると思う。これは、「マニアじゃない人達」が観ても大丈夫なんじゃないかって。
あの痛い映像の中に、「疑似体験」の安心を、今の人は持つんじゃないかって。自分は「やらず」に生きていける方法を、この作品から得るカタルシスから思えるんじゃないかって。
おいらは、周囲の人間が何人か「やっちゃってる」んで、最初は、正視できなかったんだ。いかに吉岡や長谷川真弓や真屋順子や三浦友和がほのぼの演じてくれても。
でも、今なら、少し前向きに、この映画を観ることができるようになった。飛び降りてしまった仲間や友人達のことも思い出しながら、「生きる」って何なのか、もう少し考えてみようと思って。
吉岡演じる、崖っぷちサラリーマンが、後半、「癒しの人」になっている。
生きてろよ、生きていけよ、みんなの分まで。
応援しながら見続ける映画だ。
別に優劣を演じるつもりはないけれど、映画における「演劇性」について、時々考える。(主に、杉田監督のそれについて。)
杉田監督の「演劇性」は、他の場面がリアルすぎるので、時に「越えられない壁」と感じてしまう。例えば、「優駿(オラシオン)」で、斎藤由貴が黒装束着ている場面とか、演劇では象徴性としてアリなんだが、映画で、しかも杉田演出で疑似リアリズムの世界につれてこられた身としては、「こういう状況で黒着るか?!」と猛烈に違和感を感じるのだ。(同じことは、「死亡推定時刻」で、殺された少女の両親が、どちらも、少女の死体の写真を平静に見ていた場面でも感じた。「おまいら正視できるのか?!」って、そのことがおいらには衝撃的だった。)反面、杉田演出の演劇性ですごく好きなのは、「北の国から~巣立ち~」で、純が使ってる、白い手のオブジェとか、「北の国から~時代~」での、草太の墓での兄妹の姿の撮り方とか(ビジュアル的にすごく象徴的)、「遺言」でも、トド関連場面は、そういうのが多いよなぁ、と思う。
視聴者(おいら)が杉田演出の巧さにだまされすぎて、リアリズムを感じすぎてるから、ドキュメンタリーと勘違いして、時々の「これは映像芸術!」というメッセージに、違和感を感じてしまうのかもしれない。
鴻上監督のは、全編において演出が「演劇性」満載なので、役者の演技が自然なのとうまくブレンドされて、「ファンタジー」が成立している、と思う。まぁ、世の中こんな映画ばっかりになっても困惑するけど(笑)。
そんなわけで(どんなわけ?)。まぁ、この映画(ビデオ)が見られるときは、おいらの元気なときです(笑)。いつか、これがテレビのロードショーにかかったら、「日本も変わったなぁ」としみじみするんでしょうなぁ。。。(^-^;)「屋上の使い方」については、すでに、この映画のようになりつつあるから、意外とこの作品は世の中に秘かに浸透してるのかもしらんけど(笑)。
鴻上尚史氏、おいら、この映画好きですよー。と、最後にラブコールして、終わります。
(パソコンよ、「最期」なんて、、、なんて不吉な変換するんだよ(泣))