先週の土曜日の中日新聞の記事 『新貧乏物語 第6部 年金プア ⓵ 老老介護 「妻と生きるため離婚」』という
記事を読みました。
やせ細って血管が浮き、自由が利かなくなった腕を優しくさすりながら、岩村勇さん(79)=仮名=が話しかける。
「痛くない?」。
たとえゆっくりでも、寝たきりのベッドで「う、れ、し、い」と答えてくれると安心するが、
勇さんは戸籍上、その人をもう「妻」とは呼べない。
同じ年齢の二人が見合いで結婚したのは。1961(昭和36)年2月。
愛知県にある町で喫茶店の店長をしていた勇さんは、上品で奥ゆかしい振る舞いに引かれた。
結婚の2ヶ月後、岸信介内閣が掲げた「国民皆年金」で国民年金制度が始まった。
日本は高度成長に沸いていた。
常連でにぎわう20席ほどの店に「年金の職員」と名乗る男性が訪ねてきたことを、
勇さんは今でも覚えている。
男性は「新しい制度が始まります」と説明して店を出た。
当時の年金の保険料は月額百円。コーヒー1杯が六十円。
勇さんは「大した額ではないな」と思ったが、職員の説明は全員加入でなく「希望者は入ってください」
と言っているように聞こえた。
当時のニュースになっていたはずの年金を、客と話題にすることもなかった。
小さな喫茶店でも商売は順調で、勇さんも「働いて蓄えておけば大丈夫」と考えていた。
チェーン店やコンビニの数が増え、商いに不安を感じた妻に「やっぱりかけておきましょう」
と言われるまで、年金を払ったことはなかった。
その妻の手が震え始めたのは平成に入ってから。
二人が55歳のときだった。
診断結果はパーキンソン病。
全身の筋肉が弱り、体の自由が奪われていく。
10万人に百人といわれる難病で、原因は未だに分かっていない。
勇さんは一人で店に立ち、20年以上、妻を自宅で介護した。
ただ、妻の身体は徐々に弱り、意識がもうろうとして入院するほど
症状が悪化した。
二人の子供は独立し、それぞれ家庭を持っている。
「退院しても自分が面倒を見るのは難しい」。
昨年の春、勇さんは妻を介護施設に入れる決断をした。
施設の利用料は、おむつ代を含めて毎月13万円。
夫婦でもらえる国民年金の満額とちょうど同じ額だ。
だが、未納期間が長かった二人は月3万円ずつ、合わせて6万円しかもらえていない。
足腰が弱り、店を閉める日が多くなった勇さんには、月6万5千円の店の家賃ものしかかる。
妻を自宅で介護していた時の出費で、貯金は底をついている。
入居した翌月から施設への支払いが滞り、勇さんは昨年夏、役所を訪ねて生活保護を申請した。
ところが、収入が低く預貯金がなくても、自宅を「資産」と見なされて却下。
その時、窓口の職員が「これは最後の手段ですが・・・・」
と言いにくそうに説明したのが、妻との離婚だった。
別れて別々に暮らせば、資産がない妻は生活保護の対象になる。
年金では足りない施設の利用料10万円を、保護費として受け取れる。
「仕方がなかった」。
勇さんは離婚届を書く時に、自分に言い聞かせた。
「これはお母さんを助けるための書類で、離婚届じゃない」
枝のように細くなってしまった腕。
聞き取ることがやっとになってしまった言葉。
勇さんが「グー、チョキ、パー」と声を掛けると、
ベッドの上で懸命に指を動かそうとする。
その姿を見ている自分に、もう一度言い聞かせる。
「悲しいけれど、心で結ばれていれば大丈夫」。
役所に提出して一年。
勇さんは55年連れ添った「妻」に、
自分たちが離婚したことを話していない。
老後を豊かにするための年金をもらっていても、貧困に
陥っている高齢者がいる。
低収入で将来への年金を払えない人もいる。
十九日の「敬老の日」に向け、年金を取り巻く実態に目を向ける。
という記事でした。
他人事でないと思いました。
私の家庭でも起こりうることだと思いました。
昔 多分小学生の頃『楢山節考』(ならやまぶしこう)という映画を見たことがあります。
村の掟として70歳になると親を山に捨てに行かなければならないという
物語でした。
そうしなければ食糧が足りず、村が成り立たないということだったと思います。
捨てられる母親もそのことが分かっており、捨てる孝行息子も掟を破るわけには
行かない。
母親を背負って息子が姨捨山へ母親を捨てに行く姿を見て、
子供の私でさえ強く迫るものがありました。
生きていくためには55年連れ添った妻とも別れなければならない!
姨捨山の時代と今の日本もあまり変わらないように思えてきます。
こんなの幸せな国民とは、とても思えないです。
木之内みどりさんのひまわりの小径
記事を読みました。
やせ細って血管が浮き、自由が利かなくなった腕を優しくさすりながら、岩村勇さん(79)=仮名=が話しかける。
「痛くない?」。
たとえゆっくりでも、寝たきりのベッドで「う、れ、し、い」と答えてくれると安心するが、
勇さんは戸籍上、その人をもう「妻」とは呼べない。
同じ年齢の二人が見合いで結婚したのは。1961(昭和36)年2月。
愛知県にある町で喫茶店の店長をしていた勇さんは、上品で奥ゆかしい振る舞いに引かれた。
結婚の2ヶ月後、岸信介内閣が掲げた「国民皆年金」で国民年金制度が始まった。
日本は高度成長に沸いていた。
常連でにぎわう20席ほどの店に「年金の職員」と名乗る男性が訪ねてきたことを、
勇さんは今でも覚えている。
男性は「新しい制度が始まります」と説明して店を出た。
当時の年金の保険料は月額百円。コーヒー1杯が六十円。
勇さんは「大した額ではないな」と思ったが、職員の説明は全員加入でなく「希望者は入ってください」
と言っているように聞こえた。
当時のニュースになっていたはずの年金を、客と話題にすることもなかった。
小さな喫茶店でも商売は順調で、勇さんも「働いて蓄えておけば大丈夫」と考えていた。
チェーン店やコンビニの数が増え、商いに不安を感じた妻に「やっぱりかけておきましょう」
と言われるまで、年金を払ったことはなかった。
その妻の手が震え始めたのは平成に入ってから。
二人が55歳のときだった。
診断結果はパーキンソン病。
全身の筋肉が弱り、体の自由が奪われていく。
10万人に百人といわれる難病で、原因は未だに分かっていない。
勇さんは一人で店に立ち、20年以上、妻を自宅で介護した。
ただ、妻の身体は徐々に弱り、意識がもうろうとして入院するほど
症状が悪化した。
二人の子供は独立し、それぞれ家庭を持っている。
「退院しても自分が面倒を見るのは難しい」。
昨年の春、勇さんは妻を介護施設に入れる決断をした。
施設の利用料は、おむつ代を含めて毎月13万円。
夫婦でもらえる国民年金の満額とちょうど同じ額だ。
だが、未納期間が長かった二人は月3万円ずつ、合わせて6万円しかもらえていない。
足腰が弱り、店を閉める日が多くなった勇さんには、月6万5千円の店の家賃ものしかかる。
妻を自宅で介護していた時の出費で、貯金は底をついている。
入居した翌月から施設への支払いが滞り、勇さんは昨年夏、役所を訪ねて生活保護を申請した。
ところが、収入が低く預貯金がなくても、自宅を「資産」と見なされて却下。
その時、窓口の職員が「これは最後の手段ですが・・・・」
と言いにくそうに説明したのが、妻との離婚だった。
別れて別々に暮らせば、資産がない妻は生活保護の対象になる。
年金では足りない施設の利用料10万円を、保護費として受け取れる。
「仕方がなかった」。
勇さんは離婚届を書く時に、自分に言い聞かせた。
「これはお母さんを助けるための書類で、離婚届じゃない」
枝のように細くなってしまった腕。
聞き取ることがやっとになってしまった言葉。
勇さんが「グー、チョキ、パー」と声を掛けると、
ベッドの上で懸命に指を動かそうとする。
その姿を見ている自分に、もう一度言い聞かせる。
「悲しいけれど、心で結ばれていれば大丈夫」。
役所に提出して一年。
勇さんは55年連れ添った「妻」に、
自分たちが離婚したことを話していない。
老後を豊かにするための年金をもらっていても、貧困に
陥っている高齢者がいる。
低収入で将来への年金を払えない人もいる。
十九日の「敬老の日」に向け、年金を取り巻く実態に目を向ける。
という記事でした。
他人事でないと思いました。
私の家庭でも起こりうることだと思いました。
昔 多分小学生の頃『楢山節考』(ならやまぶしこう)という映画を見たことがあります。
村の掟として70歳になると親を山に捨てに行かなければならないという
物語でした。
そうしなければ食糧が足りず、村が成り立たないということだったと思います。
捨てられる母親もそのことが分かっており、捨てる孝行息子も掟を破るわけには
行かない。
母親を背負って息子が姨捨山へ母親を捨てに行く姿を見て、
子供の私でさえ強く迫るものがありました。
生きていくためには55年連れ添った妻とも別れなければならない!
姨捨山の時代と今の日本もあまり変わらないように思えてきます。
こんなの幸せな国民とは、とても思えないです。
木之内みどりさんのひまわりの小径