映画の『おくりびと』をやっと観た。はじめは可笑しくて笑ってた。
旦那が、「この職業はブラクの人達の仕事だった」と言うのを聞いて、わたしは「そんなん聞いたことない」と反発した。
だいたい、この映画を知る前まで、納棺師という職業があることすら知らなかったわたしなのだ。
それをどうして、アメリカ人の旦那が、そんな歴史っぽいことまで知っているのだ?
「いや、そういう文献を読んだことがある。ええと、なんて言うんやったっけ、高野山に女性が入山できなかった理由?」
「汚れてるから?」
「ああ、それそれ、汚らわしい仕事やと思われてたから」
そう旦那が言ったすぐ後に、妻役の広末さんが、夫役の本木さんに「汚らわしい!」と叫んだのでびっくりした。
映画を観終わって、泣き腫らした目と真っ赤っかな鼻のまま、気になったので調べてみた。
いろんな記事が出てきたけれど、その中からひとつ。
『かつて、肉食では無かった日本人が、動物の屍骸を取り扱う仕事をしていた人々を『けがらわしい』、『穢れ多き者』として、『穢族』または『エタ』と蔑み差別してきた。
元を正せば、政治的に作られた差別が起源であり、あくまでも職業差別でしかない。
差別された人たちが集まり、を形成したため『民』と呼称されてきた。
『姿なき差別』であり『いわれ無き差別』とも言われるが、間違いなく現存している。
小説で読んだ『』というものが現代でも現実に存在することや、『民』『差別』という存在自体を転勤先の静岡で実感した。
よそ者の私に、「あの地区には行くな」と忠告してくる。「あそこは」と、親指以外の『4本の指』を立て、危険だと教えてくれる』
ここまで読んでふと、生まれて初めて、父に頬を引っ叩かれた時のことを思い出した。
わたしが中学二年生の時のことだ。
その頃は、母と別れて間もなく、慌てて再婚した二人の子連れの継母と、父とわたしと弟の六人で、大阪の住吉区の長居という所で暮らしていた。
わたしが転校したのは、マンモス校で有名な住吉中学校。毎週末になると、隣町の中学校の不良達に襲われて、警備に当たっていた先生達が数人、毎回のように怪我をしていた。
噂では、その不良達は、地区に住んでいる生徒だと聞かされていた。
わたしは三重県ののんびりした田舎町から転校したところで、なにもかもが忙し過ぎて、あまりよくわからないまま時間が過ぎていた。
まだ肌寒いある日、体育の授業が水泳になり、学校の50メートルプールを流し泳ぎすることになった。
流し泳ぎなんて聞いたことも無かったし、そもそもちゃんと泳いだことも無かったわたしは、その日の見せ物となり、バカにされて散々な思いをした。
それを見て、あまりにも哀れに思ったのか、同じクラスの村田さんという女の子が、放課後、「わたしに手伝わさせてくれへん?」と話しかけてきた。
「手伝うって?」
「泳げるようにしたげる」
「泳げるようにって……そんなん無理やわ」
「大丈夫、来週の授業までに絶対に泳げるようにしたげる。ほんで、今日のアホらに思いっきり見せつけたり!」
彼女は、当時、オリンピック選手の養成コースに所属していたクロールの選手だった。
彼女に付いて、そのスイミングプールに行き、毎日特訓を受けた。
次の週、見事なフォームでスイスイと、しかもかなりの速度で50メートルを泳ぎ切ったわたしを、彼女はゴールの所で満面の笑みで迎えてくれた。
わたしは彼女と仲良しになり、彼女に誘われて中学校の水泳部に入部した。
しばらくすると、そこの部長の三年生の河合君から、「付き合ってくれへんか?」と申し込まれた。
彼は地区と呼ばれる地域に住んでいた。その意味は、学校でも講座があったので知っていた。
知っていたけど、それは河合君とわたしにはどうでもいいことだと思っていた。
父に、河合君のことを話した。住んでいる所を聞かれて答えると、「そんなとこに住んでる子と付き合うたらあかん!」と顔色を変えて怒り出した。
わたしが反抗的な態度をとると、わたしの目の前に4本の指を立て、「あいつらはコレなんやからな」と言った。
吐き気がしそうなぐらい腹が立った。「そんなアホなこと、まさか自分の親から言われるとは思わんかった!」と言うと、「なにぃっ!」と目を剥いた。
その父のすぐ後ろに、いつの間にか弟が立っていて、いきなりわたしに向かってあっかんべーをした。
その顔が可笑しくて、こんな場面で笑たらあかん、と思うと余計に可笑しくて、ついプッと吹き出してしまった。
「なにが可笑しいんや!」と、すっかり誤解した父は立ち上がり、思いったけの力でわたしの頬を打った。
そんなこともあったなあ……と、十年前に亡くなった父を懐かしく思い出した。
*↓ここからは映画の場面を少し書きます。まだ観ていなくて、知りたくない方はこの先は読まれない方がいいと思います。
「あんなきれいな妻を見たのは初めてだ」と言って泣いた夫。
性同一性障害で悩んでいた子供を正視できないままだったが、「男でも女でも関係ない。あの子はあの子だった」と慟哭する父親。
焼き場の火に包まれた母親に「かあちゃんごめん、かあちゃんごめん」と謝る息子。
何十年も前に生き別れた、幼い息子からもらった石文をぎゅうっと握りしめたまま息を引き取った父親。
どの人にも死は訪れる。見送る方も見送られる方も、その死をどんなふうに受けとめられるかは、その人の生き方次第。
母も弟も、それから伯父や伯母も、皆遠く日本に暮らしている。
そのことが今夜はとても悲しい。
しみじみと、日本から遠く離れていることを思った。
自分が選んで、決めて、ここに暮らしているのだけれど。
満開の桜の花びらの中に、日本にいる家族の顔が浮かんでは消え、また浮かんでは消え……どうしてみんな笑てるのやろ。
また泣けてきた。
旦那が、「この職業はブラクの人達の仕事だった」と言うのを聞いて、わたしは「そんなん聞いたことない」と反発した。
だいたい、この映画を知る前まで、納棺師という職業があることすら知らなかったわたしなのだ。
それをどうして、アメリカ人の旦那が、そんな歴史っぽいことまで知っているのだ?
「いや、そういう文献を読んだことがある。ええと、なんて言うんやったっけ、高野山に女性が入山できなかった理由?」
「汚れてるから?」
「ああ、それそれ、汚らわしい仕事やと思われてたから」
そう旦那が言ったすぐ後に、妻役の広末さんが、夫役の本木さんに「汚らわしい!」と叫んだのでびっくりした。
映画を観終わって、泣き腫らした目と真っ赤っかな鼻のまま、気になったので調べてみた。
いろんな記事が出てきたけれど、その中からひとつ。
『かつて、肉食では無かった日本人が、動物の屍骸を取り扱う仕事をしていた人々を『けがらわしい』、『穢れ多き者』として、『穢族』または『エタ』と蔑み差別してきた。
元を正せば、政治的に作られた差別が起源であり、あくまでも職業差別でしかない。
差別された人たちが集まり、を形成したため『民』と呼称されてきた。
『姿なき差別』であり『いわれ無き差別』とも言われるが、間違いなく現存している。
小説で読んだ『』というものが現代でも現実に存在することや、『民』『差別』という存在自体を転勤先の静岡で実感した。
よそ者の私に、「あの地区には行くな」と忠告してくる。「あそこは」と、親指以外の『4本の指』を立て、危険だと教えてくれる』
ここまで読んでふと、生まれて初めて、父に頬を引っ叩かれた時のことを思い出した。
わたしが中学二年生の時のことだ。
その頃は、母と別れて間もなく、慌てて再婚した二人の子連れの継母と、父とわたしと弟の六人で、大阪の住吉区の長居という所で暮らしていた。
わたしが転校したのは、マンモス校で有名な住吉中学校。毎週末になると、隣町の中学校の不良達に襲われて、警備に当たっていた先生達が数人、毎回のように怪我をしていた。
噂では、その不良達は、地区に住んでいる生徒だと聞かされていた。
わたしは三重県ののんびりした田舎町から転校したところで、なにもかもが忙し過ぎて、あまりよくわからないまま時間が過ぎていた。
まだ肌寒いある日、体育の授業が水泳になり、学校の50メートルプールを流し泳ぎすることになった。
流し泳ぎなんて聞いたことも無かったし、そもそもちゃんと泳いだことも無かったわたしは、その日の見せ物となり、バカにされて散々な思いをした。
それを見て、あまりにも哀れに思ったのか、同じクラスの村田さんという女の子が、放課後、「わたしに手伝わさせてくれへん?」と話しかけてきた。
「手伝うって?」
「泳げるようにしたげる」
「泳げるようにって……そんなん無理やわ」
「大丈夫、来週の授業までに絶対に泳げるようにしたげる。ほんで、今日のアホらに思いっきり見せつけたり!」
彼女は、当時、オリンピック選手の養成コースに所属していたクロールの選手だった。
彼女に付いて、そのスイミングプールに行き、毎日特訓を受けた。
次の週、見事なフォームでスイスイと、しかもかなりの速度で50メートルを泳ぎ切ったわたしを、彼女はゴールの所で満面の笑みで迎えてくれた。
わたしは彼女と仲良しになり、彼女に誘われて中学校の水泳部に入部した。
しばらくすると、そこの部長の三年生の河合君から、「付き合ってくれへんか?」と申し込まれた。
彼は地区と呼ばれる地域に住んでいた。その意味は、学校でも講座があったので知っていた。
知っていたけど、それは河合君とわたしにはどうでもいいことだと思っていた。
父に、河合君のことを話した。住んでいる所を聞かれて答えると、「そんなとこに住んでる子と付き合うたらあかん!」と顔色を変えて怒り出した。
わたしが反抗的な態度をとると、わたしの目の前に4本の指を立て、「あいつらはコレなんやからな」と言った。
吐き気がしそうなぐらい腹が立った。「そんなアホなこと、まさか自分の親から言われるとは思わんかった!」と言うと、「なにぃっ!」と目を剥いた。
その父のすぐ後ろに、いつの間にか弟が立っていて、いきなりわたしに向かってあっかんべーをした。
その顔が可笑しくて、こんな場面で笑たらあかん、と思うと余計に可笑しくて、ついプッと吹き出してしまった。
「なにが可笑しいんや!」と、すっかり誤解した父は立ち上がり、思いったけの力でわたしの頬を打った。
そんなこともあったなあ……と、十年前に亡くなった父を懐かしく思い出した。
*↓ここからは映画の場面を少し書きます。まだ観ていなくて、知りたくない方はこの先は読まれない方がいいと思います。
「あんなきれいな妻を見たのは初めてだ」と言って泣いた夫。
性同一性障害で悩んでいた子供を正視できないままだったが、「男でも女でも関係ない。あの子はあの子だった」と慟哭する父親。
焼き場の火に包まれた母親に「かあちゃんごめん、かあちゃんごめん」と謝る息子。
何十年も前に生き別れた、幼い息子からもらった石文をぎゅうっと握りしめたまま息を引き取った父親。
どの人にも死は訪れる。見送る方も見送られる方も、その死をどんなふうに受けとめられるかは、その人の生き方次第。
母も弟も、それから伯父や伯母も、皆遠く日本に暮らしている。
そのことが今夜はとても悲しい。
しみじみと、日本から遠く離れていることを思った。
自分が選んで、決めて、ここに暮らしているのだけれど。
満開の桜の花びらの中に、日本にいる家族の顔が浮かんでは消え、また浮かんでは消え……どうしてみんな笑てるのやろ。
また泣けてきた。