ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

息抜きもだいじ

2011年07月07日 | 家族とわたし
旦那の昨日のヒット作、チキンカレー。


これがまためちゃウマ!やったので、作り方を聞いてみた。
「カレー粉の缶に書いてあったやつで作っただけやけど……」と謙虚な男。
玉ねぎをたっぷりのバターで炒め、そこに鶏肉、カレー粉大さじ3杯、塩少々を加えてさらに炒める。以上!

マジ簡単やん!


今朝、瞑想に耽る家猫……。でっかいお尻が埋まるほどにスクスク伸びている芝生……。


実はあんな遠くです。



今朝一番の、大切な用事を忘れまいと、旦那が書いたメモ。


親父ギャグ満載。うちは夫婦でよく、手をパンと打ってピースサインします。題して「パン!ツ~!」
たま~に、手を打って、ピースサインして、手で◯作って、その後双眼鏡で覗いてるジェスチャーもします。
さて、なんちゅう意味でしょうか?
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そら読売がけったいなこと言い続けてるわけや!

2011年07月07日 | 日本とわたし
現代史スクープドキュメント『原発導入のシナリオ』というビデオの一部を、ついさきほどまで文字起こししておりました。
あ~、話し言葉って意外と速くて大変!
それと、耳が遠なったんか、なんべん聞いてもわからんかったり……日本語って難しい……って……英語はもっと難儀やけど……。

実はわたし、いったいどないして、日本に原発なんかが建てられることになったんか、そこがイマイチ、どうしてもわからんかったのでした。
正力松太郎、中曽根のじいさん、などの名前がチラチラくっついてること、それともちろんアメリカが噛んでるのは知ってたけど、
詳しいことを知らんまま、反対反対!と言い続けるのもなんや中途半端な気がして……。
それでやっと見つけたこのドキュメント。これがすべて真実を語ってるのかどうか、その確信は無いけれど、
かなり納得がいくものやったので、ちょっと端折って、しかも前半部分だけ(それでも長いですが)を文字起こししてみました。

原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力戦略~

アメリカ大統領アイゼンハワーは、1953年の国連において、こう演説した。
「私は提案したい。
原子力技術を持つ各国政府は、蓄えている天然ウラン、濃縮ウランなどの核物質を、国際原子力機関(IAEA)をつくり、そこにあずけよう。
そしてこの機関は、核物質を平和目的のために、各国共同で使う方法を考えていくことにする」と。

けれどもそれは同時に、NATOなどのアメリカの同盟国に、アメリカの核兵器を配備しようという企みでもあった。
平和利用を訴える一方で、西側諸国の核武装を企てていたのである。
それに対しソ連は、無条件の原水爆禁止を提唱し、アメリカの二枚舌を非難していた。

そしてあの、ビキニ島での水爆実験により、第五福竜丸事件が起こった。
アメリカの対日政策の進行状況を記した、当時(1954年)の国務省の報告書には、
第五福竜丸事件後の対日政策について、次のように記されている。
『核兵器に対する日本人の過剰な反応ぶりは、日米関係にとって好ましくない。
核実験の続行は困難になり、原子力平和利用計画にも支障を来す可能性がある。
そのために「Psychological Strategy Program for Japan(日本に対する心理戦略計画)」をもう一度見直す必要がある』


ワトソン自身の説明によると、彼は1953年の6月に来日した。
やがて、当時のイギリスのサンデータイムズの東京特派員を通じて、正力の懐刀であり、日本テレビの重役であった柴田英俊と知り合った。
目的は、読売新聞社主、正力松太郎に近づくことであった。

一方、柴田の手記によれば、第五福竜丸事件の後、銀座の寿司屋で、ひとりのアメリカ人を接触を重ねていた。
『このまま放っておいたら、せっかく営々として築き上げてきたアメリカとの友好関係に、決定的な破局を招く。
日米双方とも対応に苦慮する日々が続いた。
この時、アメリカを代表して出て来たのが、D.S.ワトソンという、わたしの同年輩の、肩書きを明かさない男だった。
わたしは告げた。
日本には「毒をもって毒を制する」ということわざがある。
原子力は諸刃の剣だ。
原発反対をつぶすには、原子力の平和利用を大々的に唱い上げ、希望を与える他はない
』とある。

ワトソン氏の証言。
「日本では新聞をおさえることが必要だとはっきりわかっていました。
それも、大きな新聞を、です。
日本の社会は新聞に大きな影響を受けます。
日本人は一日最低三紙には目を通し、それから自分の意見を組み立てるのです。

その新聞は、当時ひとりの男によって経営されていました。
その下には、決してミスをしない優秀で従順な部下がそろっていました。
ですから、この仕事で成果を上げるには、誰よりも先に正力さんに会って話をした方がいいと思いました」

当時の読売新聞社主、正力松太郎。内務省の警察官僚だった正力は、大正13年、官職を退いて読売新聞の経営に乗り出した。
正力が買収した時、発行部数わずか5万部あまりだった読売新聞は、正力の斬新な企画力と紙面改革によって、急速に部数を拡大した。
昭和28年、正力は新たな事業拡大に乗り出した。
日本初の民間テレビ局、日本テレビ放送網を創設したのである。
街頭テレビのプロレス中継は爆発的なブームを呼んだ。
読売新聞の発行部数は、この時300万部に迫ろうとしていた。
正力は、新聞とテレビの二大メディアを手中に収めていたのである。

ワトソンは柴田の仲介で、正力松太郎と会談する機会を持った。
ワトソンによれば、会談は、第五福竜丸事件の起きる前から既に行われていたという。

「正力は実に鋭い男で、的確な質問をしてきました。
わたしはすぐに本題に入り、原子力の平和利用について話をしました。
日本は原子力の平和利用にうってつけの国である。
なぜなら、国内にエネルギー源がほとんど無い。
それがわたしの話のポイントでした。
すると、それを聞いていた正力は、目を輝かせたのです」

なぜ、この時正力は、原子力にそれほどの興味を示したのであろうか?

通産省工業技術院初代原子力課長・堀 純郎氏の証言。
「正力氏はこう言っていた。
日本が非常に貧乏してると。
この非常な貧困の結果、共産化するかもしれないと。
特にエネルギーが不足している。
そのために、貧乏して共産化するおそれがある。
これをなんとかして防がなくちゃいかんと。
それには、将来原子力というものが、エネルギー源として非常に有望だと聞いていると。
だからこれを開発して、エネルギーを豊富にして、貧乏を救済し、ひいては共産化を防ぎたい
と。

アメリカの水爆実験から半年後、第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉さんが死亡(1954/8/23)、死因は放射能症とされた。
アメリカを非難する世論はさらに高まった。
水爆実験に対する日本人の強い反発にどう対処するか。
アメリカの方針が列記されたホワイトハウスの文書には、次のような一節がある。
Seek to attribute continued illness of Japanese patients to chemical effects of coral dusting rather than radioactivity.
(漁民の病気の原因は放射能ではなく、飛び散った珊瑚礁の化学作用であるものとせよ)

水爆実験の責任を取ろうとしないアメリカに対し、抗議運動が広がっていった。
社会党や共産党などの左翼勢力は、アメリカを戦争勢力と位置づけ、アメリカと結びついた保守政権に対する攻撃を強めていった。
アメリカは日本の政治情勢に神経を尖らせていた。
極東での反共の砦となるべき日本の政治基盤が安定しないことを懸念していたのである。

ソビエトもまた、こうした日本の情勢に注目していた。
日ソの国交を回復し、日本をアメリカから引き離す好機と捉えていた。

内外の政治情勢が緊迫する中、柴田はワトソンと銀座で会い、ひとつの計画をもちかけた。
それは、民間使節の形をとった、原子力平和使節団をアメリカから招き、原子力の平和利用を、広く一般国民にPRしようというものであった。

「柴田に、金はあるのかと尋ねると、充分にあると答えました。
では、プロデュースをこちらでやろうかと言うと、それもこちらでやると言うのです。
わたしもそれに賛成でした。
そこでわたしは、ゼネラル・ダイナミクス社と連絡を取り始めたのです」

その年(1954年)1月、アメリカは世界に先駆けて、原子力潜水艦ノーチラスを完成させた。
ゼネラル・ダイナミクス社は、その開発メーカーだ。
ゼネラル・ダイナミクス社長のジョン・ホプキンスは、原子力平和利用計画に熱心で、海外での市場開拓を財界で提唱している人物であった。
柴田は、アメリカのテレビ関係者などを通じて、ホプキンスと連絡を取り、平和使節として来日するよう、正力の意向を伝えた。
『原子力平和利用の、先覚者たる貴下の訪日こそは、この際、期せずして、アメリカ側からする、最も効果的な反撃となることは、小生の深く確信するところであります』

明けて1955年、読売新聞は元日の朝刊に、アメリカの原子力平和使節団の招聘を告げる社告を掲載した。
これ以後5ヶ月に渡り、原子力平和利用のキャンペーン記事が、たびたび読売新聞紙上に登場することになる。
『野獣も飼いならせば家畜』『ナゾも不安も無し』

柴田秀利の手記より
『読売も日本テレビも、ともに原子力特別調査班を作り、両社をあげて、使節団受け入れの世論作りに邁進した。
わたしは、新聞とテレビの両メディアを、相呼応させて活用する、本格的な大キャンペーン開始の時が来たことを確信し、精魂を傾けていった』


一方正力は政界に入り、アメリカから提供されたデータを使って、水力や火力よりも原子力の方が経済的であると、財界を説得した。
原子力発電の安全性についても説明した。
財界誌に掲載された正力の文章には、
原子炉から出る死の灰も、食物の殺菌や動力機関の燃料に活用できる』と書かれている。



敗戦後の日本。冷戦時代の米ソ。共産化を恐れたひとりの財界人。アメリカと精通していた敏腕社員。
いろいろなことが、このドキュメントの内容以外に、もっと渦巻いていたのだと思います。
今から20年近くも前に創作されたこのビデオは、一番モヤモヤとしていた部分をくっきりと形づけてくれました。
さあ、今日もあと少し、「原発はんたぁ~い!」を叫ぶぞぉ~!
コメント (4)
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