ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

85年『国家秘密法案』を廃案させた世論の猛反発。30年後の大人は腰抜けと惚けの集まりか?

2013年08月18日 | 日本とわたし
極端かもしれん。いやでも、極端ではなくなるかもしれん。

今朝、東京新聞のこの記事を読みながら、思い出した人がいる。
小林多喜二。
権力に対し、ペンによって徹底的に抗戦しようと決意した数年後に逮捕され、非情で残酷な拷問を受けて殺された作家。

それぐらいの知識しかなかったけど、この新聞記事が言わんとしてる世界の恐ろしさが、実際に経験したこともないのに、ひしひしと伝わってくる。

その記事を書き出したものと、小林多喜二の人生を、続けてここに載せさせてもらう。

情報統制 やり放題に
【東京新聞】こちら特報部より



第三者機関が検証できず

アメリカからの要請 法案のルーツ

「実は身近な危険、自覚必要」

ここであらやめて、秘密保全法案の危うさをおさらいしてみる。
「何のための秘密保全法か」の共著がある、海渡雄一弁護士は、
「米国との軍事協力上、必要だとして出してきた。
07年に、米国と軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を結んだ際、米国並みに厳罰を科す秘密保持体制をつくるよう、米国に要請されたのがルーツ」と説明する。

今回の法案提出は、安倍内閣が、年内創設を目指す、国家安全保障会議(日本版NSC)とセットだ。

「国家機密なんて日常とは無縁と思うかもしれないが、実は身近。
たとえば、原発事故が再び起きた際、国が発生を隠すことさえ可能になる」

法案内容が明かされないので、有識者会議報告書から推測すると、こんな具合だ。
『国の安全(防衛)』『外交』『公共の安全と規律秩序の維持(治安)』の三つの分野で、
国益にかかわる情報を『特別秘密』に指定。
これらを漏らしたり、入手したりした人を罰する。
最高刑は、懲役10年だ。

さらに、公務員のみならず、配偶者や恋人、同級生など、周辺の人たちまで、そのプライバシーが調べ上げられる。

小さな原発事故なら、パニックが起きる危険があるとして、『治安』を理由に、事故発生を『特別秘密』に指定できる。
大きくても、福島原発事故の際には、放射性物質の拡散情報が公表されず、住民がより高い線量の場所に避難させられた。
これが正当化される可能性がある。
拡散情報を公務員が漏らし、メディアが報じれば、刑罰対象になりうるからだ。

旧ソ連は、チェルノブイリ原発事故の発生当初、事故を隠した。
日本でも、戦時中の1944年12月、約千人の死者を出した『昭和東南海地震』が発生したが、
軍需工場の被害を、国民や敵国に知られまいと、軍部が地震を『軍事秘密』にして、報道を規制した。


第三者機関が検証できず

特別秘密を指定するのは、防衛省、外務省、警察庁をはじめ、全ての国の行政機関で、
問題は、第三者機関がその妥当性を検証できないことだ。

NPO法人『情報公開クリアリングハウス』の三木由季子理事長は、
「秘密保全法違反で起訴され、裁判が開かれても、特別秘密の内容は、法廷で公開されない可能性が高い。
形式的な立証だけで、犯罪者とされてしまう恐れがある」と警告する。

参院選で自民党が圧勝した今、国会に法案が提出されれば、審議がほとんどされないまま可決成立する可能性がある。
どうすればいいのか。

上智大の田島泰彦教授(情報メディア法)は、
「おそらく法案ができている。
だが、内容は、箝口令(かんこうれい)が敷かれ、表に出てこない。
だからメディアもあまり取り上げない。
法案を出す官僚たちが、高等戦術をとっている」と憂慮する。

秘密保全法案とよく似た『国家秘密(スパイ防止)法案』は、85年に提出されたが、
「戦時下の監視体制に逆戻りする」と世論の猛反発を受け、廃案となった。
田島教授は、
「いまは小さな反対集会が開かれる程度だが、官邸前デモのように、目に見えるパフォーマンスをしては」と提案する。

青山学院大の大石泰彦教授(メディア倫理法制)は、『倫理観』をキーワードにする。
「原発事故が起きても、誰も責任を取らず、忘却し、現実を直視しない。
政治家の無責任さに対するメディアの追求も甘い。
そんな無倫理状態が、今の日本を蝕んでいる」と批判する。
そしてこう訴えた。
「私たちの生活を脅かす法案の成立を防ぐのに重要なのは、社会に生きる一人一人の自覚。
社会の現実から目を背けていないか自問自答し、倫理観を取り戻すしかない」

デスクメモ
エジプトの騒乱が伝えられるが、軍に排除されたムスリム同胞団率いる前政権側にも、問題はあった。
選挙での勝利を、民衆からの『白紙委任』と勘違いしたのだ。
その誤解は、現在の自民党にも通じかねない。
しかも、留め金が、権力内部にはない。
たとえ、ごまめの歯ぎしりでも、メディアが責務を果たさねば。(牧)


文芸ジャンキー・パラダイス
http://kajipon.com
を書いてはるド根性文芸研究家カジポン・マルコ・残月さんの、偉人たちの『お墓』情報より

ペンを武器に戦い拷問死した作家
【あの人の人生を知ろう~小林 多喜二】
Takiji Kobayashi 1903.10.13-1933.2.20 (享年29才)



1931年、自宅の火鉢の前で(28歳)

書くこと自体が、生死を賭けた戦いだった…この国にはそんな歴史がある。
それも、明治や江戸時代の話ではなく、昭和のことだ。

特別高等警察、略して特高。
手塚治虫の『アドルフに告ぐ』にも登場するこの組織は、体制に反対する労働組合員や、反戦平和活動家など、
政府に逆らう思想犯を、徹底的に取り締まる目的で、明治末期に設立され、その後、敗戦まで強権をふるった。
特高は、国家反逆罪や、天皇への不敬罪を武器に、密告とスパイを活用して、“非国民”を手当たり次第に検挙し、
残忍な拷問で仲間の名前を自白させては、さらにイモヅル式に逮捕していった。

小林多喜二は、1903年に、東北の貧農の家に生まれた。
親に楽をさせる為に苦学して、小樽で銀行員になり、21歳で、仕送りの出来る安定した生活を営めるようになる。
小市民的な幸せな未来が、目の前に約束されていた。
音楽が好きな弟には、初月給の半分を使って、バイオリンを買ってあげた。

ところが、軍国化を進める政府によって、1928年3月15日未明に、全国で、数千人の反戦主義者を逮捕する、大弾圧事件が起きた。
多喜二の周辺でも、友人たちが続々と連行されていった。
彼は日記に記す。
「雪に埋もれた人口15万に満たない北の国から、500人以上も“引っこ抜かれて”いった。
これは、ただ事ではない」

貧農出身の彼は、もともと、権力・抑圧者への反抗心を持っていたので、この3・15事件は、多大な影響を与えた。
保釈された友人たちから、過酷な拷問の話を聞くに及んで、元来読書好きの彼は、事件を小説にし、世間に国家の横暴を訴える決心をした。
彼はまた、権力と戦う人物を、欠点や弱さも兼ね備えた人間としてリアルに描き、安易に英雄像を作らなかった。

「私は勤めていたので、ものを書くといっても、そんなに時間はなかった。
いつでも紙片と鉛筆を持ち歩き、朝仕事の始まる前とか、仕事が終わって、皆が支配人の所で追従笑いをしている時とか、
また、友達と待ち合わせている時間などを使って、五行、十行と書いていった…(中略)。
私は、この作品を書くために、2時間と続けて机に座ったことがなかったように思う。
後半になると、一字一句を書くのにウン、ウン声を出し、力を入れた。
そこは、警察内の(拷問の)場面だった」(自伝)

完成した作品『1928年3月15日』は、特高警察の残虐性を、初めて徹底的に暴露した小説として、世間の注目を浴びたが、
これによって彼は、特高から恨みをかうことになり、後の悲劇を呼ぶことになる。

翌年、26歳の彼は、オホーツク海で、家畜の様にこき使われる労働者の実態を告発した、『蟹工船』を発表する。
蟹工船は、過酷な労働環境に憤って、ストライキを決行した人々が、虐げられた自分たちを、解放しに来てくれたと思った帝国海軍により、逆に連行されるという筋で、
この作品で彼は、大財閥と帝国軍隊の癒着を、強烈に告発した。
登場人物に名前がなく、群集そのものを主人公にした抵抗の物語は、ひろく一般の文壇からも認められ、
読売の紙上では、“1929年度上半期の最大傑作”として、多くの文芸家から推された。

しかし、天皇を頂点とする帝国軍隊を批判したことが、不敬罪に問われ、『蟹工船』は『3月15日』と共に、発禁処分を受けてしまった。
また、銀行からは、解雇通知を受け取ることになる。
多喜二は、腹をくくった。
ペンで徹底抗戦するために、名前を変え、身分を隠して、各地を“転戦”する人生を選択した。

そして、運命の1933年2月20日。
非合法組織の同志と会うために、都内の路上にいた所を、スパイの通報によって逮捕される。
この時、逃げようと走り出した多喜二に向かって、特高は「泥棒!」と叫び、周囲の人間が、正義感から彼を取り押さえたという。
同日夕方、転向(思想を変えること)をあくまでも拒否した彼は、特高警察の拷問によって虐殺された。
…まだ、29歳の若さだった。
※3時間の拷問で殺されたことから、持久戦で転向させる気など特高になく、明確な殺意があったと思われる。

彼の亡骸を見た者が、克明に記録を残している。

「ものすごいほどに青ざめた顔は、激しい苦痛の跡を印し、知っている小林の表情ではない。
左のコメカミには、打撲傷を中心に、5、6ヶ所も傷痕があり、首には一まき、ぐるりと細引の痕がある。
余程の力で絞められたらしく、くっきり深い溝になっている。
だが、こんなものは、体の他の部分に較べると、大したことではなかった。
下腹部から左右のヒザへかけて、前も後ろも何処もかしこも、何ともいえないほどの陰惨な色で、一面に覆われている。
余程多量な内出血があると見えて、股の皮膚がばっちり割れそうに、ふくらみ上がっている。
赤黒く膨れ上がった股の上には、左右とも、釘を打ち込んだらしい穴の跡が15、6もあって、そこだけは皮膚が破れて、下から、肉がじかに顔を出している。
歯もぐらぐらになって、僅かについていた。
体を俯向けにすると、背中も全面的な皮下出血だ。
殴る蹴るの傷の跡と、皮下出血とで、眼もあてられない。
しかし…最も陰惨な感じで私の眼をしめつけたのは、右の人さし指の骨折だった。
人さし指を反対の方向へ曲げると、らくに、手の甲の上へつくのであった。
作家の彼が、指が逆になるまで折られたのだ!
この拷問が、いかに残虐の限りをつくしたものであるかが想像された。
『ここまでやられては、むろん、腸も破れているでしょうし、腹の中は出血でいっぱいでしょう』と、医者が言った」


変わり果てた多喜二の亡骸を悼む友人たち(北海道新聞)

警察が発表した死因は、心臓麻痺。

母親は、多喜二の身体に抱きすがった。
「嗚呼、痛ましい…よくも人の大事な息子を、こんなになぶり殺しにできたもんだ」
そして、傷痕を撫でさすりながら、
「どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と泣いた。
やがて涙は慟哭となった。
「それ、もう一度立たねか、みんなのため、もう一度立たねか!」

特高の、多喜二への憎しみは凄まじく、彼の葬式に参列した者を、式場で逮捕する徹底ぶりだった。
彼の死に対して、文壇では志賀直哉だけが、
“自分は一度、小林に会って、好印象を持っていた、暗澹(たん)たる気持なり”
と書き記した。
この国の文学界は、沈黙を守ったのだ。
どの作家も、自分に火の粉が降りかかることを恐れたためだ。


多喜二が、小樽に自分で建てた墓

多喜二の墓は、南小樽の奥沢共同墓地にある。
僕は、墓石の裏側を見て絶句した。
「昭和5年6月2日小林多喜二建立」

昭和5年(1930年)といえば、『蟹工船』発表の翌年だ。
多喜二は、『蟹工船』によって警察にマークされ、5月に初めて逮捕されている。
そして、墓を建立した3週間後に、再逮捕&起訴されており(『蟹工船』で不敬罪)、
翌年1月まで約半年間、多数の思想犯が送られた、豊多摩刑務所に収容されている。
つまり、多喜二は、当局による弾圧を、日増しに実感するなか、保釈の隙をぬって、自ら“小林家之墓”を建てたのだ。
そこには、「いま建てておかないと、ペンを握り続ければ死ぬかもしれない」という、覚悟が込められているように見える。
墓建立の3年後、多喜二は絶命した。

※多喜二の訃報を聞いた、中国の作家・魯迅は、次の弔電を寄せた
「我々は知っている、我々は忘れない、我々は固く、同志小林の血路に沿って前進し、握手するのだ」

※後年、多喜二の弟が、兄の思い出を語っている
「地下活動していた兄を訪ねたときに、2人でベートーヴェンを聴きました。バイオリン協奏曲です。
その第一楽章のクライマックスで泣いていた、兄の姿が忘れられません」


●『蟹工船』は、既に著作権フリーになっており、青空文庫にて無料で読める。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000156/files/1465_16805.html

●読んでいる時間がないという方は、「マンガ蟹工船」がお薦め。白樺文学館がPDFファイルで公開しており、なんとこちらもダウンロードが無料。
http://diamond.jp/series/brandnew/10086/

※上記PDFファイルを読めない方は解凍ソフトを落とせます(無料)。
http://www.adobe.com/jp/products/acrobat/readstep2.html

コメント (3)
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