ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

ありがとう!おめでとう!

2013年08月24日 | 家族とわたし
朝からひとり生徒を教えて、昼からACMAの役員ミーティングのためにマンハッタンに出かけた。
プレジデントのアルベルトから、彼が今までずっと、ひとりで引き受けてきた雑多な用事を、役員にも手伝ってもらえないかと、その内訳表が送られてきてた。
その、ずら~っと並んだ用事の内容を見てるうちに、またまた、役立たず者ディプレッションに襲われた。
そのほとんどが、わたしには無理なんである。
月例コンサートの会場主との交渉、税金対策、ホームページの改善etc……。
う~ん……やっぱ自分は辞退して、もっと役立てる人を加えた方がええのとちゃうやろか……。

マンハッタンへの道中の車の中で、旦那にチラッと言うてみた。

また始まった……。
その通り、また始まってん、わたしのしょうもないクヨクヨが。

とりあえず、役員全員の前で、そういう意見を言うのはやめた方がええと思う。
誰かひとり、軽く聞き流してくれそうな人に話してみて、反応を見たら?

ミーティングの途中で、最近会員になったマギーという、チャンネル11のリポーターがやって来た。
仕事仲間のあるディレクター(チャンネル1)に、ACMAの話をしてみたところ、ドキュメンタリー番組を作りたいと言い出したの、と言う。
で、どんな感じのフィルムにしたい?と聞かれて大騒ぎ。
メンバーの中から数人選んで、その人たちの人生を絡ませる。
あるいは、カーネギーでのコンサートに向けて、練習したり、ドレスリハーサルで演奏する様子を撮る。

いろんな職業を持ちながら、音楽をずっと学び続けている人たちに、人前で演奏する機会を提供したい。
そんなアルベルトの願いから始まったACMA。
たった3人が6人になり、それが10人になり、6年経って600人を超える会になった。
わたしは20人程度の会員数の時に加わり、その頃の、調律のされてない、ボロボロのグランドピアノが置かれていた教室の、擦り切れた赤い絨毯と、パイプ椅子と、
観客がひとりふたりと増えてくるたびに、椅子が足りなくならんかと、胸をドキドキさせながら見ていたのを覚えてる。
その頃はまだ、楽器を練習し始めたばかりの初心者の人たちも演奏して、その演奏に対するコメントやアドバイスなどを、ひとりひとりに与えたりもした。

そんな会がどんどん成長し、今やカーネギーの常連になりつつあるのやけれども、その分いろんな問題も増えてきた。
そんなこんなの、成長記ドキュメンタリーでもええよね。

昔話に花が咲いて、自分の根っこがしっかり張っているのを感じることができた。
もうあんなふうにクヨクヨと、自分のことを卑下するのはやめとこう。


家に戻ると、台所でまなつちゃんが大忙し。
今日は次男くんの、25才の誕生日。
会社員として初めての誕生日。
まなつちゃんの、なにか美味しいものを作ってあげたい、というアイディアに、我々も便乗することにした。

まなつちゃん担当の、ステーキ丼。


ステーキ丼というと、パッと思い浮かぶのがここ。


大津で暮らしてた、極貧からまあまあ貧に昇格した頃。
旦那が通てた、京都の祇園の合気道の道場に、親子4人で通い出し、その稽古の帰りに時々寄った、ひとり400円っちゅう我が家の制限を見事にクリアした丼屋さん。
そんなに安いのに、これがまた美味しかった。
もやしと短冊切りにしたステーキ。
うちにとってはすごいご馳走やった。
まなつちゃんがステーキ丼にしようかな、と言うた時、旦那もわたしも即、この店のことを思い出してた。
ほんで今夜、彼女がステーキ丼を作るというのを知った次男くんも、やっぱり我々と同じように、即、この店のことをめちゃ嬉しそうに思い出してた。

さらにまなつちゃんの作った前菜。ウニのペーストの豆腐乗せ。


わたしが担当したカボチャスープ。


旦那が作ったサラダ。


ほんでもって、まなつちゃんのお手製レッド・ベルベットケーキ。


写真では分からんけど、このケーキ、ルビーみたいに深紅!
クリームがまた凝ってて美味!
よかったな~次男くん。

せっかく、あんたもわたしも、あの世に逝きかけながらも踏ん張ってもろた命や。
心も体も健康に、いろんなことが起こったら起こったで受け止めて、辛いことは永遠に続かん、失敗は精神を頑丈にする栄養や!

誕生日おめでとう!
コメント (2)
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『「たとえ素人であっても声を上げることが必要」という歪んだ考え方が社会に蔓延してる』産経ど~ん!

2013年08月24日 | 日本とわたし
産経新聞に載ってた。
のっけから、『市民運動、および市民デモの訴えの多くは、ほとんど意味がない』ときた。

ムカッときて続きを読んだ。
この筆者は、デンマークの哲学者キルケゴールの、市民の本質の定義を引用をしてる。
とりあえず、読んでもらおう。

もっと口をつぐもう 哲学者・適菜収 
2013.8.24
 
市民運動、および市民デモの訴えの多くは、ほとんど意味がない。
彼らが依拠するのは知性ではなく、数の論理であるからだ。
集会やデモを行う市民団体が、毎回のように、参加者数の水増し発表をするのは、その本性を示している。

デンマークの哲学者セーレン・キルケゴール(1813~1855年)は、市民の本質を、「第三者」「傍観者」と規定した。

一人の人間が情熱を傾けて、自分に与えられた使命を果たそうとするとき、また彼らが手を組むときには、集団も意味をもつ。
そこでは、知性と覚悟が重視される。

しかし、水平化・平等化された近代社会においては、傑出した人間は軽視され、疎まれ、引き摺(ず)り降ろされる。
そこに働くのは、嫉妬の原理だ。
そして、個人が完全に等価になった結果、価値判断の道具として、多数決が導入される。
そこでは、頭数を揃(そろ)えることだけが求められる。

キルケゴールは、こうした野蛮を批判した。

「ところが今日では、だれもが意見をもつことができるのだが、しかし意見をもつためには、彼らは数をそろえなければならない。
どんなばかげきったことにでも、署名が二十五も集まれば、結構それでひとつの意見なのだ。
ところが、このうえなくすぐれた頭脳が、徹底的に考え抜いたうえで考え出した意見は、通念に反する奇論なのである」(『現代の批判』)

直接の利害関係がなくとも、メディアが拡散するあらゆるトピックに対し、誰もが一家言をもつ時代である。
こうした社会においては、われわれは当事者意識を失い、傍観者の一人になる。
逆に言えば、傍観者が社会に参加するようになる。
インターネットのブログや掲示板、SNS、ツイッター、グルメや書籍の口コミサイト……。
責任不在の言葉が氾濫し、社会が声まみれになっている。

キルケゴールは、「おしゃべり」の危険性を説いた。
「ほんとうに黙っていることのできる者だけが、ほんとうに語ることができ、ほんとうに行動することができるのだ。
沈黙は内面性である。
おしゃべりは、ほんとうに語ることを先取りしてしまい、反省の所見は機先を制して、行動を弱める」

こうした「おしゃべり」に「原理」が加えられることで、市民運動が発生する。
ごくつまらない人間が、ごくつまらない行動に「原理」を継ぎ足すことで、万能感に浸るようになる。
平凡な人間が、「原理」により、いきなり英雄になる。

しかし、キルケゴールによれば、それは「逃避」「気晴らし」「錯覚」にすぎない。
数を集めることで強くなるような気はするものの、倫理的には敗北しているのだ。

「弱い人間がいくら結合したところで、子供同士が結婚するのと同じように醜く、かつ有害なものとなるだけのことだろう」

意見を持たないことも、教養の一つである。
知らないことには、口をつぐまなければならない。
それは、発言の価値を確保するためである。
「たとえ素人であっても、声を上げることが必要だ」という歪(ゆが)んだ考え方が、社会に蔓延(まんえん)した結果、
傍観者が、退屈凌(しの)ぎに、社会を動かすようになった。
デタラメな人物を次々と政界に送り込み、飽きれば他人事(ひとごと)のように、批判を繰り返す。

キルケゴールの社会分析は、わが国の現状に、そのまま適用することができる。

                   ◇

【プロフィル】適菜収
てきな・おさむ 昭和50年、山梨県出身。
早稲田大で西洋文学を学び、ニーチェを専攻する。
卒業後、出版社勤務を経て、現在は作家・哲学者として執筆活動に専念。
「日本を救うC層の研究」「日本をダメにしたB層の研究」「キリスト教は邪教です!現代語訳『アンチクリスト』」など著書多数。


この人は哲学者らしいけど、キルケゴールの名前を利用して、なんかけったいなこと言うてはるね。
キルケゴールっていう人のこと、ちゃんと知らんかったから、ちょっとだけやけど調べてみた。
なんでかっていうと、この適菜氏は、知らんことには黙っとけって言うてはるからね。

いろいろ調べた中で、この方の解説が一番わかりやすかったから、ここに載せさせてもらう。

実存主義の思想家 キルケゴールの思想【るいネット】より。

前略

父親は幼い頃荒野で牧童をしており、自分の孤独な境遇を神に呪ったらしい。
その後、コペンハーゲンに出てきて、外国貿易で巨万の富を築く。
そのため、キルケゴールは一生、働かずとも生活の不安がなかった。
 
また、父親は、先妻の後の妻となったキルケゴールの母親を強姦したことなどから、罪悪感に絶えず襲われるようになり、
自分の息子は、若いうちに皆死ぬと、本気で考えていたようだ。
実際、7人の子供のうち、長兄と末子のキルケゴール以外は、34歳以前に死んでいる。
 
この父親の性格が、息子のキルケゴールに、大きな影響を与えているといわれている。

中略

ヘーゲルは、国家がどうの、歴史がどうのというが、しかし、毎日笑ったり泣いたり、不安になったりするのが現実の人間じゃないか、とキルケゴールは考える。
ヘーゲルは、人間は、国家という全体の一部分であり、国家の精神を表現する、いわば手段と見るが、そんな人間観にも、反発を感じていた
そのような体系の重要さはわかるが、実際の生活にとって、まったく何の役にも立たないからだ。
 
キルケゴールは、大所高所から語られる体系ではなく、自分の生に直接関わってくる哲学、自分の体験したこと、不安、感じたことなどを記し始める
そんな哲学は、それまで存在しなかったのである。

■主体的真理
キルケゴールの生きた時代は、社会の大衆化が進行していた。
その中で、人間は、単なる取替え可能な存在でしかないのでは、という不安を持つ
 
そのような潮流に対して、万人に承認された真理よりも、
私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデー(理念)を発見することが肝要」だという。
自分の存在に無関係に成立する「客観的真理」よりも、自分の存在と直接重要性を持つ「主体的真理」のほうが大切ではないか、と考える。
この主体的真理とは、情熱を駆り立てるような対象(仕事でも、スポーツでも、なんでもいい)たりえるなにか、のことである。



と、キルケゴールの言う主体的真理こそが、市民運動の要とちゃうのかな?
自分の存在に無関係に成立してる真理なんかと違う、自分という存在に直接重要である、自分そのものとしての真理。
それを得るためにはもちろん、まず知らなあかん。
なにを?
自分がなにを見ようとしてるのか、聞こうとしてるのか。
自分がなにを考えようとしてるのか、信じようとしてるのか。
自分がなにを言おうとしてるのか、なにを感じようとしてるのか。
そうやって自分をじっくり観察することは、多くの場合、痛みや苦しみが伴うけども、
それでもふんばってよくよく見つめてたら、だんだんに自分というものが見えてくる。
そしたら急に、それまで感じたことがないぐらいに、知りたいという気持ちが、掘り当てた井戸水のように、深い深い地の底からドドッとわき上がってくる。

大衆化が進んでた社会の中で、自分は単なる取り替え可能な存在でしかないんとちゃうか。
キルケゴールが感じた不安を共有する市民ひとりひとりが、各々の主体的真理に基づいて、街角に立ち出した。

今のようなインターネットという手段が無かった時代には、知り得ようのなかった悪党らの悪巧みが、一部であっても見つけられるようになった。
そういう事柄を知り、それに抗議や反対をするための知識を得た人たちが、それぞれ違う、あるいは共通した感情を抱えて集まる。

適菜氏がいったい、産經新聞からどんな依頼をされたんか知らんけど、
哲学者としてご飯食べてはるんやったら、自分の専門としてる学問の知識を、こんなけったいな、歪曲した使い方せん方がええのとちゃうかな。
「たとえ素人であっても、声を上げることが必要だ」っちゅうのは、この哲学者と産經新聞によると、歪んだ考え方なんやそうな。

そやし、この悲惨な文章は、本人の承諾無しに、産経が勝手に、自分らの狂言を主張したいがために編集してした、っちゅうわけでもなさそう。

かなり長い間、全く無視してた新聞やけど……さすが産経……。
コメント (5)
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