ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

「日本はアメリカの核の傘に守られてなどいない。アメリカの人質だ」by『被ばくした少年』谷口稜曄氏

2013年08月16日 | 日本とわたし
前回の記事の続きです。

「私たちは日本は完全にアメリカの人質のなかにある」谷口稜曄氏8/9 岩上安身氏インタビュー(文字起こし)

私たちは、日本は、完全にアメリカの人質のなかにある

岩上:
あのー日本はですね、いま、急速に右傾化していると言われています。
中国と韓国と、急にぎくしゃくし始めてですね、
そして、北朝鮮のミサイルの脅威に対抗するために、敵基地攻撃論をする。
つまり、相手の基地を最初に攻撃しよう、先制攻撃をやろう。
というような事まで言い始めてですね、そして、一部の、核武装をしようなんて言う声まで上がっていますけれども、
これは、願ってきた世界から、かなり遠い事になってしまっていると思いますが、この点について。

谷口:
日本はね、憲法に記されているようにね、武力は持たないと、戦争はしないと言って、それから68年間、そうしてきたわけでしょ。
その中で、結局よく言われています、憲法の中でもね、もし争いがある時には、武器じゃなくて、人間的なもって解決していく、という事になって、
そこが結局、忘れてしまったような状況になってきているけどね。

あと一つはアメリカね。
なにか、「アメリカ」「アメリカ」って、私たちは、日本は、完全にアメリカの人質のなかにあるとね。

岩上:
属国みたいになっていますね。

谷口:
なんかそうだから、「アメリカの言う事を聞かなきゃいけない」ということをね、
なんか特に、今の安倍総理は、そんな状況が強くなってきているということでね。
だからこういう事ではね、本当に、日本国民を苦しめるばかりじゃないかと。
まだ、世界から認められるような状況にはなっていないわけだから、だからそうなってくるから、
結局一番近い、北朝鮮とか韓国とか中国とかはね、結局日本と、これは親しくは出来ない、という事になってくるんじゃないかなと。
なんか、一番近いところとですから、仲良くしなきゃいけないんじゃないですか。
その事が結局、今後災いしてくるんじゃないかとね、


国民を分断

岩上:
一方で、参院選は本当にですね、なんというか、複雑な思いをするような結果だったと思います。
自民党が圧勝して、維新の会も含めて、憲法改正という勢力が大半を占めました。
憲法が改正されてしまうかもしれない。
日本国憲法というものが変わってしまうかもしれない。
しかも、自民党の改正草案を見ると、憲法9条の2項のところだけじゃないんです。
基本的人権から、言論の自由から、果ては「拷問を受けない、絶対に禁止する」というのが絶対じゃなくなっていたり、ものすごい内容なんですけど、
ご覧になったかもしれませんが、この自民党の改憲草案を見て、憲法改正発議可能な3分の2の議席を獲得してしまった、という状況について、
どのようにお考えになっていらっしゃるか、ちょっと。

谷口:
結局3分の2というのは、なぜ3分の2かといえば、それは反 にはね、簡単に通らないということ。
その事は結局、国民に対して、本当に、よからぬ事を言う人たちが沢山いるんじゃないかと。
その動きとして言えるのは、結局、
平和運動する人間はアカだ」とかなんとかこんなことを言って、
これはアカなんじゃなくて、それは人間としてね、人間が正しい事をやっていることなだけであって、それをアカ攻撃する。
それを言ってね、結局国民を分断して
、道具使うという事はけしからんという事でね。
だから、それだから結局、中国だってね、あまり仲良くしようとしないわけだ。
北朝鮮だってそうだよね。
だから、そんな日本政府ですから、今、非常に危険な状況になってきているという事で、
特に、参議院選挙以後安倍総理がね、帰ってきて、一回、安倍総理が、総理になった人間がね、一回辞めとって、
それでまた再度出てきて、また、昔考えていた事をね、やりなおそうということは、けしからんと思いますよね。

岩上:
第二次世界大戦の総括というものも、やってないような状況だと思うんですけれども、
なぜあんな戦争がね、むごたらしい事が続いたのか?ということが、本当の意味で見直されて、まだいないと思うんですけれどね。
そういう状況で、もう一度もとへもどそうという、

谷口:
そうですね、結局もともとは、アメリカだってね、日本と戦争をして、それで日本人だという事でね、刑務所へ入れた。
それでまた探して、アメリカ政府はね、補償してきたわけ。
ドイツだってそういう事をやってきた。
日本だけ、全くそういう事をしていないわけだよ。

岩上:
個人に対する補償をしない。

谷口:
結局、全く国としてね、人間として、全く違うようなね、人間じゃないかと。
あるいは、それを今度は、信じていく人間が増えていくという事でね、人間にとって多くのね、人たちが増えていくという事だと思いますね。
だから、日本が、本当に危険な状態になっていくんだという事でね、


半分も選挙に行かない人が増えてきた

岩上:
これは、何が悪いんでしょうか?
政治でしょうか?それとも教育でしょうか?メディアなんでしょうか?
それとも、たとえば日本に対してですね、親分風を吹かせて何でもいう事を聞かせる、アメリカの右傾化みたいなものが影響しているんでしょうか?
それとも、日本人一人一人、の性根の問題なんでしょうか?

谷口:
結局一つは、アメリカの右傾化というのは、その事は、日本で上がってきていると思いますね。
その中で結局、日本が行う教育の問題ね、教育の問題にしたって、盛んに政府は、いろんなところに首を突っ込んでやると。
その教育の問題にしても、本当に、子どもたちをのびのびと出来る教育をやらせないで、
それをやらせようとするとね、差別をしてそうやっていかないようにつくっていると、
それは保育所とかね、そんなところから始まっていくわけでしょ。
その事は始終、そんな事をやっている訳ね。

その事が、今度は、浸みこんだ人っていうのはね、そういう人たちでしょうね、危険だっていうのはね。
ま、今度の参議院選挙を見たってわかる通りね、本当に、今の自民党の政府が言っているような事が、正しいなと思っている人たちが多い。
だからそうやってね、  がそうなる。

だから選挙にしたってね、もっと根本的に考えなきゃいけないんじゃないかと。
いくら(投票)したって一緒だとね、(選挙に)行ったって一緒だっていう人たちが増えてきたってことでね、
それじゃ結局、半分もね、半分も選挙に行かない人たちが増えてきたと。
それだったら、結局選挙そのものがね、認めているという事、それ自体が間違っているんじゃないかと。
だから本当に、3分の2以上の人達が選挙に関わって、せめて3分の2以上ね、そういう人がしなきゃいけない。

それから憲法問題ね、憲法も、3分の2で、いま賛成って言っているけれども、それじゃ結局困るからという事で、半分にしようという。
だから、一番大事な選挙についてね、これはもっと考えなきゃいけない。

岩上:
投票率が低かった場合は、その選挙を無効にするとか、そういう国がありますよね。
だからそういう、投票率が低いままにその結果を受け入れて、
ごく一部の人間の意思だけで、国が生まれてくるのはダメ
だっていうお考えですよね。

谷口:
そうですね。それはダメだというね、ま、そういうことで。


次世代へ伝えていく「戦争の苦しみ、最終的には原爆になる」

岩上:
あの、最後に、この長崎の方は世代を継いでですね、原爆の恐ろしさという事を、原水爆禁止運動という事を、おやりになってきたと思うんですけれども、
これから先、原爆、そして原発、そして戦争、戦争可能な国の形づくりみたいな事、
これらにストップを、歯止めをかけたいと思うのであれば、なにをね、今後していくべきなのか?どうしようとお考えなのか?
大変、そのお歳ですから、ご自身で全部やれるわけではないと思うんですけども、
若い人たち、一緒に出てきた人たちやなんかは、皆さんどのようにお考えなのか?
ご希望を持っていらっしゃるでしょうか?

谷口:
そうですね、実際に、私たち戦前を生きてきた人間と、戦後を生きてきた人間。
その中で、私たちは、戦争の苦しみというものをね、絶対に出来ないんだと。
戦争の苦しみはね、最終的には原爆になるんだという事をね、
その事を、若い人たちに、ずっと伝えていかなければいけない。
その事を、若い人たちに、真剣に考えていってもらいたいと。
そういう事を私たちはね、特に、広島とちがって長崎の場合はね、ちいさな子どもらも含めて、
核兵器廃絶という事と平和という事についてね、教育の場においても真剣にやっていると、それはやらなければいけないんだと。
だからその事を、今の若い人たちが、私たちの言う事をね、引き継いでもらいたいと。
その事を、次から次へと、子どもたちに伝えていってもらいたいという事を願っています。



日米安保条約

岩上:
あの、ひとつだけ、1点だけ聞き洩らした事があって、申し訳ない。
あの、これ、他のところでお話になっている事なんですけれども、
原爆を投下した後の話ですが、1958年ですかね、原爆投下時のトルーマン大統領が、
「原爆を投下した事は、良心の呵責は感じない」という事を発言したと。
大変、皆さんは反発をされたわけですけれども、この年の4月、衆参両院で、原水爆の禁止の決議をしたと。
長崎に原爆病院が出来たのは、この年の5月。
ま、この日本では、反対の声が高まっていった、その時に、安保の問題が揺れて、
で、現在の安倍総理のおじいさんの岸さんが、総理をやっていてその頃総理、岸総理ですね。
それから防衛庁長官から、
自衛の範囲なら、核兵器の保有もいけるんじゃない」とか、
あるいは、
防護用の核兵器は合憲」という言葉も出ているというふうにこれ、別なところで発言されていますよね。

今これ、昔の話だとずっと思っていた事なんですけど、今、孫のね、安倍さんが、ここまで右傾化した政策やっている。
なにがなんでも原発を止めないという事を考えていくと、

これはですね、この時のね、60年安保の時の事の、岸さん達が言った事の危険性が、もう一回甦ると思うんですけれども、
やっぱり政治家はね、あの頃考えていた事を、ずーっと諦めないで。もう一度、その初志を貫徹すべく、
どんなに国民が被ばくしようと、原発を保持し続けて、プルトニウムを持ち、原爆をつくろうとしているんだと、
やっぱり考えざるを得ないと思いますか?

谷口:
私たちは特にね、広島長崎の被ばく者の中で、このように苦労して、また国に対して話をしてきた。
その中で、結局国会に対してね、いろんな事を言ってくると。
それでもう一回ね、東京の真ん中にね、原発を持ってきたらどうなるのかと。
そうしなければ、私たちが言っている事を分かってくれないのかと、そういう事を言ってきました。

ま、そないして右傾化していくという事をね、ましてや60年安保闘争というのは、これは結局、アメリカというのは、日米安保条約での改定闘争ですけど、
これでどうなったのかというとね、その中で結局、労働組合の中でもね、差別されて、結局この人達がね、解雇されたという事もありますね。

岩上:
労働組合の中にいても、原水禁運動にかかわっていた人が差別されて、首を切られた
そんな事があったんですね。あー。

谷口:
その中で、結局原水禁運動がね、1955年に始まったわけですけど、そんな中でね、その運動が分裂していくという事、
それは結局、いま言ったね、昔は、原水協だけでやってきたのをね、原水禁とか、原子力はっきん会とかいろいろと出てきて、
核禁会議というのは、もともと自民党のね、ですからね、これが作られてきた。
その次に。結局おまけという事で作られたのが。原水禁ですね。
その中で、もっと作っていったのは60年安保闘争、その中で、きちっと準備されてきているのね。
それになれるのか?っていうと、昔はね、核兵器廃絶と被害者救援は、車の両輪だと言ってた
それが、60年安保闘争のその後に、総評の、定期大会の議案書に、核兵器廃絶の事は載っているけれど、被害者救援が載ってない
どこへ行ったかというと、被ばく者がね、弱者救済というところに回ってた。
被害者は、弱者救済に入るんだと。
国が起こした戦争の責任であり、世界で初めて使った核兵器の被ばく者であると、
その事を、それを結局、“弱者”ということはね、どういうことなのか
?と

そんな事を言ってきたのは、ほんのわずかしかいません。
それから、原水禁からの分裂があり、それで結局、核兵器廃絶のね、原発のね、 というのがでてきたと、そういうような状況ですね。


アメリカの核の傘

岩上:
64年にはね、中国が核実験を行って、それを口実として、アメリカの傘のもとの日本が始まった、とおっしゃったりしてますけど、
アメリカの核の傘という中に、日本は居るんだと思っている人は多いと思いますし、
それが無くなったら、日本は立ち行かないと思っている人もね、少なくないと思います。
この点についてはですね、どのように思いますか?

谷口:
アメリカの核の傘というのはね、私はね、いつも言いますけど、単純にね考えて下さいと。
アメリカは降るからね、傘をさすんだと。
アメリカの核の傘は、雨が降らなくてもね、雨が降らなくても、そのアメリカの核によって日本を守ってやるんだと、
その事を、日本の政府が受け入れて、そんなことをやっている。
だからこれは、全く、「傘というのは間違いである」と私はいつも言いますが、そのことですね。
だから、アメリカは核があるから守ってくれると、それは全くのウソだと。
それは日本は、先程から何回もいいますけど、
日本はアメリカの人質みたいな事だ」というとね、
なんかそこで、完全に日本が独立するんだったら、  するべきじゃないかと。
そしたらその中で、沖縄の問題だってそうなんですよ。
沖縄だって、日本に言わせるとね、日本の政治家の中には、
「沖縄はね、日本の国としてね認めてないんじゃないか」ということを、
昔から、琉球政府と日本と違うんだと。
だからそういう、アメリカなんか、沖縄返還のときだってね、
結局返還すると言ったけれども、日本と違うんだと。
だからそこにアメリカが入って来てね、(基地を)置いていいんだ
と。
いうことで、未だにその事についてね、沖縄についてはその  につくっている。
だから、私は、沖縄はもともとね、台湾もそうですけどね、台湾も総督となっていて、日本が支配していた。
沖縄だって、沖縄政府としてね、琉球政府として、それを日本が取り上げて支配している。
その事が影響してね、いまやっている。
だから、アメリカはアメリカで、と言っているけど、全くのそれはウソなんだと。
核の傘に甘えていては、それは全くのウソなんだと。

日本の政府や政治家が、アメリカに対してね、国民にウソを言ってね、裏取引の材料としているといってね、その事をいつも言っている。
だから日本は でね、だから北朝鮮の問題だって、あれはアメリカを狙う事にして、ミサイル発射したと。

確かに、北朝鮮からアメリカの本国までは、とどくはずがないよね。
だけど、日本にあるアメリカの基地。そこをね、狙っているんだとね。

それが北朝鮮のミサイルなんだと。
だけど、アメリカ本国を攻撃しているわけじゃない。
日本から飛んでいくわけですから、
飛行機が飛んでくる一番近いところをね、そこを攻撃しなければいけない」というのが、北朝鮮の考え方じゃないか。
だからその事を、結局日本は、日本国民には、近いアジアのことを考えなくて、
アメリカとの政府とは、騙されるか騙しているか分からないけど、どっちが騙しているか騙されているかはわからないけど、
日本政府がの国民をだましているという事ね。
それは結局核の傘に居て守られているというね、こんなことの言い方をするとね、

岩上:
アメリカは、日本をずっと組み敷いてきて、そして「核の傘でお前たちを守ってやるからな」と恩着せてくる訳ですけれども、
そういう状況がずーっと、これからも続いていくというのは、
アメリカに対して、
「核を投下したのは人道上の犯罪でしょ」
「あなた達は間違っている」
と。
で、「補償しなさい」
そして「謝罪しなさい」
そして「核を止めなさい」
という事を、日本からアメリカに向かって言われるというのは、アメリカはとても怖がる事だと思っている。
だからこそ一方で、安保によって支配しながらですね、核の恩恵をですね、恩着せがましくも言い続けているように思うんですけど。

谷口:
そうですね。

岩上:
どうでしょう?それ。

谷口:
結局私たちは、実は、アメリカの安保条約でね、国民を騙してね、ここで何も言えなくてね、

岩上:
サンフランシスコ条約ですね。

谷口:
結局アメリカは、吉田茂のサンフランシスコ条約は、そんな日本国をだまして条約をむすんでしまったんだというね、
その事は、吉田というのは右翼的な人間で、それを引き継いでいるのが今の右翼団体。
あいつは  などうなというのがったね、安倍総理はじいさんばあさんのやってきた、だから佐藤栄作だってその にはいっていってね、

だから私は、あくまでも、アメリカとの核の問題を、切り離さなければいけないんだと。
それで、憲法で保障されている、世界の人達と仲良くしていくというのがね。
アメリカとだけ仲良くするんじゃなくて、世界の人と仲良くしていくんだと。
その事を言って、国民の前できちっとしなければいけない。
そういう事を、世界に向かってちゃんとしなければいけないんだ
という事ですね。

岩上:
わかりました。
これは次の世代、その次の世代に語り継がれてですね、日本の平和を守っていく。
その大事な心のよりどころのようにしてですね、この体験が伝えられていく。
そういうふうに信じていらっしゃいますか?

谷口:
そうですね、そうしなければいけないというね。
一被ばく者の言っていることであっても、過去をね、現実を知ってもらうために話した事であるという事でね。
僕はこの事を、みなさんに知ってらいたいと。
あと一回、あと一回と、この歳ではね、来年まで持てるか、再来年まで持てるか、もう、先々も分からないわけだから、
ただこの事を、自分は引き継いでもらいたということでね。

岩上:
わかりました。
いま、御歳84歳になられて、あのー、本当に、体調の悪いところを無理してお話しいただきました。
どうもすみません、長時間の話をありがとうございました。

谷口:
私も恐ろしくて、去年と2年続けてね、肺炎で入院しまして、で、去年も2カ月に一度はね、が併発しまして、非常に疲れるんですね。
もう、とにかく、こうやって起きているのも辛いぐらい。
家にいたら寝てばっかりみたいで、寝ているとすぐにね、動けなくなるんじゃないかと思ってね、無理しておき上がってね、
こうしてなんか話をする時も、今日は咳が出なかったけどね、咳が出ると困るんですね。
咳が出ると痰が出るまでってね。
咳が出ると、今度は鼻水が出てね、涙まで出る。
たんが出ると、一応それで止まる。
だからこれはおかしいと、今年になって特に、そんな事でね、なんか、体質がまた変わってしまってね、
こんな話しててもね、先程から気になっててね、咳が出ないかな、出ないかなと、気が気でならない。
咳が出るとやはり苦しくてね、もう胸が張り裂けそうで、先ほど言ったね、ろっ骨まで骨が腐ってしまっていますから、
これで呼吸器が圧迫されていますから、肺を圧迫しますのでね。
だから私は、普通の人の半分以下ですね、肺呼吸はね。
だから、病院から毎週、呼吸器の検査をしてね、身体障害者の手帳を貰って、それから肺が焼けてしまって、それから人工呼吸ができないということで、
いかに苦しいかという事ですよね、呼吸ができないという事はね。
ときどき下を向いて息を吸うとね、気持ちがいいんですよ。
そんな状況ですから。

岩上:
良かったですよ、本当にね、その……咳が出ないでね。
あの、大事になさってください。
その……来年まで持つかどうかなどと言わずに、僕の親父も、89まで元気でしたし、あの、戦争も行きましたけれども、つい数年前に逝きました。
長生きを、ぜひなさっていただきたいと思います。
ということで、大変体調が悪い中、お話をしていただきました。
谷口さんでした。
長時間の御試聴、ありがとうございました。
谷口さん、本当にありがとうございました。

谷口:
どうもありがとうございました。

ーーおわりーー

↑以上、転載おわり
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『焼き場に立つ少年』と『被ばくした少年』…このふたりは叫ぶ。戦争も核も、この世から消してしまえ!

2013年08月16日 | 日本とわたし
あなたはこの、『焼き場に立つ少年』の写真を見てもまだ、戦争はしょうがないと思いますか?

この記事を書いたのは、今年の5月のはじめ。
そしてその記事のもとになったこの写真は、前から知ってたけれども、写真の背景についてはなにも知らんままにいた。

報道写真家 ジョー・オダネル撮影 「焼き場に立つ少年」 (1945年長崎の爆心地にて)

ふたりの息子を育てた後で、再び会うたこの写真。
腹の底から湧き出てくる悲しみと怒りに突き動かされて、黙々と文字起こしした。

そのオダネル氏は、自分のカメラに収めた少年のことが忘れられんと、あらゆる手を尽くして探しはったらしい。
オダネル氏はとうとう、『焼き場に立つ少年』とは再会が叶わなんかったけど、この、背中一面の悲惨なヤケドを負った『被ばくした少年』谷口稜曄さんと会い、言葉を交わすことができた。

その谷口さんが、岩上氏のインタビューを受けはった。
その、とんでもない文字量を、きーこさんが文字おこししてくれてはった。
いつもながらに大大大感謝!
昨日の失敗がまだ少し尾をひいていて、当分文字おこしはやめようと思ったりしてるヘタレのわたしは、きーこさんの爪のあかでも飲まなあかん。

3回に分けて文字おこしされたものを、2回に分けて載せさせてもらう。
谷口さんは少々早口で、言葉尻がとても聞き取りにくい。
そやからこの文字おこしの作業は、とんでもなくしんどかったと思う。
けれども、谷口さんの言葉のひとつひとつが、それはそれは大切な証言であり、それをひとりでも多くの方々に伝えたいという彼の気持ちが、ひしひしと伝わってくる。
ありがとう谷口さん、ありがとう岩上さん、ありがとうきーこさん。

↓以下、転載はじめ

大変有名な被ばくした少年の写真・谷口稜曄さん
8/9 岩上安身氏インタビュー(文字起こし)


8月9日は長崎に原爆を撃ち込まれた日。
広島の原爆については、はだしのゲンはじめ、いろいろなところから、良く話を聞きますし、
このブログでも、肥田舜太郎先生や、橋爪文さん
8月6日の原爆の日の事については文字起こしをしました。

けれど、私は、長崎については、あまり知らない・・・、と思っていました。

この「有名な」と、岩上さんがおっしゃられた、背中が真っ赤に焼けただれている少年の写真。
私も何度も見た事がありますが、これが、長崎原爆で被爆した少年だったということは、初めて知りました。
そして、その少年が、長崎原爆被災者協議会会長になっていらっしゃるという事も、初めて知りました。

岩上さんのインタビューは、とても貴重で、大事なものだと思います。
ちゃんとお話を聞いて心に刻みつけるため、文字起こしをしました。

「核と人類は共存できない。核には、きれいな核も、汚い核もない」
岩上安身による谷口稜曄(すみてる)長崎原爆被災者協議会会長インタビュー

2013/08/09

岩上:
みなさんこんにちは。
ジャーナリストの岩上安身です。
大変暑い夏の昼下がり。本日は私、長崎の方に伺っております。



この、大変有名な、被ばくした少年の写真があります。
背中が一面焼けただれてしまった。
長崎の原爆によって被爆したわけですけれども、この方が谷口稜曄さん。
そして、本日お伺いするのは、その谷口さんです。
谷口さん、よろしくお願いします。

谷口さんは、日本原水爆被害者団体協議会、約して被団協という、その代表委員という事なんでしょうか?

谷口:
はい、そうですね。



岩上:
長崎原爆被災者協議会、こちらの会長もお務めになっている。
今ちょっと、お名刺の裏側の写真を、みなさんにお見せしたんですけれども、
この背中の具合はどうなんですか?
大変やっぱり後遺症がきつい状態にある?



谷口:
完全に焼けてしまっている関係でですね、結局、皮膚呼吸ができない関係で、非常に、夏というのは苦しいんですね。
特に今年は暑くてね、もう、背中が沸騰するみたいで苦しいですね。

岩上:
申し訳ありません、そのコンディションの良くない時にですね、お時間を少し割いていただきました。
今年は、長崎に原爆が投下されて68回目。
本日は、その68回目の当日に当たります。
そして、午前中から、式典も行われました。
ご出席もなされたと思いますけれども、我々も中継を行っていたんですが、
改めてですね、一般的な事でもあるんですけれども、68回を迎えての思いというものを、一言いただけないでしょうか。

谷口:
それはやはり、犠牲になっては、そういう事が出来ないですけど、
あらためて、68年目の8月9日というものを思い、否が応でも、生まれたのが大事、という日なんですね。
その当時、私は16歳で、爆心地から約1.8kmのところを、自転車で郵便配達を配っていました。

岩上:
郵便配達の仕事をしていた。
あの、思いだすという事は、大変お辛い事と思いますが、当時の忘れられない事ですけれども、
その郵便配達の仕事をしている時に、どのように爆発に出会い、大けがを負われたのか、ちょっとひとこと。

谷口:
結局、爆心地から約1.8kmのところを走っていて、後ろから焼かれました。
それで、空襲警報が解除になってね、配達を開始したんですが、
その時に、かすかに飛行機の爆音がして、「おかしいな」と思って をした途端に、あっという間の出来事ですよね。

岩上:
あー、なにか飛行機の爆音が聞こえて、おかしいなと思った瞬間に、閃光が走ったと。

谷口:
そうです。

岩上:
え…、あっという間の出来事だったと。

谷口:
結局、よく言われる3000度、4000度と言われるね、石や鉄を溶かす熱線と、目には見えない放射線とで、後ろから焼かれて、
次に、秒速で200億300億と言われる爆風で、自転車もろとも飛ばされて、道路に叩きつけられました。
道路に伏せていた時にね、「これじゃ死んでしまう」という、死の恐怖を味わいましたけど、
「ここで死ぬもんか」「死んじゃならんぞ」と、自分を励まして生きてきたんです。
そして途中で へ入って見てみると、ずーっとあった家はほとんど焼けてしまって、溶けてしまって、焼けてしまって、
近くで遊んでいた子どもが、こっちへ飛ばされてしまっていた。
それでまた、大きな石がね、直径31ぐらいある石でしょうかね、私の方をめがけて飛んでくる、というのも見えました。

そこでね、「ここで死んじゃう」と、死の恐怖に襲われましたが、「ここで死ぬもんか」「死んじゃならん」と、自分を励ましてきた。

しばらくして、がおさまって起き上ってみると、
左の手は、腕から手の先まで、おもりを下げたように皮膚が垂れ下がり、
背中に手を当ててみると、左側はなんにもなく、焼けただれたように黒く が手に付きました。
それで、乗ってた自転車を見てみると、車体も車輪も、使い物にならない位に曲がってしまってた。
あの時 でやったのが だと思います。
一滴の血も無い、痛みも全く感じない それも皮の状態 そのなかで、放心の状態でとぼとぼ歩いて、あれからは何処にいけば  火事で焼けたりしていました。

岩上:
あの、痛みが全くない状態というのは、どういう事ですか?

谷口:
結局、なんていうんでしょうかね、よく鞭などでピシャッ!と叩かれる時にね、アイタッ!って言うだけでね、痛みをしばらく感じない、そんなものだよね。
しばらくしてから、痛みが出てくる。
 ってしまえば 殆ど痛みってなかった。

岩上:
いつ頃、感じるようになったんですか?

谷口:
だから、結局なんていうのか、血は出ないし、痛みは感じないし、だから夢遊病者みたいにね、 の行き先は で焼いていったんだ。

岩上:
え、どこへ向かったんですか?

谷口:
その時、250ちかく離れた所にね、トンネル工場に避難しました。
途中で、先ほど言った、ここに飛ばされた子どもがね、一人の子どもは黒焦げになって死んでいて、ひとりの子どもは、何の傷もうけないで死んでしまった。
そういうのを見ながら、またまわりには、女性の人達は、男か女か分からない状態で それを見ながら、様子を見ながら、「どうしよう」という気も起らなかった。
で、トンネルまで行って、そこで、その中にいた女の人に頼んでね、腕に下がった皮膚が邪魔だから、それを取ってもらいました。

岩上:
手に下がって、皮膚が邪魔だからと、どんな状態で?

谷口:
結局、ここからダラーッと下がっている訳ね。
ここから剥げていて、ここに溜まって、ダラーッと下がっている。

岩上:
それは、背中の方からの皮膚?

谷口:
いや、左の手、

岩上:
左の手。

谷口:
左手。
背中はもう、焼けてしまっていますから、何もなかった。
これが、約1カ月後の写真です。



これが頭ですね、こっちがお尻の方です。
これが左手ですね。
ですから、これ、下は焼けていませんから、皮膚がありますけど、こう焼けたところは骨。
皮膚も何もなくて、骨ばかり。
ここに骨が見えてる。



下の方は、腐って溜まっていますけどね。

岩上:
なにが溜まっているんですか?

谷口:
腐って流れて溜まっている。



これ、真ん中に、黒いところがありますけど、ここは、15年経っても、この傷はふさがらなかった。



これは結局、芯の底まで焼けてしまって、石みたいのが出てくるんです。

岩上:
白くなっているのは、どういうことなんですか?

谷口:
これは薬なんです。

岩上:
あ、薬なんですか。

谷口:
ええ。

岩上:
これは、痩せてて、本当に、ご飯ものどを通らなかったんじゃないですか?

谷口:
そうですね、食べ物だって、今みたいにそんなに無いですからね。
こうやって、うつぶせに寝たっきりですから。
で、こいつは、これは半年位。

岩上:
あー、これは半年経って……。



谷口:
こっちは、アメリカのカメラマンの、ジョー・オダネルという人が写した。
こっちは約半年後で、アメリカの原爆、新爆弾調査の、ハーバード・スミスさんという人が写したもの。
これは なんかに記録されていますけれどもね、21年の1月31日に撮影。



こんな状態でですね、1年9ヶ月寝たきりですから、だから、骨が腐ってしまいました。

岩上:
骨が?

谷口:
骨が腐ってしまった。

岩上:
腐ってしまった。

谷口:
だから今でも、骨と骨の間からね、心臓が動いているのが、目で見る事が出来る。

岩上:
……。

谷口:
ピクピクッてね、動いている。

岩上:
心臓が見える。

谷口:
ええ、ピクピクッと動いているのが見えます。

岩上:
……いや……奇跡的ですね

谷口:
誰一人としてね、「生きる」っていう人はいなかったんです。
毎朝、看護婦さんが病室に出てきて、「今日も生きてる」「今日も生きてる」と、廊下でささやいてた。

このように被爆した関係で、トンネルへ入って、左手の皮膚を切り取ってもらって、
しばらくすると、そこへね、まだ攻撃されるかもわからないから避難所へ、と言われましたけど、
10分も過ぎてなかったかな、とにかく、自分の力で、立ち上がる事が出来なかった。
で 元気な人に背負われて、山の上の木の陰の、草の上に寝かされた。
そこで2晩過ごして、3日目の朝にやっと救出されて、なんか、2km離れている医者のところにおくられました。

ま、そこでも、しばらく治療は受けられなくてね、で、送られていって、それから3日ぐらい経ってから、
やっと傷から、血が少しずつ、じわじわと出てきました。

岩上:
それまで血が出なくて、火ぶくれのようになってたんですか?

谷口:
結局、全然血が出なかったね。
もうあの時に、完全に、血管からなにまで、全部侵されてしまったんでしょう。
だから、6日ぐらいしてから、やっと血が出始めて、それで、たまに、痛みがじわじわと襲ってくるけどね、
それは私にとって、まだ痛いというほどじゃなかったね。

それで、1ヶ月ぐらい全く血が ができなくて、9月になってから、やっと が出来るように多少はこう、
そこで 大丈夫だろうという事で に送られてきました。

そこで、一番初めにやったのが輸血ですが、輸血だって、血管に注射針をさせますが、入っていかない。

岩上:
注射が打てない。

谷口:
はい。

岩上:
輸血が出来ない。

谷口:
輸血でもね、入っていかない。
なんか、それで結局、内臓も全部、侵されてしまっていたんでしょうね。

岩上:
内臓が全部……。

谷口:
はい、心臓からなにから侵されてしまって、

岩上:
侵されてしまっていた。

谷口:
だから、そんな中で、あの時は、牛を殺して肝を持ってきてね、目の前に小さく切って、それを「生で食べなさい」と言われて、
「焼いたり炊いたりしたんじゃだめだ」っていうのね。

岩上:
焼いたり炊いたりしちゃダメだと、生じゃないと……。

谷口:
はい。

岩上:
どうしてですか?

谷口:
それは結局、血液がね、出来ないからでしょうね。

岩上:
たとえば、生のレバーみたいなものを食べると。そうすると、血を取りこめるという事ですか?

谷口:
そうでしょうね。
だけどその頃は、原爆症のことは、誰も知らないですからね。
なんか、そんな事をしてもよくならないし、ずっと日にちが経つにつれて、焼けたところが腐って、流れていくわけね。

岩上:
ああ……火ぶくれが大きくなって破れて、血が出て……腐っていくんですか?

谷口:
腐っていく。
そのやけどの写真のようにね、ただ横に溜まって、1日何回も、ぼろ切れでつまんで、背中を洗ったんです。

岩上:
痛かったですか?

谷口:
もう、痛いというんじゃなくて、苦しくて苦しくてね、もう痛みというのは、そんなに感じないわけですね。
もう、背部を鞭でピシャーっ!と叩かれてね、対外的に「痛い」っていうだけでね、しばらくは痛みを感じない。
また、そういうもんなんですね。

11月になって、今の の海軍病院ですね、いまは(高知病院?)になっていますけれども、そこに送られていきました。
それも、うつぶせのままでね、担架に乗せられて送られていって、
それからそうやってうつぶせになってて、さっきも言いましたようにね、とこも全部腐っていきますね。
 ってね、 になってしまいます。

まあ、そうしていきますけど、背中がだんだん腐って流れていくばかりでね、
結局そこで、アメリカが持っていたペニシリンを使いましたけど、これだってほとんど効果が無い。

岩上:
アメリカが。

谷口:
ペニシリンでね。

岩上:
ペニシリン。ああ、効果が無かったですか。

谷口:
ペニシリンっていうのはね、化膿止めですからね。
全然良くならないし、結局、やっぱり、そこら辺で、原爆症だって分かったわけですよね。

岩上:
原爆症。

谷口:
これは、ある特殊な薬を使いましたけど、
その薬というのは、戦時中に、軍の命令で、プロジェクトチームが作って、軍の海上点検(?)されてと言われています。
ナサは研究投与で をいかなくして、全部 してしまったわけね。

岩上:
え?な、なにが?

谷口:
終戦になって、プロジェクトチーム全部が、解散してしまった。

岩上:
あ、プロジェクトチームが解散しちゃった。

谷口:
それを したものを の にもってした。

岩上:
なんていう薬なんですか?

谷口:
それは、

岩上:
日本軍が作った薬なんですね?

谷口:
いやいや、熊本医大でね、研究されて、と言われています。
それを使ってから、血液が非常によく立ち上がって、そして傷が、徐々に良くなっていった。

岩上:
うなんですか。
それは塗り薬なんですか、飲み薬なんですか?

谷口:
飲み薬。

岩上:
飲み薬なんですか。

谷口:
それから結局、4カ月してですね、4カ月経ってやっと、傷が良くなっていくと。
その時は、主治医が看護婦さんにいってね、控室の壁に掛けられている、大きな鏡を持ってこられて、
こうやって、よくなっている傷を見せてくれました。
たいがい、傷の端の方から薄いシワがあって、よくなっていました。

岩上:
あー、そうですか。

谷口:
そうやって、21年の10月頃にね、 行ってて、1年9カ月経って、22年の5月にね、やっと自分の力でベットから できました。

岩上:
寝たきりだったんですね。

谷口:
それまで全く動けなくてね、寝たきりで。
ある日突然、「起きれるんじゃないかな」と思って、自分で、ベットで、自分の身体をずっと動かして、それで立ちあがって  して、
その立ち上がった時の痛みっていうのはね、これは誰も、そんなこと言っても信じないし、体験したことないんじゃないかと。
何故かというと、1年9カ月寝たきりですから、起き上がる時にね、頭から足に向かってね、血管の中を血液が流れていくのが分かる。

岩上:
頭から足へ流れていくのが、

谷口:
血液がずーっと、下へ流れていくのがわかる。
それがものすごく痛くてですね、ちょうど針を刺すような痛みでね。

岩上:
これ、背中を通る時が痛い、という事ですか?

谷口:
血液が。
普通はこう、寝たきりですから、普通は寝たきりで、 ないわけでしょ、
それが起き上がった時に、結局、血管の中を血液がずっと流れていくからね。
もうすごい、足だってどこにあるのか分からない状態にね、なりました。

岩上:
全身が痛いっていう事ですか?

谷口:
そうですね。
しばらくもう目を閉じてね、「エエイッ!」って我慢しなきゃいけなかった。
そうこうして を行っていって、3年7カ月経ったときにやっと、「退院しても良い」という許可が出ました。
普通だったら、「退院していい」と言われたら喜ぶんですが、私には喜ぶことができなかったね。

岩上:
喜べなかった、

谷口:
こんな体でね、社会に出て して、みんなと一緒に仕事ができるだろうか、自分に出来るだろうかと、
みんなはダメだと言わなかったけれども、情けなくて歯がゆくてね、
なんたって戦争が憎い、原爆が憎い。
世の中は、私にウソ言ってたと。
日本は絶対に負けないんだと。
お国のために、天皇陛下のために死ぬことは、名誉誉れと美化していってて、いわないでいて、
なぜ戦争に反対しないで  でいって、  なんで  たのかと、出てないと思った。

岩上:
天皇陛下のために死ぬのが日本人の誉れだ、というふうに言われてきたけれども、
ごめんなさい、ちょっと聞こえなかったんですけれども、
日本人がそのように生きてね、天皇陛下のために死ぬのが誉れだと言われてきたけれども、

谷口:
だからそのね  がねウソだったんだと。
まずはそんなことはないというね、
だから世の中の親たちはね、  だったんだと。
まだ16歳ですからね、子どもの時に被爆しているわけですから。
もうその頃というのは、本当に軍国主義をね、叩きこまれることばかりですよ。
だから、それが正しいとみんなが思っている訳ですよ、ね。

岩上:
正しいと思って。

谷口:
今でも、小さい子どもたちにいろいろと親が言うとね、それは正しいと思う訳ですね。
それと同じですね、子どもの頃はそう思ってました。
いざ退院してみた時に、 そんなね、思いましたね。
20年の3月20日に  が入ってきて、

岩上:
20年の3月20日、

谷口:
3月20日ね、24年ですね、24年の3月20日に が入ってきて、

岩上:
なにが入ってきたんですか?

谷口:
病院を退院して、長崎に帰って来た。

岩上:
ちょっと長崎から離れた病院だったんですね?

谷口:
大村ですから

岩上:
大村ですね。

谷口:
ま、その後ずっとですね、治療を続けていますけれど、退院して12日目に、元の職場にやっと復帰して、

岩上:
12日後には働きだしたんですか?

谷口:
はい。

岩上:
そうすると、もともと郵便配達の仕事。それに戻れた。

谷口:
その頃は結局、逓信省でね、郵便配達や電報やらが一緒だったけど、
23年に省が分割になってね、私は電通省に配属されて、そして今度は、郵便配達じゃなくて電報配達のね、

岩上:
電報配達…動けたんですか?

谷口:
結局それも、動かなきゃいけないと思ってね。
自転車に乗って、走りまわっていました。

岩上:
背中から血が出るとか、その、火ぶくれのようになっていてね、またこすれて、破れてというような、そんな事はなかったんですか?
もう、大丈夫、ふさがっていたんですか?

谷口:
結局、その後ずっと、次から次へね、あの…よくなくて、これまで14回入院してね、24回手術をしてます。

岩上:
24回も手術を

谷口:
24箇所

岩上:
24箇所。

谷口:
被害で言うと、皮膚を移植しなきゃ。
皮膚を移植しても、移植した皮膚はね、全くやられたところもダメになってしまうと。
これだってそう。



これだって全部ここ、これだけずーっと全部剥ぎ取ってしまって、ここが伸びない訳ね。
初めは寝たままで、 をしてるから、だから関節が変形していますよね。
だから、ここを延ばすために一応手術しましたけど、こっちは剥げてしまって、初めはこのくらいしか伸びなかった。
ずーっと今はこう、110度まで伸びます。
そしてここに皮膚ね、太ももからこんなに大きな皮膚を取ってきて、貼った。
その時は綺麗に、綺麗に貼ったけど、貼ったあとはこないしてね、貼ったけど後でこないになってしまう。

岩上:
初めは綺麗だったけど、変わっていっちゃうんですか?

谷口:
結局こんなにね、ケロイドになってしまう。
背中だってそうだね。
背中も始め、綺麗なのを持ってきて貼ったけど、全部、焼けたところは同じになっちゃうね。

岩上:
同じになっちゃう。変化してしまうんですか?

谷口:
そうだね。
だからそんな状態で、また悪いところは悪くなっていくし。

岩上:
ご家族は無事だったんですか?

谷口:
家族は、私の家はずっと、爆心地から約2.7km~8kmありましてね、
ある程度家の方は大丈夫でしたね。壊れていはいますけれどね。
 って、家族というのは非常に からね、複雑なところですから、そこに、私とお姉さんとおじいさんとおばあさんとね、
まあそこで、まずお姉さんが子どもをかばってね、いったけど、その子どもは、全然怪我も何にもしていなかったけど。
なんか、1ヶ月ぐらいが過ぎてから、甲状腺がいかれてね、2回手術したと聞いていますね。
その頃は2歳ですかね。2歳ぐらいね、女の子ね。
まあその、早くここ(甲状腺)に出たからいいんだと思いますね。
その後は全くね、今は異常が無い状況で、いま生活しています。

岩上:
今もお元気で。

谷口:
はい。

岩上:
ああ、よかったです。


一部の人の欲のためにね、戦わされてきたんだ

26;05
岩上:
あの、ものすごい御苦労をなさって、そして戦争、これは正しい戦争をやっているんだ。
そして、天皇陛下のために死ぬんだという思いで、そういう教育を受けて、そして、自分が原爆の直撃を受けてですね、
何年間か寝たきりで、社会に復帰して、そしたら社会ががらっと変わっていて、受け入れるのも大変だったと思うんですけれども、
世の中の価値観ががらっと変わっている時に、なんとか動いて働きだすのも苦しかったと思いますが、
そういう社会の変わりようと言いますかね、信じていたものが、全然違う事になっていた時の驚きとかは、どんなものだったんですか?

谷口:
そうね、
よく、いろんな人たちがね、「日本のために働いてくれた」と、これは今でも言いますけど、
誰が日本のために働いたのか?」という事ですよね。
本当に日本のために働いていたならね、こんなに国民は苦しまなくていいんじゃないかとね。
まさに戦後直後あたりはね、戦後直後、その頃になると食べ物はないしね、住むところも無いし。
そのなかでもね、言われますよね、「国のために働いた」って。
誰が「国のために」と言いだしたのか?っていうね。

今でもですね、「国のために亡くなった人たちをね、祭っているんだ」と、こう言っているけど、

岩上:
靖国神社ですね。

谷口:
ええ。
それだって、本当に国のためであったのならばね、日本国民がね、苦しまなくていい状態になっているわけですけれども、それが全くなっていないと。
だから、それが「国のため国のため」と言いながらね、それは確かに、戦争に駆り出された人達はね、亡くなっているわけ。
その人達は けど、それ以外のね、戦争に行かなかった人たちもね、ものすごく沢山の人達が殺されていった。
それは国のためにね、戦争をした、その「国のために」と一緒ですから。
だから、その事について全くね、知らないと目をつぶったような状況でね。


岩上:
今日でも目をつぶっているとお感じになりますか?

谷口:
そうですね。

岩上:
お感じになります。
国のためと言っても国民のためじゃなかった」という事ですか?

谷口:
そうですね。
一部の人のためのね、一部の人の欲のためにね、戦わされてきたんだということでね。
そういうふうにね、考えられていますね。


核と人類は共存できない

岩上:
あの、核廃絶を求める運動を、それからずっとやってこられました。
広島・長崎と原爆投下、この災禍を繰り返すまいと思って、運動をされてこられたんだと思うんですけれども、
同時に、その「平和利用」という言葉がですね、1960年代から始まって、それからずっと容認してきた原発がですね、大変大きな事故を起こした。
今ですね、「原発を止めよう」という声が上がっているんですが、推進派の人は、止めるどころかですね、これを輸出して再稼働して、
あろうことに今、猛烈な勢いで、軍国化を進めて、そして、
「原発を持ち続けるには原爆をつくるためだ」と、
「核保有するために必要なんだ」という事を、公言する政治家まで出てきましたよね。
石原さんみたいな、ハッキリと、そういう事を言う人が出てきています。

原発の事故、それからこれまでの運動の事、それから今後、急性向かいでですね、日本が軍国化しつつある事。
ちょっと沢山の質問になって申し訳ないんですけれど、今、どのようにご覧になっていますか?

谷口:
結局私たちはね、「核と人類は共存できないんだ」と。
核兵器は“核”という事でね、綺麗な核もね、汚い核も無い
人類は共存できないんだ、という事でね、そのことを。
そんな中で、原子力発電所の研修についても、昔はですね、初めごろは、原子力発電所はどこにつくっているんだ?と。
海の近くにつくって、海からきれいな水を引いてきて冷やして、そして海へ温かい水を流すんだと。
それがどんどんどんどん、その層がね、深くなって広がっていって。
だからそれがね、地球温暖化に繋がっているんだということでね。
しかし今はその事については、全く誰も言わなくなったのね。
その中で、今回の福島のね事故だって、ああやって結局 のと、自然のものじゃなくて、人がつくって人が壊したものであるんじゃないかと。
そんな中でも、今でもね、収束していないどころか、放射能が漏れて、どんどん進んでいるというね、
これについて、結局私はね、広島・長崎の被ばく者、放射能を浴びた被ばく者と、
それから、今原発から出ている放射能が、全く同じものであるという事でね。
だからこうやって、私ら被ばく者は、
原発をなくさなきゃいけないと言うと同時に、核兵器も無くさなければいけないと言ってきたわけです。

岩上:
ずっと、そうしますと、谷口さんとしては、皆さんとしてはですね、
原発はですね、核の平和利用だからいいんだ、という言い分には与しない(くみしない)と、あるいは、危険だというふうに、お考えになってきているんですか?

谷口:
そうですね。あれは絶対にね、あってはいけないものでね。

岩上:
原爆はもちろん原発も

谷口:
ええ

岩上:
あってはならない


長崎は完全に実験だった

谷口:
はい。
何故かというと、今、世界にある核兵器というのは全部、長崎型の原爆でしょ。
そこを遡ってみますとね、アメリカの人達はみんな言っているんだけど、
「戦争を早く終わらせるために正しかった」
それだったら、広島と同じ爆弾だけでよかったじゃないかってね。
それなのに、長崎に違う原爆をね、プルトニウム爆弾を使って
これは、長崎は完全に実験だった
んだと。
それが成功した。
そうやって結局、ずっとアメリカ政府はね、被ばく者の実態を調査して、そして、どんどん核兵器をつくっていった。
長崎の原爆が、そういうふうに成功したために、コロンビアのほとりに、原子力発電所をずっと増設して、
で、そこでプルトニウムをたいて、そして出てきたウラニウムをね、燃やしてプルトニウムを取り出して、そして、核兵器をどんどん作ってきたわけだ。
だから、そないしてやってきてね、それは結局、今だったら、5カ国がね、協定を結んでいるけど、
それ以外に、そこにかかっていない国がどんどん増えてきて、
そのなかで、被ばく国の日本政府だって、インドとか、パキスタンとかに、原子力発電所を建設をやると
原子力をやるって、「何を言ってるんだ」っていう事ですよね。
だから、今日も安倍総理がいましたけれど、そのことについて、田上市長も平和宣言の中で言ったように、
結局、原発の「政府がやっていることは絶対に許せない」という事を言ったけどね、

岩上:
「政府がやっていることは許せない」と、安倍総理に対して、長崎の被ばく者の方がおっしゃった。

谷口:
結局平和宣言として、田上長崎市長が、今日読みあげたけど、

岩上:
あ、平和宣言の中でね。

谷口:
その中でね、その事に触れています。
原子力発電の問題に触れています。

岩上:
あ、そうですか。
広島と長崎、よく簡単にね、遠くからみている人にとっては、同じように捉えられるんですけど、
やっぱり1発目と2発目では意味が違う。
それと、2発目はプルトニウム型だった。
実験だったと。
それから、移行の運動が、そういう事によって、やっぱり影響を受けているんでしょうか?
広島の市長がですね、今回、実際そうは言いませんでしたが、「原発と原爆は違うんだ」と。
原爆はひどいんだけど、原発に関してはですね、容認するような発言をすると言う話が、産経新聞とかに書いてありました。
実際、そんな言い方ではなかったようですけれど、広島と長崎とでは、今日も運動している方も、一般の市民も行政も政治家も、温度差があるんでしょうか?

谷口:
それはやっぱり、長く生きているとね、ありますよね。

岩上:
ありますか。

谷口:
まぁ、人間的なものもあるかもわかりませんけれど、 がちがうのがあります
だから、広島の場合はね、先ほど言った核兵器廃絶という事については、真剣に捉えていますけど、
原子力発電所の問題についてはね、まったふれていなかったというかね。

岩上:
これまでもね、うん。
それじゃ、長崎の方が、より徹底して、原発も原爆もダメだ、と言うような事を言う方が多かったり、そういう話し合いをしても、そういう見解が多いと。

谷口:
そうですね。
だから、市長の宣言も、そういう宣言を作るのも、全部が集まって、その中で検討して出来上がっていく訳。

岩上:
あ、そうですね。
これは、広島は市長が書くけれども、長崎では委員会を作って、市民のみんながかかわって、話し合って作ると聞きました。

谷口:
そうですね。
そのなかにも、時間的なね、いろいろと事がありましてね、長くは出来ない部分もありますけれどね。

岩上:
だからそこで、市民の声が寄せられる過程で、やっぱり311の福島の原発事故は、
これはやっぱり、相当深刻に受け止めて、「原発はダメだ」という事に思いを込めようというのが、
長崎のそういう人たちの総意、と言ったら言い過ぎかもしれませんが、思いは大方の思いになっていますか?

谷口:
そうですね、はい。そういうことです。

文字数制限のため、次の記事に続きます。
コメント (4)
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