ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

米国『東海岸やたらと厳しくなった冬の終わり』事情

2015年03月14日 | 米国○○事情
昨日の見事な快晴から、今日はしとしと雨降りとなりました。
カエデの爺さんの枝枝に色とりどりの鳥が集まってくる様子を、ぜひとも写真を撮りたかったのですが、みんな興奮し過ぎているのかじっと止まってくれず、残念ながらあきらめました。
気持ち、す~ごくよくわかるよ!


先週のキャバレーのショーの後、マリアンヌからもらって帰った花束も、そろそろ終わりを迎えました。
まだもうちょっと水を吸い込む力が残っていそうな菊を残して、あとは逆さ吊り。







3日続いた零上の気温が、雪をどんどん溶かしてくれて、やっと地面が見えてきました。
日当たりのいい場所とあまり良くない場所の違いが、こういう時期にははっきりと見えます。









わんぱく坊主たちに大人気のこの紙。


彼らの餌は、毎月一回、送料無料で送ってもらっているのですが、梱包の際に隙間埋めに使うこの紙が、最高のおもちゃになります。
猫の習性を知り尽くしている、としか思えないほどに、ボロボロのヨタヨタになるまで、遊び相手になってくれるこの紙。
かくれんぼをしたり、滑りっこしたり、昼寝したり。
お世話になります。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「今こそ東京大空襲を問う-アメリカは戦争犯罪を謝罪すべきだ」by 守田敏也氏

2015年03月11日 | 日本とわたし
先日もこの、東京大空襲についての記事を書きました。
その記事に、友人のかわちゃんが、こんなコメントを書いてくれました。

『姫路市は二度の空襲を受け、うちの母は二度とも被災してます。
空襲で無くなった方を慰霊する「太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔」があります。
国会議員って靖国神社には参るけど、こっちにはほとんど来ません。』

http://www.taiheiyou-ireikyoukai.jp/ireitou.htm

わたしはこれを読んでハッとしました。
そして思い出したんです。
そうや、伯母も空襲の話をしてくれてた!と。
伯母が乗っていた電車に、機銃掃射の弾が打ち込まれ、2列のつり革につかまって立っていた伯母のすぐ後ろの男性が、撃たれて亡くなりました。
また、ある日などは、田んぼのあぜ道に身を伏せて、難を逃れたとも聞きました。

誰彼なしの殺人行為だった。
本当にそう思います。
これがまさしく戦争。
正義面して、国家のため、あなた方ためと取り繕って、研究と実験と生産に大金を使い、その総額を超えて余りある巨額な儲けを生み出す『戦争』という世にも醜い暴力を振るう。

わたしたちはもう、戦争など、まったくしたくないし、されたくないし、巻き込まれたくない。
戦争をするな!
戦争を企てる者を裁け!


今こそ東京大空襲を問う-アメリカは戦争犯罪を謝罪すべきだ(上)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/bb9bac0219b9462e38961db5bab20b56

今こそ東京大空襲を問う-アメリカは戦争犯罪を謝罪すべきだ(下)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/56c9fe1fc7b6c00eea0057508af98348
2015.3.10
                             
守田です。 

今日、3月10日は、東京大空襲から70年の日です。
この日未明、アメリカは、東京に住まう人々を空から襲い、10万人以上を焼き尽くしました。
今こそ東京大空襲を問い直し、アメリカに戦争犯罪への謝罪を求めたいと思います。

この間、放射線防護活動ばかりでなく、中東の問題や集団的自衛権に関する講演を、依頼されることが増えてきました。
僕が強調しているのは、大量破壊兵器などなかったのに一方的に攻め込んだ、イラク戦争の犯罪性を捉え返すことです。
さらに私たちは、イラク戦争だけでなく、これまでアメリカが繰り返してきたさまざま戦争犯罪に、目を向ける必要があります。
なぜそう思うかと言えば、アメリカが横暴を繰り返す理由のひとつに
わたしたち日本人が、広島・長崎原爆や、沖縄戦、東京・名古屋・大阪をはじめとした、都市空襲での民間人の大量殺戮への、まっとうな批判を怠ってきたことがある、と思うからです。

中国や朝鮮をはじめとするアジアの人々と対話するとき、わたしたちは、かつての侵略戦争のことを思わないわけにはいきません。
それを無視しては友好も成り立たないし、むしろ捉え返しの中でこそ、友情を深めることができます。
おなじことがアメリカ人との間にもあっていいし、もっとそんな機会を作らなくてはならないと思います。
私たちは、アメリカの人々に対して、「あなたたちは過去の民間人大量殺戮をどう考えますか」と問わなければいけないのです。
過去の戦争を捉え返すことは、何よりもその国の人々のためになります。
アメリカ人もまた、酷い殺人に何度も加担させられる苦しみを、背負ってきているからです。
ベトナム戦争でもイラク戦争でも、戦死者を退役後の自殺者が上回っています

この点を強調するのは、私の亡き母が、東京・深川の出身で、大空襲の中を逃げ惑い、機銃掃射などにさらされながら、辛くも生き延びた経験を持っているからでもあります。
母方の実家は生粋の江戸っ子の家で、親戚の皆が、映画『男はつらいよ』の登場人物のようなしゃべりかたをするのですが、
その人懐っこい東京庶民の頭上に、アメリカは容赦なく、大量の爆弾を降り注いだのでした。
陸軍中尉だった亡き父も、香川県善通寺に本体のいた陸軍船舶隊で、原爆の報を聞きました。
部隊は救援のために呉まで行き、偵察隊が広島市内に入って、二次被曝で亡くなりました
父は入市はしませんでしたが、放射能は呉まで届いていました

若き娘だった母は、いうまでもなく民間人でした。
父は軍人でしたが、すでに日本軍は、抵抗力のほとんどを奪われていました。
その無抵抗の人々を、無差別かつ組織的に大量殺戮したのが、アメリカの都市空襲であり、原爆投下だったのです。
アメリカは、沖縄では地上戦をしかけました。
軍人と民間人を区別なく攻撃し、島民の四分の一を死に至らしめました
にもかかわらずアメリカは、民間人大量殺戮の繰り返しを、ただの一度も、反省も謝罪もしていません
日本政府も、一度も批判をしていません
私の命は、東京大空襲と広島原爆の狭間から生み出されたものです。
だから私には、平和を守り創造していく責務があると思っています。
この観点から、70年目のこの日に、東京大空襲を問い直してみたいと思います。


3.10大空襲の実態

そもそも米軍による東京への空襲は、合計で106回も行われたのですが、最大のものが3月10日未明に行なわれた、いわゆる3.10大空襲でした。
空襲の実態は、自らも被災した早乙女勝元さんの『東京大空襲』(岩波新書)や、『東京が燃えた日』(岩波ジュニア新書)に、その断片が記録されています。
日本政府は、戦後、東京空襲をはじめ、都市被害の実態把握を推し進めようとはしませんでした
そのため公式記録があまりに少ないのですが、自ら空襲をうけた早乙女さんは、執念をもって聞き取り調査を行い、これらの書物を執筆しました。

3.10空襲の概要は、以下の如しです。
10日未明零時過ぎに、東京上空に、約300機のB29が飛来しました。
従来の高高度からの爆撃ではなく、まず数機が超低空で侵入
深川区(現在の江東区)、本所区(現在の墨田区)を皮切りに、爆弾を投下しはじめました。
使われたのは、M47ガソリン焼夷弾とM69高性能ナパーム性油脂焼夷弾
のちに、ベトナムなどで繰り返し使われた、悪名高い爆弾でした。
米軍はまず、M47ガソリン焼夷弾の投下によって、目標地点に予備火災を起こしました。
当日は、非常に激しい北西風が東京に吹き付けていましたが、米軍はこのことを事前に察知して、この日を選んで攻撃をしかけたのでした。


米軍は、激しく燃える初弾の投下地点に集結した消防車を、直接に攻撃し、防火体制を一蹴しました。
それから、東京の下町一帯に、焼夷弾で火の壁を作りはじめました。
群集を逃がさないためにでした。
下町一帯は、たちまち灼熱地獄と化しました。
その後、後続のB29が、1機あたり6トンも積載された、M67ナパーム焼夷弾の爆撃を開始
編隊は、巨大な火の壁に閉じ込められて逃げ惑う群集の上に、繰り返し超低空で襲いかかっては、雨あられと焼夷弾をばら撒いたのでした。
このM69は、アフガニスタン空襲で使われたクラスター爆弾(収束爆弾)と同じ構造の、クラスター焼夷弾でもありました。
「モロトフのパンかご」と命名され、空中で、48ないし72個の小型焼夷筒にわかれ、それぞれが落下して猛火を発生させました。

早乙女さんは、自分の直前を避難していた男性が、爆発音に上空を仰ぎ見た間際に、のど元に焼夷筒が突き刺さるのを見た、といいます。
米軍はそれだけでなく、ガソリンのような液体も直接に空から撒いたと、多くの避難民が証言しています。
銃座からの機銃掃射も行いました。
総計で2000トンの焼夷弾を落とし、わずか2時間半あまりの攻撃で、10万人以上を焼き尽くしたのでした。
猛火に耐え切れず、人々は水を求めて川に殺到しましたが、その川の上をも、火炎が巨大な火の玉となって覆いつくし、隅田川や江戸川は累々たる死骸で埋まりました。

私のは母はこのとき、烈火が大きな火の玉をつくり、機関車のように町の中を横に駆け抜けたことを見ています。
そんなものを目にした彼女が生き延びたのは、奇跡としかいいようがありません。
避難中に家族と離れ離れになった祖父は、翌朝、川に浮かんだ死骸をひっくり返しながら、離散した家族を探したそうです。
結局、家族は無事だったので見たのは他人の遺体ばかりでしたが、ホッとすると同時にハッとして、ナンマンダブと唱え続けたそうです。
この日の火災は、人類史上記録に残る、もっとも甚大な都市火災でもありました。
死者の数は、一晩では、広島、長崎における原爆投下で亡くなった方の数をも上回っていました。


空襲指揮官を賞賛した戦後ニッポン

東京大空襲という全くもって非人道的な都市空襲を考案し、指揮したのは、アメリカ空軍のカーチス・ルメイ少将でした。
戦闘機パイロットから爆撃機に移り、やがて爆撃部隊の指揮官となった人物でした。
第二次世界大戦へのアメリカの参戦とともにイギリスに渡り、ドイツへの戦略空襲を指揮
多数のB17を使ったハンブルグ空襲で、6万人とも10万人ともいわれる死者を出した爆撃を実行しました。
対日戦参戦以降は、日本の諸都市空襲の指揮をとり、広島、長崎への原爆投下にも関与しました。

ルメイは、日本の防空体制の研究から、超低空での本土進入を考案し、
アメリカ空軍が行っていた、軍事基地や工場などを対象とした高高度からの「精密爆撃」方法を一新して、
住宅地への無差別徹底攻撃を編み出し、実行に移した
のでした。

自伝の中で彼は、本土空襲を、次のように肯定しています。
「私は、日本の民間人を殺したのではない。
日本の軍需工場を破壊していたのだ。
日本の都市の家屋は、すべてこれ軍需工場だった。
スズキ家がボルトを作れば、隣のコンドウ家はナットをつくり、向かいのタナカ家はワッシャをつくっていたという具合に。
これをやっつけて、なにが悪いことがあろう」


彼は、爆弾投下を指揮した地域には民間人はいなかった、と豪語したのでした。
日本の諸都市には、民間人は皆無だった、だから爆撃したのだ。何が悪いんだと。

その後もルメイは、米空軍に居残り続け、朝鮮戦争を経て、61年には参謀総長に就任し、キューバ危機に際しては、ケネディ大統領にキューバ空襲を強く進言しました。
アメリカ軍は、ソ連がまだ、キューバに核ミサイルを搬入していない、先に叩けば反撃も受けない、と判断していたのですが、
実際には、すでに多数の核ミサイルが設置済みであり、ルメイの進言をケネディが採用すれば、核戦争になった可能性がありました。


その後ルメイは、ベトナム戦争に参戦
B29を、「黒い殺人機」と呼ばれたB52にかえて、北爆を指揮しました。
この時彼は、「ベトナムを石器時代に引き戻してやる」という言葉を残しています。
ジェノサイドといわれたベトナムへの猛爆は、日本本土大空襲の経験の蓄積のもと、同じ司令官によって行なわれたのでした。
ルメイは1965年、北爆の最中に引退しましたが、式典ではなぜか、アメリカ軍の軍楽隊が、「君が代」を演奏しています。

そのルメイに対して、なんと日本政府(佐藤首相)は、1964年7月に、「勲一等旭日大綬章」を授けています
「日本国天皇裕仁」の名の下にです。
理由は、「航空自衛隊の育成に功労があった」からだそうです。
何十万の国民を無差別に殺戮した、残虐きわまる戦闘を指揮したルメイに、何の批判も行なわないばかりか、
感謝の大勲章を与えたのが、私たちの国
なのです。
「自虐的」という言葉は、使うことがあるとすれば、こういう卑屈な態度に対してなのではないでしょうか。
実はこの時、昭和天皇は、勲章授与を一度は拒否したそうです。
戦中に、日本が、「鬼畜ルメイ」「皆殺しのルメイ」と呼んだ相手だっだからです。
嫌がる昭和天皇を説得したのが、自民党の小泉純也防衛庁長官でした。
後の、小泉純一郎首相の父親です。

NHKが、70年代に作成した番組「東京大空襲」に、カーチス・ルメイが登場しています。
NHKの取材に対し、退役してプール付の豪邸に住まう彼は、「戦争のことはもう忘れたい」と言い、インタビューも映像も「NOだ」と、轟然と言い放ちました
「そのかわり勲章なら撮影してもよい」と指差した勲章陳列棚の真ん中に、日本から授与された勲章が、光を放っておかれていました
ルメイは、民間人の大量虐殺を、ついにただの一度も反省せぬまま、数々の勲章を自慢に余生を送ったのでした。
僕には、このように虐殺者を賞賛した日本の姿勢が、アメリカのその後の中東での横暴な振る舞いに繋がっていると思えてなりません。

なお、この映像がネットにアップされていたので、ご紹介しておきます。番組の一部です。
https://www.youtube.com/watch?v=ThvwC3XkgCo


(*まうみ注・9:55あたりから、その勲章の映像が観られます)


アメリカに法的裁きを

この東京大空襲を記録し、広くその惨劇を世の中に訴える目的で、2002年3月9日に、東京都江東区に、「東京大空襲戦災資料センター」がオープンしました。
4000人から1億円の寄付金を集めて建てられた同センターに、早乙女氏が館長として就任しました。
僕もその年の夏に訪れました。
資料センターは3階建て。
当時は1階に研究所と資料室、2階にミーティングルームとおのざわさんいちさんの空襲の絵、3階に大きなB29の模型とさまざまな展示品がありました。
おのざわさんの絵からは、すべてが焼き尽くされたがゆえに映像の残っていない、空襲の様子を垣間見ることが出来ました。

印象的だったのは、3階に展示されていた、M69ナパーム焼夷弾の残骸でした。
さび付いたおよそ高さ50センチ幅10センチぐらいの六角の筒でした。
これが、1機あたり5000発も、あの人懐っこい江戸っ子たちの頭上にばら撒かれたのだと思うと胸がつまりました。
同時に資料センターには、空襲に対する聞き取り調査や、アメリカの図書館の公文書の分析から得られた資料など、実にたくさんのものが蓄積されていることを知りました。
政府がサボタージュした空襲の被害調査が、東京のみならず、各地の空襲を記録する会等々の人々によって行われてきたのでした。
これをなんとかして、アメリカやひろく世界に知らしめたいと思いました。

東京大空襲や諸都市の空襲に対して、まだまだ知られていない事実もあることでしょう。
犠牲者の名もすべてが明らかになったわけではなく、各地で聞き取りなどの調査も継続中のようです。
こうした資料を積み重ね、戦争を後世に語り継ぐことは大事ですが、
より大事なのは、今からでも、70年前のアメリカの戦争犯罪を世界に向かって告発していくことだ、と僕は思っています。
真っ当な告発がなかったために、アメリカの中に今も、無差別大量虐殺肯定の思想が強烈に残っているからです。
これを正すことが、戦争を食い止める道です。
同時に、多くのアメリカ人をも、殺人の大罪から救うことにもなります。

アメリカで、2001年に、911事件が起こった際、キッシンジャー元国務長官は、
「これはパールハーバーだ。あのときパールハーバーを襲った国民と同じ思いを、敵に味あわせてやる」と発言しました。
「パールハーバーを襲った国民と同じ思い」、すなわち広島、長崎原爆であり、東京大空襲など諸都市の空襲であり、沖縄上陸戦です

アメリカは今なお、これらを正義と考え、アフガニスタンでもイラクでも空襲を繰り返し、秩序をめちゃくちゃにした上で、今また同じことを繰り返しています

この、非道の限りを尽くすアメリカの「正義」に待ったをかけ、
同時に、アメリカが行っている戦争に、自衛隊を積極的に参戦させようとしている、安倍政権の戦争政策を止めるためにも、
日本本土空襲におけるアメリカ軍の戦争犯罪を告発することが、とても重要です。
先にも述べましたが、このことは、多くのアメリカ人をも救うことにつながります。
アメリカの戦争犯罪が正されてこそ、新たなる殺りくに参加させられる人々をも減らし、やがては皆無にしていく道が開かれるからです。

私たちは、アメリカのためにも、アメリカが今日まで繰り返してきた戦争犯罪を告発し、止めさせていく必要があるのです。
東京大空襲から70年を迎えた今、不戦の心、すべての戦争を無くす決意を新たにしたいと思います。


------------------------

守田敏也 MORITA Toshiya
[blog] http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011
[website] http://toshikyoto.com/
[twitter] https://twitter.com/toshikyoto
[facebook] https://www.facebook.com/toshiya.morita.90
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「安全神話を疑うことを許されず、市民は、襲いかかる焼夷弾と爆弾の下に縛り付けられた」大前弁護士

2015年03月10日 | 日本とわたし
この写真を見つけて、書かれた文章とともに読みました。



思い込みという、その時代や状況によって、どうにも信じられないことが信じられていたことの恐ろしさを、しみじみ感じました。
もちろんそこには、信じなかった人もいました。
けれども、信じてしまった人が多いと、その人波に流されざるを得なくなってしまいます。
どんなに恐かっただろうか…無念だっただろうか…。

空から恐ろしい爆弾が落ちてくる。

なのに、
陸軍省の佐藤賢了軍務課長(のちの陸軍中将)は衆議院で、こう演説したのです。
「空襲の実害は大したものではない。それよりも、狼狽混乱、さらに戦争継続意志の破綻となるのが最も恐ろしい。」

「国を守る」という決まり文句を吐き散らし、権力者たちは数え切れないほどに大勢の市民の人を殺してきました。
どんなふうにもできる。
そんな力を持ってしまった非道な人たちのこのような暴力を、いつまでも続けさせるわけにはいきません。
上の言葉に顕著に表されている国家権力というものの本性を、わたしたちは知る必要があります。
この本性は、今も脈々と、あらゆる事柄に姿を変えて、市民を痛めつけ、傷つけ、殺しています。 

わたしたちは、しっかりしなければなりません。
戦争が繰り返される世界を変えていかなければなりません。
そう強く、強く念じながら、大前弁護士が書いてくださった文章を、ここに紹介させていただきます。


「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」――戦時中の「防空法」と情報統制
大前治弁護士

【シノドス】2015.3.10

空襲の安全神話

1枚の写真をご覧いただきたい。

畳の上に炎があり、男女3人が水をまいている。
昭和13年に、東部軍司令部の監修で作られた12枚組ポスターの一つで、今でいう政府広報である。
表題には、「落下した焼夷弾の処理」とある。

それにしても不思議な光景である。
屋根を突き破って落ちてきた割には、弱々しい炎。
天井や畳は燃えていない。
焼夷弾の間近に迫って、怖くないのか。
アメリカ軍の焼夷弾は、その程度のものなのか。
一杯目のバケツで水をかけた後は、一体どうするのか。
この一つの炎のために、次々とバケツリレーをするのか。
謎が深まる。

 

「防空図解」昭和13年・赤十字博物館


もう1枚。同じ12枚組の1つである。

ショベルの先に、小さな「焼夷弾」らしき物体があり、「折よくば戸外に投出せ」と書かれている。
こちらも、畳や障子はまったく無傷である。

こんな対処法が可能とは思えない。
実戦で使用された焼夷弾は、発火装置と燃焼剤が一体となっており、投下されると数十メートル四方へ火焔を噴出し、家屋を猛烈な炎に包む
その破壊力ゆえ、昭和20年3月10日の東京大空襲では、一晩で10万人が死亡し、8月の終戦までに、全国で50万人が犠牲になった
その厳然たる事実を思えば、このポスターは犯罪的なまでに牧歌的である。

すでに日本政府は、中国の錦州や重慶への空襲を開始していた。
したがって、空襲や焼夷弾の威力を熟知していたが、国民にはそれを隠し、「空襲は怖くない」と宣伝した



「防空図解」昭和13年・赤十字博物館


「空襲から逃げるな」の政府方針

このポスターが作られる前年、昭和12年12月に内務省が発した「防空指導一般要領」は、
防空は国民全般の国家に対する義務」であると定め、
自衛防空の精神により、建物ごとに防護する」ことを基本として、老幼病者以外の者は避難させない方針を示した。

昭和13年3月には、内務省警保局が、通達「空襲の際における警備に関する件」を発し、
原則として避難させないよう指導」する方針を明記。
同様の方針は、昭和15年12月に、内務省計画局が発した通達「退去、避難及び待避指導要領」にも明記された。

軍人に対して「生きて虜囚の辱めを受けず」と説き、潔く命を捨てろという「戦陣訓」が発せられたのは、昭和16年1月
それより前に、一般市民は、「空襲から逃げるな」と命じられたのである。




朝日新聞昭和16年11月18日付


これを、指導方針から法的義務へと高めたのが、昭和16年11月に改正された「防空法」である。
第8条ノ3で退去禁止、第8条ノ5で、消火義務を定め、懲役や罰金刑も規定された。
法律の条文は、「大臣は退去を禁止できる」という抽象的な定めだったが、
この法律に基づいて、昭和16年12月7日に内務大臣が発した通牒は、退去を全面的に禁止すると明言した。
真珠湾攻撃の前日である。




昭和16年12月7日の内務大臣通牒


こうして、国民が「空襲は怖い」と気付く前に、「空襲から逃げずに、焼夷弾へ突撃することが国民の義務」とする防空法制が確立された。

なお、安全なはずの地下鉄駅への避難も禁止された。
これについては、こちらのサイトをご覧いただきたい。


なぜ逃げてはいけないのか

避難の禁止。
なぜ、このような方針がとられたのだろうか。
逆に「空襲のときは逃げなさい、自分の命を守りなさい」と指導して、労働力や兵力を保全する方が、合理的ではないか。

この謎を解くカギが、帝国議会での防空法改正審議にあった。
陸軍省の佐藤賢了軍務課長(のちの陸軍中将)は、衆議院で、次のように演説している。



朝日新聞 昭和16年11月21日付


「空襲の実害は大したものではない。それよりも、狼狽混乱、さらに戦争継続意志の破綻となるのが最も恐ろしい。」(昭和16年11月20日 衆議院 防空法改正委員会)

日清・日露戦争以来、戦争に負けたことも空襲を経験したこともない国民は、空襲被害が「大したものではない」という虚偽を、見破ることはできなかった

他方、戦争継続意志の破綻が「最も恐ろしい」というのは、戦争遂行者として正直な告白であろう。
退去を認めると、都市部で、軍需生産にあたる労働人口が流出する
逃避的・敗北的観念や反戦感情も、醸成されかねない
それを怖れた政府は、「空襲は怖くないから逃げる必要はない」と宣伝した。


「消火できない」から「簡単に消せる」への変化

昭和15年に、政府が発行した冊子「防空の手引き」には、「焼夷弾は消火できない。落下と同時に発火爆発する」と書かれていた

ところが、昭和16年発行の冊子「時局防空必携」は一転して「焼夷弾は簡単に消せる」と書き、身近な道具で消火する方法を紹介

「砂袋」や手製の「火叩き」で、焼夷弾へ立ち向かえと指示している。
恐るべき「安全神話」が流布されるようになったのである。




昭和16年 政府発行冊子『時局防空必携』


この変化は、昭和16年の防空法改正で、「逃げるな、火を消せ」が法的義務になった時期に符合する。
これ以後、昭和20年3月の東京大空襲を経験した後も、終戦まで政府方針は変更されなかった
東京が「焼け野原」になった後も、新聞紙上には「逃げるな、守れ」、「疎開は抑制」、「国土を守れ」などの見出しが躍った

昭和18年5月、大阪帝国大学の淺田常三郎教授は、中国で押収した米軍製の焼夷弾の燃焼実験を行い、「アメリカ製の焼夷弾を消すことは不可能」という結論を得た。
しかし政府は、科学者の警告を無視して、「空襲から逃げるな、逃げる必要はない」と宣伝する
同じようなことが、今も起きていないだろうか。


徹底した情報統制――予測も被害も隠す

政府による情報統制は、「将来的な空襲予測を隠す」と「実際に起きた空襲被害を隠す」という、二重の隠蔽からなる。

前者は、陸海軍の「昭和十八年度 防空計画設定上ノ基準」に明記された。
今後の戦況として、大量かつ反復の空襲を予測しながら、そのことは「作戦上に及ぼす影響をも考慮し、一般に対し伝達を行わざるものとする」として、国民には隠したのである。

後者は、昭和18年4月に、内務省が「敵襲時 地方庁に於ける報道措置要領」により定めた。
空襲時の報道事務は、「特高課」が担当し、すべての空襲報道は、事前検閲を受けることになった
空襲についての独自取材記事は、掲載できなくなった



朝日新聞 昭和17年4月19日付 空襲の威力を隠し、「軍を信頼せよ」と説く


こうして国民は、空襲の予測も、空襲被害の恐ろしさも、知ることが不可能になった


防空壕も政策転換 ――「床下を掘れ」

さらに政府は、「防空壕」についても非道な政策をとる

かつて防空壕は、原則として「敷地内の空き地に設ける」「家屋の崩壊、火災等の場合、速やかに安全地帯に脱出し得る位置に設けること」とされていた(昭和15年12月・内務省「防空壕構築指導要領」)。

ところが防空法の改正後、この方針は大転換された
防空壕は、床下を掘って設置することが原則とされた。
爆弾が投下されたら、「そこから迅速に飛び出して、防空活動に従事し得ること」が設置目的となり、名称も「待避所」に改められた
退避所ではなく待避所、つまり逃げ場所ではなく、消火出動拠点なのである(昭和17年7月・内務省「防空待避施設指導要領」)。




昭和18年8月政府発行「写真週報」 床下の待避所の設置方法を解説


この方針について、内務省発行の冊子『防空待避所の作り方』(昭和17年8月)には、防空壕の設置場所について、次のような記載がある。

「家の外に作るか、家の中に作るか、二つの場合が考えられますが、一般には家の中に作った方が・・・一層便利であると思います。
また、外にいるよりも家の中にいる方が、自家に落下する焼夷弾がよく分かり、応急防火のための出勤も容易であると考えます。」


しかし、床下で焼夷弾の落下を察知したときには、すでに猛火に包まれて脱出不能である。
こんな「安全神話」を疑うことは許されなかった。
空襲時には、崩壊した建物の床下で、圧死・窒息死・生き埋めとなる被害が続出した。


東京大空襲の後も不変―― 「疎開は認めない」

昭和20年3月10日の東京大空襲。
一晩で10万人が死亡する惨状を目にしても、政府は方針を変更しなかった
翌月には、次の方針が閣議決定されている。




疎開の中止を呼びかける新聞記事。
毎日新聞戦時版・昭和19年12月13日付(左)、朝日新聞・昭和20年5月5日付(右)



閣議決定「現情勢下ニ於ケル疎開応急措置要綱」(昭和20年4月20日)
人員疎開に付いては、
(一)老幼妊産婦・病弱者、
(二)疎開施設随伴者、
(三)集団疎開者、
(四)前各号以外の罹災者、及び強制疎開立退者を、まず優先的に疎開させるものとし、
右以外の者の疎開は、当分の間、これを認めざるものとする

要するに、老幼病者・罹災者・建物疎開による立退者以外の疎開は、「当分の間、認めない」というのである。
学童疎開は広く実施されたが、それ以外の者は簡単には疎開できなかった。
地方で、就労先や食糧を確保するのは、至難の業であった。

退去禁止と疎開抑制の方針は、終戦まで変更されなかった
こうして市民は、襲いかかる焼夷弾と爆弾の下に、縛り付けられた


裁判所も認定 ―― 戦時中の国策の問題性

こうした防空法制と、情報統制の問題点が、明確に認定された裁判がある。
2008年12月に、空襲被害者が、国に謝罪と補償を求めて提訴した「大阪空襲訴訟」である。 
2011年12月の一審判決、2013年1月の控訴審判決は、原告敗訴だったが、その内容は特筆に値する。
情報統制により、国民が空襲への対処法を知ることができず、都市からの退去ができず危険な状況に置かれたことなどが、判決文で認定されたのである。
詳しくは、こちらのサイトへ

残念ながら、空襲被害者に対する補償の不存在・不平等は、一見して明白かつ重大であるとまでは言えない、という理由で敗訴となった。
しかし、戦時中の国策を批判する判決が出されたことは、空襲被害者への補償を求める大きな足掛かりとなる


現代に生きる私たちへの問い

情報統制と一体となった防空法制は、いったい何を守ろうとしたのか。
その問いは、現代を生きる私たちにも突きつけられている。
同じ過ちを繰り返してはならない。

防空法制について、先駆的な研究を重ねてきた第一人者である、水島朝穂教授(早稲田大学)と私との共著『検証 防空法 ―― 空襲下で禁じられた避難』(法律文化社)を、昨年出版した。
数多くの史料やエピソードを紹介し、戦時中の市民がおかれた状況を、リアルに伝えている。
これまで知られなかった事実に光をあてるものとして、多くの方にお読みいただきたい。

(文中の旧法令や新聞記事の旧仮名遣いの一部を、現代仮名遣いに変えました。)




検証 防空法:空襲下で禁じられた避難
著者/訳者:水島朝穂 大前 治
出版社:法律文化社( 2014-02-07 )
定価:¥ 3,024
Amazon価格:¥ 3,024
単行本 ( 268 ページ )
ISBN-10 : 4589035707
ISBN-13 : 9784589035707

解説サイトはこちら

↑以上、転載おわり


【東京大空襲】1945.5.25









コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日中戦争前夜の当時と、今日の急速に右傾化する日本が全く同じ」『ホルトの木の下で』の著者堀文子氏

2015年03月09日 | 日本とわたし
フェイスブックで知った『ホルトの木の下で』という本。
著者は堀文子氏。
彼女の甥である内海氏が、その本の一部を書き起こしてくださっていました。
ぜひ、ひとりでも多くの方に読んでいただきたいと思います。
転載を快諾してくださいましたので、ここに紹介させていただきます。



我が家と二・二六事件 堀文子『ホルトの木の下で』より
March 1, 2015
2015年2月26日

1945年5月25日の東京大空襲で全焼した我が家は、1936年のニ・ニ六事件の、反乱軍占拠区域内にありました。
私の叔母が、ニ・ニ六事件当時のことを本に書いておりますので、長文になりますが、その件を私が書き起こしてみました。
叔母は今年96歳になりましたが、軍が増長し、クーデタ未遂まで起きた日中戦争前夜の当時と、今日の急速に右傾化する日本が全く同じだと、
毎日のように、長生きしたことを慨嘆しております。
若い皆さんには、ぜひお読みいただきたいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

府立第五高女の卒業試験の日、その日は昭和11年2月26日のことで、前日から雪が降り続いていました。
実は卒業試験と同時に、女子美に願書を出しに行くことにもなっていた。
ようやく両親に女子美への入学が許されて、「いよいよ私は絵を描いて生きていくのだ」と、ロマンチックに興奮した朝でもあったのです。

三宅坂からいつものように都電に乗って、新宿の学校まで行こうとしていたところ、
近所が騒然としていて、何やら妙なことになっているようだとの知らせが入ってきました。
外の様子を見に行くと、街の通りの至るところにバリケードが張られ、拳銃を持った兵隊が家々の角に立っているのです。
五族協和を旗印に、満州国が建国されたのが、昭和7年でした。
その満蒙の国策映画を撮影しているとか、逃亡したテロリストを軍隊が包囲しているとか、
様々なウワサが飛びかい、人々は右往左往しているばかりで、実体はわからない
それでもまだ電車は動いていたので、とにかく学校へ出かけました。
ところが、半蔵門から四谷にかけて、どこを見ても、街におかしなことは起きていない。
私の家の近所のような騒ぎは嘘のようで、いつもの朝と同じ平穏な風景なのです。

「今朝の騒ぎは一体なんだったのだろう」
と思いつつ、学校に着いて試験を受けていると、急に中止という命令が出ました。
卒業試験なのにおかしいなと思っていると、
「全校生徒はただちに家に帰ること。麹町方面からの通学の者は集団で帰りなさい」と、校内放送が鳴った。
ざわつく教室の中で、
「今朝、街の様子がおかしくなかった?」
と友達に聞くと、誰もそんなことなど何もなかった、と答える。
どうやらあれは、私の家の周辺だけの出来事だと気付きました。

麹町方面に住む人たちと連れ立って、学校を出ましたが、帰りの電車は四谷見附で止まっていて、そこからは先に入れない。
それでも何とか、四谷から歩いて帰りました。
麹町3丁目まで来ると、今朝方に見た道路を塞ぐバリケードは数が増え、銃剣を付けた兵隊が30メートル置きくらいに立ち、通行人を止めて尋問している物々しさです。
その頃は、すでに、軍人の横暴が巷でささやかれていましたし、自分が尋問されたときは、文句を言おうと思っていました。
父の教育もあり、軍の行動に対して、私も憤慨していたのです。
今思うと無謀というか、恐いもの知らずの娘でした。
私が近づくと、
「何処に行く!」
と、銃剣を喉に付きつけられた。
今しがたまで何か言ってやろうと思っていたのに、その途端、恐怖で腰が抜けそうになりました。
「そこの先の角を曲がった家の者です」
と言うだけが精一杯で、武器の前では何も言えなくなる情けなさを、身体で知った瞬間でした。
「行け!」
と道を開けられ、ようやくの思いで家に帰り着くと、
「まあ、よく無事で帰ってきましたね!」
と母が抱きつくばかりに喜びました。
私の弟は、決起した軍人の一部が立てこもっている山王ホテルの傍らの、府立一中に通っていたので、帰ってくる途中に、市民が殺されているのを見たというのです。
筵(むしろ)がかけられ、そこから人の足が見えていたと。
兵隊に歯向かった市民が殺されたのだろう、という話でした。

街の噂では、
「この兵隊たちは、高橋是清を殺した人たちらしい」
と言っていたそうですが、国家は事件を秘密にしていましたし、むろん報道もされていなかったので、一般市民たちは、本当のことなど何も知らされていなかったのです。
私の家の一角、議事堂周辺500メートルぐらいの中の出来事でしたから、おそらく全国の人は、その騒ぎすら全く知らなかったでしょう。
私自身も何も分からないまま、その大動乱の渦中に巻き込まれていたのです。

そのうち、決起した将校やその部下の兵隊たちは、天皇に背いたというので、賊軍にされて追いやられ、家の周りの守りは官軍に変わりました。
そして官軍の兵隊が、家々を回り、「女子供は即刻退去せよ」との命令を出しました。
状況がよく掴めないながら、私の勘は、歴史的大事件が起きているらしいことを察知したのです。

父は日頃から、噂ではなく、自分の目で見たことを信じなさいと言っていました。
その父が、退去命令を無視して、この事件の実体を写真に撮っておくと言いだしたのです。
父だけを残して行けないので、私も家に残りました。
そんな大事件が起きているなら、私も歴史に立ち会ってこの目で見なくては…と。
だいたい、私が未だに好奇心を持って行動するのは、この頃から変わっていません。
母や弟たちは、親戚の家に逃しました。

そして、いよいよ戦闘状態に入るから一切家を出るな、という憲兵の指示に従って、畳や家具を積み上げて、その中に隠れました。
砲弾を防ぐためです。
私は死を覚悟しましたが、生き残った場合のことも考えました。
スケッチブック、絵の具などを全部まとめて風呂敷に包み、飼っていたジュウシマツやカナリアの鳥かごと一緒に、乳母車の中に入れて、荷造りしました。
銃撃の弾がどこから飛んで来るかわからないため、身体をできるだけ伏せて、畳の塹壕の中に息をつめて潜んでいました。
たとえ一人になっても生きるんだと覚悟した、あの切迫した瞬間を忘れません。

その時でした。
私の家の庭を、堀や裏木戸を壊して、銃剣を付けた軍隊が進んで行くのを見たのです。
表通りを避け、私の家と隣の家との境の塀を壊して進む軍隊を目の当たりにして、ぞっとしました。
非常時のときの秘密裏の抜け道が、計画されていたに違いないと思ったからです。
家の敷地内を、何百人もの軍隊が、粛々と進んでいきました。
もう声も出ないほどの恐ろしさで、息をつめて見つめていたのを、今もまざまざと思い出します。

やがて、「兵に告ぐ」
という重々しい声が鳴り響き、
「一切の武器を捨てて出て来い!」
と叫ぶ声が聞こえてきた。
反乱軍は白いはちまきをしていて、白旗を掲げて出てくるのを、父はもの影に隠れて、写真を何枚も撮っていました。
よく見つかってフィルムを取り上げられたり、脅かされたりしなかったものです。
その生々しい写真をあとで見ましたが、その時の情景はよく覚えているのです。

あの騒ぎは、何日も続いたように長く感じました。
こうして二・二六事件は終わりました。
その事件の大体のことは、あとから次第に知らされました。
あれは、陸軍の上層部の人が、決起した将校を煽ったんだとか。
実行犯の若い将校は銃殺され、将校を煽った陸軍の上層部の軍人たちは、何のおとがめもなく、無罪になったとか…。
不可解な謎を多く残す、無残な出来事でした。

私は何故か、反乱軍にされた兵隊たちが、可哀想に思えてならなかった。
どうやら、その兵隊たちは、その後、満州の前線へと駆り出されたと聞きました。
あの朝、私の家の前に立っていた、まだ十代の、少年のような兵隊たちの姿を忘れません
世の中は不況で、農村の貧しい家では、私ぐらいの年齢の娘が、家のために売られていく話も耳にしました。
日本の不可解な動きは、それからというもの急速になっていき、やがて悲惨な戦争へと突入してゆくのです。
私は関東大震災といい、二・二六事件といい、乱世を生きる運命を抱いているのかもしれません。

あれは、日本の曲がり角となる事件でした。
関東大震災で、奇妙な感受性を植え付けられた女の子が、十余年経ったのち、
二・二六事件によって、死への予感と、目前に迫り来る戦争の気配を、強く感じたのです。
この二つの事件は、その後の私の生き方にも、大きな影響を与えたように思われてなりません。

《堀文子『ホルトの木の下で』より》


書き起こしをされた内海氏は、早稲田大学で『内海先生のドロップアウト塾』という講義をなさっておられます。
その中から、↓下記の講座を紹介させていただきます。
わたしはこの講座内容を何回も読んで、今までモヤモヤとしていたものが、少しすっきりと見えてきたような気がします。
ぜひ、時間を見つけて、読んでください。

早稲田大学「内海先生のドロップアウト塾」 『226事件と今日の極右日本-安倍晋三は国家社会主義者か?!』
(2015/02/23)
March 1, 2015 at 9:41am
講義まとめ(文=大久保貴裕)


1936年2月26日、「昭和維新・尊皇討奸」を掲げ決起した陸軍青年将校らは、歩兵第1連隊・第3連隊をはじめとした各部隊を指揮して、
首相官邸や大臣・官僚らの邸宅、警視庁、陸軍省、参謀本部、朝日新聞社などを次々と襲撃し、永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂の一帯を掌握する。
麹町にあった内海の実家は、決起軍による首都中枢占拠の渦中にあった。

当時女学生だった叔母の堀文子さんは、阻止線の内側にある自宅に帰ろうとして、バリケードで兵士に、着剣した三八式歩兵銃を突き付けられた体験を語っている。
翌27日に戒厳令が布かれると、陸軍の戦車部隊や海軍陸戦隊が、鎮圧のため現場に投入され、台場沖に集結した40隻もの海軍艦隊は、永田町一帯に砲口を向けた。
市街での銃撃戦に備え、家族で部屋の畳を立てて身を伏していた堀さんは、
鎮圧部隊が往来する表通りを避けて、決起兵士たちが塀や垣根を壊しながら、家々の敷地内を行軍するのを目撃したという。
軍同士が銃火を交える「皇軍相撃」の一歩手前にまで、事態は進行していた
国が、明治以降、最大の内戦の危機に直面したのが、この226事件である。

翌37年7月の盧溝橋事件を皮切りに、日本軍は、日中間の衝突を一気に全面戦争へと発展させ、12月には首都南京を陥落させている。
日中戦争の長期化を受け、総力戦体制を布いた日本は、41年の真珠湾攻撃によって、泥沼の太平洋戦争に突入していくわけだが、
こうした事後の経過から見ても、36年の226事件が、昭和日本史のメルクマールとして、いかに重要な意味をもっていたかが分かるだろう。

226事件が起きた背景としてよく言われるのは、統制派と皇道派の対立、
すなわち、統制経済による高度国防国家建設を唱える軍の中央幕僚らと、特権階級の解体による天皇親政を謳う青年将校らとの、派閥対立である。
統制派幕僚の圧迫に不満を強めていた皇道派将校らが、クーデターを断行したことで、
結果的に、軍部が政治的影響力を強め、その後の統制派主導による軍事台頭を準備したというのが、おおかた一般的な226事件の認識だろう。
主犯の過激派将校たちこそ、極右ファシストの最たるものであり、彼らは自ら望んで世界戦争参画への道を切り開いたのだと、イメージしている学生や高校生も少なくないかもしれない。
しかし、実際に事件を起こした青年将校らの証言に目を通してみると、彼らの主張は必ずしも一概に、皇道派という派閥の下に括れるものではなく、
そこには、海外進出を謀る軍上層部に対する、侵略戦争阻止の立場において決起した趣意を、読み取ることもできる。

226事件で決起した青年将校、すなわち士官学校卒の隊付将校が、自らの隊に抱えていた兵卒の部下たちは、その多くが農村出身者である。
昭和初期の不況によって、当時の農村部は壊滅的な貧困に陥っており、小作農家の多くは、子どもの都市部への出稼ぎや身売りによって、辛うじて小作料を埋め合わせている状況だった。
とりわけ、大凶作に見舞われていた東北の農村では、村役場が、公然と身売りの仲介を担い、多くの女性が、都市部の遊郭に売られていった
小作農家の悲劇的な惨状とは裏腹に、こうした農村部からの労働力搾取、そして人身売買における中間搾取によって、国や財閥は大きな利益を得ていた

実家の姉妹が売られたことを苦に、初年兵が消灯後に、隠し持っていた実包を銃に込め自殺する
あるいは、演習中に銃を持って脱走し、身売りされた姉妹のいる遊郭に駆けつけて、心中を図る
農村出身兵士のこうした痛ましいエピソードは、当時決して珍しいことではなかった
部下たちの苦悶する姿を、目の当たりにしていた青年将校らは、貧困にあえぐ民衆から容赦なく搾取し、富を占有する財閥支配や、財界に癒着し党利党略に明け暮れる政党政治の腐敗、
そして、農村部の疲弊を傍目に、侵略戦争によって強引に不況を解消しようと画策する軍上層部に対し、不信感と危機感を強めていた

明治維新以後、年貢に小作料が取って代わり、士農工商の身分制は、華族制や貴族院に引き継がれ、大財閥の資本独占によって、経済格差は拡大する一方にあった
彼らが、国家革新として希求した、地主制の解体、華族制・貴族院の解体、財閥支配の解体は、
明治維新という不徹底な改革により、依然として引き継がれている江戸時代の封建体制を、解体することを意味していた



こうした青年将校らの革命構想に、決定的な影響を与えているのが、
226事件を思想的に煽動したとして逮捕され、事件に直接関わっているわけではないにも関わらず、将校らとともに死刑となった、国家社会主義者の北一輝である。

23歳で刊行した大著『国体論及び純正社会主義』で、北は、明治維新の革命性について、
君主が主権を独占する「君主国家」から、君主・国民を一体とした国家自体が主権を有する「公民国家」への移行と位置付けた上で、
天皇を「万世一系」の統治者として、国家の頂点に君臨させる帝国憲法は、天皇と議会の協同による国家運営を旨とする、公民国家の理念に矛盾すると指摘する。
帝国憲法下の天皇制を厳しく批判し、労働者や農民の政治参画や、生産手段の国有化といった、社会主義革命を唱えた『国体論』は発禁処分を受け、
北は、社会主義の「危険分子」として、当局に認知されることになった。
中国に渡り、辛亥革命に参加した北は、日本における国家変革の方策として、『国体論』において批判した天皇制を逆手にとり、憲法の効力を超えた、天皇の大権に基づく革命の断行を提唱する。
『日本改造法案大綱』には、天皇・国民の一体化を阻む財閥や官僚を打倒すべく、天皇の権力によって憲法を3年間停止させ、
全国に戒厳令を布いて両院を解散、一定期間政治権力を凍結させることで、普通選挙による新たな議会・内閣を設置し、国家改造を果たす革命の方法が説かれている。
北が記した国家改造策には、農地解放、華族制・貴族院の廃止、普通選挙、財閥解体、私有財産の制限などが盛り込まれており、
GHQの戦後政策を先取りしているとも言えるこうした改革のヴィジョンに、明治以来の体制に矛盾を感じていた青年将校らは、強く感化された。


将校らのあいだに高まる改革の気運に、危機感を強めた軍上層部は、先手を打つかたちで、彼らの多くが属していた第1師団の、満州派遣を決める。
これを受け、北が示した革命の方策を実行に移す機会は、渡満前しかないと判断した将校らは、遂に自らの部隊を率いて決起することになる。

天皇親政を妨げる「君側の奸」を一掃し、決起の真意を天皇に訴えかければ、
君主と国民の結束による「一君万民」体制を実現すべく、天皇自身が動いてくれるに違いない、このような錦旗による革命を、彼らは目論んでいた

が、当の天皇裕仁は、決起将校らの行動に激昂、決起部隊を「賊軍」と呼び、早期鎮圧にあたるよう軍部に強く求めている。
事件発生の報を受けた時点で、天皇が決起軍鎮圧を明確に決意し意思表示したのは、
フランス革命から19、20世紀に至る、歴史上の様々な革命について熟知していた彼が、
北一輝のような当時の革命思想家の影響力をふまえ、社会主義や共産主義が天皇制に接近することで、日本型の国家社会主義が生まれる危険性について、重々承知していたからだろう。
天皇の恩情に賭けた「昭和維新・尊皇討奸」の希望は打ち砕かれ、決起部隊は不服にも、天皇に背いた叛乱軍として、鎮圧されることになる。

226事件を描いた文学や映画は数多くあるが、中でも『英霊の聲』や『憂国』、『十日の菊』など、226事件を題材とする作品を書き続けた三島由紀夫は、
遂には、自ら決起将校のそれを思わせるような、破滅的な最期を遂げるに至る。
226事件で処刑された青年将校と、神風特攻隊員たちの降霊を描いた『英霊の聲』では、
君主を信じて決起した兵を賊軍として退け、戦後は人間宣言によって現人神を否定したことに対する、兵士たちの屈辱と憤りが、天皇裕仁への呪詛として吐露される。
君主への狂おしいほどの愛と、それが翻って牙をむいた深い怨念は、三島自身の、天皇へのフェティッシュな欲望を露わにしていると言える。
226事件を起こした将校らも、自衛隊に決起を呼びかけた三島も、本気でクーデターを成功させることができるとは決して思っていなかっただろう。
が、マゾヒズム的とも言える悲劇的な最期を演じ切り、その死にざまを芸術的なイリュージョンに転生させることで、今なお彼らは、自らの声を、昭和史上に反響させている。
己の無念な死をもって、世代を超えて、この国が孕む天皇へのフェティシズムに訴えかけることが、ある意味での彼らの美学であり、戦略であったと言えるかもしれない。



北一輝の唱えた国体変革を、青年将校らが、クーデターによって破滅的に断行する一方、
同じく、北の国家社会主義的な国家改造論に強い影響を受け、それをしたたかに政策路線に反映させていったのが、安倍晋三現総理の祖父・岸信介である。
秀才として知られた学生時代、岸は、国家主義の立場に身を置きながらも、『資本論』をはじめとしたマルクス的共産主義や、社会主義の著作も熟読し、
特に帝大入学後は、統制経済型の社会主義を提唱していた、大アジア主義者の大川周明、そして大川とともに国家改造を唱えた北一輝の思想に強く傾倒、
上海から帰国した北を、訪ねたりもしていた

岸は後年、このころをふりかえって、
『資本論』にはやられなかった」ものの、北は「最も深い印象を受けた思想家の一人」だったと語っており、
国家社会主義思想の強い影響下にあったことを明かしている。

帝大卒業後、農商務官僚時代を経て、226事件が起きた36年に、岸は満州国国務院実業部総務司長に就任、
39年までの3年間にわたり、産業部部長や総務庁次長を務めながら、ソ連の5カ年計画をはじめとする計画経済・統制経済の政策をモデルに、満州「産業開発5カ年計画」を実施する。
更に岸は、関東軍参謀長の東條英機、国務院総務長官の星野直樹らとともに、大規模なアヘン密造・密売事業を行い、莫大な利益を生み出すことに成功している

満州国が、熱河省や内蒙古に広げられていく動機のひとつには、アヘンの原料となるケシの栽培地域の拡大に加え、アヘン市場、およびそれに付帯する売買春市場の拡大があり、
麻薬産業による満州社会・経済の半植民地化が、大きな成果をあげていた
ことがわかる。
こうした軍・官・財の協同による麻薬の製造販売は、戦費調達の手段として、その後の日中戦争や太平洋戦争の戦線拡大にも、大きく関係していくことになる。
いわば、満州を一国社会主義の実験場として、「植民地」経営に辣腕をふるった岸は、
あたかも、満州で行ったことを本土で実践するかの如く、帰国後は、統制計画経済による総力戦体制の整備に奉じ
戦後は、安保条約下における低武装・経済重視の高度成長路線を、築いていくことになる。
つまり、北一輝の国家社会主義の影響、そして、満州経営における植民地的支配の経験に基づく岸の本土「満州国化」が、
現在に至る戦後日本の社会体制に、色濃く反映されている
ということである。


祖父・岸信介の政治思想からの強大な影響と、その継承を公言しているのが、現総理の安倍晋三である。
第二次内閣組閣以来、安倍が押し進めている統制的な国家再編政策に対し、一部右派からは、社会主義的だという批判が出てきていることは、過去の講義においても取り上げている。
ステレオタイプな左翼対右翼の二元論で解釈しようとすると、極右路線とされる安倍政治が、なぜ社会主義路線と称されるのか分かりにくいかもしれないが、
日本においては、北一輝らが提唱し、岸信介が政策に取り入れた国家社会主義が、紛れもない社会主義の一形態であり、
日本型のファシズムが、マルクス的共産主義やソ連統制計画経済と天皇制国家主義との接合によって生まれてきていることをふまえれば、
安倍による国家再編の指針に、一国社会主義的な極右体制の建設を読み取ることも、難しいことではないだろう。


自民党が政権を奪還し、安倍が総理大臣の座に返り咲いたとき、多くの自称左派リベラリストは、
俊英だった岸とは比ぶべくもない安倍の低学歴を笑い、第一次内閣退陣時には無様な醜態を晒した、無能な世襲三代目の政権の行く末について、長続きはしないだろうとたかを括っていた
が、現状を見れば、第二次内閣はここまでしぶとく権力体制を維持し、支持率低下の危機を巧妙に回避しながら、着々と改革を進めて、今や憲法改正の目前にまで迫る勢いにある
左派的な立場から、極右ファシストと野次をとばす典型的な安倍批判は、この2年余りの政権の猛威に対して、全く無力であった
批判するものの主体が問われることがないまま、左翼対右翼という、形骸化したイデオロギー対立を自明のものとし、無内容な善悪二元論を振り回すだけでは、
左右のレッテルによって議論の場を住み分け、同じ立場やイデオロギーの相手と同じ意見を復唱し合うだけの、内輪のコミュニティーを築くことしかできない



左派インテリが小馬鹿にするネトウヨや在特会支持者と、面と向かって話をしてみれば、
彼らの多くは、今日の経済格差・教育格差の前に敗れ、将来の希望を見失っている若者たちであり、
彼らがやっていることが単なる右翼活動とは異なる、いわば、時代に対する反体制的な違和感の表明であることが見えてくる

無論、ネトウヨに同調したり、右派的な言説を支持したりする必要はないが、
むしろ重要なのは、226事件でクーデターを起こした将校や兵士らに、皇道派という派閥の枠組みでは語り切れない動機があったように、
今日右翼的な思想に走る彼らが、どのような動機によって突き動かされているのかを、読み解くことである。
かつて、社会格差に苦しむ若者は、共産主義や社会主義の思想に憧れ、それを天皇制に接合させていくことで、国家社会主義的な改革を夢見た
多くの共産主義者や社会主義者が、共産主義・社会主義革命のスローガンを、天皇制とのアマルガムにされることで、積極的にファシストへ転向していった
日本に古くから根付く一方的な左翼信仰は、こうした社会主義と国家社会主義との密接な関係から、目を背けようとする
しかし、今日ここまで進行したファッショ化を前に、左翼と右翼をめぐる善悪二元論が、ますます空転するばかりである以上、
教条的な共産主義・社会主義性善説を、一度ここで捨て去り、左右の思想的・政治的な「違い」をめぐる議論を終わらせて、
むしろ、あらゆる政治思想の「なにが限界だったか」を、歴史的に顧みる必要に、時代は迫られている

かつて、戦後日本の経済体制などを指して、日本を「最も成功した社会主義国家」だと揶揄する言い方があった。
無論、日本を社会主義国家だと論証することができるかと言えば、それには多くの時間を議論に費やされなければならないだろう。
が、226事件に象徴されるような、30年代における国家変革の気運の高揚
岸信介に象徴される、戦中戦後の国家社会主義的な体制整備
そして岸の継承者として、国家再編を押し進める安倍政治の、今後の動向を見据えるなかで、
昭和から現代にかけての歴史を追い、日本における社会主義・国家社会主義とはなんだったのか、
そして、そうした革命思想と天皇制が、どのように接近し接合されてきたのか、時間をかけて議論する価値は大いにある。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘトヘトの日曜日&サマータイムのはじまり

2015年03月09日 | ひとりごと


朝はレッスン、昼からはエラのコンサートとキャバレーの鑑賞という、一日中頭と心が動き回っていた土曜日の翌日は、
だからもう本当に、ヘトヘトのヘトヘトの日曜日となりました。
おまけに、午前2時から夏時間に変わっていて、この1時間の差って、妙~に体に影響するのです…。

夫も負けず劣らずのヘトヘトっぷりでしたが、さすが8年半の若さと、鍼灸師的対処(マグネットを貼り付けるとか漢方を飲むとか散歩するとか)で、夕方には復活。
せっせと買い物に行き、ちゃっちゃと料理をしてくれました。
わたしは野菜を切っただけ。

野菜ベースのスープをまず作り、そこにハーブと切った野菜と炒めた肉を入れて、


ポテトの温サラダといっしょに♪ 大変美味しゅうございました!



気温がぐんぐんと急に上がり、なんと最高気温が10℃?!
散歩に出かけた旦那が出会ったものは…。


ちょっと寄り道してるんだろうか…。



そして、春の気配がムンムンの部屋の中では…、


猫が嫌がるはずの液体をスプレーして、様子を見ることにしたのだけれど…、


あかんわ、こりゃ…。

うちの植物で、海ちゃんのおしっこ攻撃から唯一生き残ってくれたアロエさん。


え?誰か呼んだ?
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽三昧

2015年03月07日 | 音楽とわたし
6才だった、まん丸目玉の、それはそれは可愛い女の子エラに出会ったのは、今から11年前のことでした。
わたしはその頃、出張レッスンをしていたので、毎週彼女の家まで行って、キッチンのすぐ隣にある電子ピアノで教えていました。
彼女は全くの初心者だったので、ドの音から学び始め、姿勢や指の訓練をいろいろやりながら、どんどん上手になっていきました。
とても恥ずかしがり屋さんだったけれど、わからないことや納得がいかないことがあったら、しっかりと伝えられる気の強さもありました。

レッスンの場所がわたしの自宅に、エラの家にもグランドピアノがやってきたりという変化の中で、
この子は伸びるなと、とても楽しみにしながら教えていたある日、
「事情があって中断するけれども、必ず戻ってくるから」と父親のチャーリーが言って、急に止めてしまいました。
とてもショックだったけれど、チャーリは音大を出ている人なので、とりあえずバトンタッチをしましょうと言って、詳しい話を聞かずに別れました。

そして何年か経って、どうしてるかな…と考えることもなくなりかけていた頃に、突如彼女は戻ってきました。
え?誰?と、最初は分からないぐらいに背が伸びた、髪の毛を真っ赤に染めた女の子が、玄関ドアの向こうに立っていました。
エ、エラ?
お化粧をしていたけれども、あのクリクリ目玉は小さい頃のまんま、懐かしい、そして驚きの再会でした。
「もう僕にはとてもじゃないが教えられない」と言うチャーリーから、またまたバトンが渡されました。

ホームスクーリングを経て、公立の高校に戻ってからも、彼女の心の中の嵐は、吹き荒れることをやめませんでした。
再開したレッスンも、だから時には休んだり、やって来たとしても話をするだけで終わってしまったりしました。
でも、「ピアノは絶対に止めない」と彼女が言うので、その気持ちを大切にしたいと思いました。
そして、世の中にはこんなのもいるよと、わたしの身の上話を聞いてもらったりしました。

やる気が出たり引っ込んだり、希望が膨らんだり萎んだり、怒りを抑えきれなかったり妙に隠したり、
いろんなエラを間近で見守りながら、また数年が経った頃、ミュージックキャンプやオーディションに参加したいと言い出しました。
それはいいことだと大賛成し、紹介状や推薦状をせっせと書いて渡しました。
高校では、この地域では一番厳しいことで有名なマーチングバンドに入り大活躍。
ボーイフレンドもできました。
もちろん気持ちの上がり下がりはあったけれども、そのことで自分を見失ったり、殻に籠ったりというようなことがなくなりました。

そして…彼女は今、高校の4年生。
マンハッタン・ミュージック・スクールの特設クラスの2回生(2年制)として、卒業演奏会を開きました。

曲は、ベートーヴェンソナタNo.7 ニ長調、ショパンバラードNo.3 変イ長調、そしてWilliam BolcomのThe Garden of Eden。
40分間の、とても良いプログラムでした。

マンハッタン・ミュージック・スクールはアッパーウェストサイドにあります。
その7階の小さなコンサートホールで、彼女の演奏会が行われました。


会場に入って行くと、彼女の現在の先生であるマリアがやってきて、よく来てくれましたと、ニコニコ笑って迎えてくれました。
エラの母親のジャッキーが、「まうみがいてくれなかったら今のエラはいない」と言ってくれるのを、深く頷いて聞いているマリアを見て、
ああきっと彼女も、エラの心をしっかりと聞いて、受け止めてやってくれているのだと確信しました。

ちょっと姿勢が悪いけれども、とても深みのある悲しみを表現している最中だから。


無事演奏会が終わり、君は僕たちの誇りだと、大感激のチャーリーから花束を受け取るエラ。


娘をずっとずっと、とても案じながら、時には涙ぐんで「もうだめかもしれない」などとつぶやいて、
でも、その目の奥に、それはそれは深い愛情と信じる心を燃えたぎらせて、見守り続けたジャッキー。
エラをぎゅうっと抱きしめながら、また涙ぐんでいるのでした。
ああ、なんてすてきな家族なんだろう…。


お祝いの乾杯を、近くのレストランで済ませ、夫とわたしは次の場所に急ぎました。


ニューヨーク州にあるThe Manor Club。去年も行われた『CABARET』の会場です。


様々な問題を抱えた子どもたちを救おうと立ち上がった、Mr. Hickey。


彼の娘や息子たちが、その遺志を受け継ぎ、基金を募るために毎年開催されるショーです。
右端が娘のマギー、真ん中がマギーのお兄さん。
マギーはACMAのメンバーで、先日のカーネギーでのコンサートでも演奏したフルーティスト。
本業はベテランアナウンサーで、なかなかの有名人さんです。


オークションに出された作品の中に、同じくACMAのメンバーのクラリネット奏者サラのものが!
サラは、古くなった管楽器の部品を基にして、アクセサリーを生み出すデザイナーさん。
多くの人たちの手が触れた物のあたたかみ、丸みが、彼女の作品の特徴です。
いつか身につけたいな~♪


いいな~と思ってた絵(右側のちっこい方)は、誰かさんの手に。


部屋の片隅では、耳に心地よいジャズが奏でられ、


さあ、いよいよキャバレーのはじまりです。
普通の家に見えたのに、こんなしっかりしたホールがあることにびっくり!


マギー登場!


長年のキャスター友、アーニーさんと。


いつもピアノを弾いてくれる彼の凄さったら…どんな要求にも即座に弾き応える彼の姿は、痛快かつ壮絶!


子どもたちの無邪気さっぷり!


往年の有名人、今真っ只中の実力者、これからが楽しみ過ぎる新人たちなどなど、今回も盛りだくさんのショーでした。






特に彼女、マリッサの歌声には、心を鷲づかみにされてしまいました。
ショーの後に行ったパーティで、さらに歌を聞いてメロメロ、思わずカードをちょうだい!と詰め寄ってしまったわたし…。




昨年彼は、ピアニストのお母さんと一緒に、フランクの『バイオリンとピアノのためのソナタ』を演奏してくれたのですが、
その後お母さんが急に亡くなり、今回は妹と一緒に、お母さんを偲んでの演奏でした。


オークションの売れ行き状況報告をする、ドンとクリスティン。マギーの仕事仲間です。






我らがACMAメンバー、ダイアンとサラ。どちらもすご~くすばらしい演奏家。












ショーの後、会場のフラワーアレンジメントを担当した友人マリアンヌが、よかったらわたしと一緒に、マギーのお姉さんエリザベスの家のパーティに行かない?と誘ってくれました。
着いて家の中に入る前から、大きな歌声が聞こえてきました。
ピアノを弾くのはもちろん彼!
そして、ショーで歌い足りなかったか、どんどんと歌い手が入れ替わり、それを目の前に立って聞くことに。
キッチンから運ばれてくるオードブルは、どれもこれもとても美味しかったのだけど、運んできてくれる子たちが若すぎるように思えて、それがちょいと気になりました。
お屋敷のご主人、エリザベスの夫のトムは、武道をたくさん学んだアジア通。
夫が鍼灸師だと言うと、地下に見せたいものがあると言って、鍼灸のツボを描いた裸体の人形を出してきました。
痛風で困っているようで、近くだったら通ってもらえるのに…。

ということで、音楽三昧、おしゃべりしまくりの一日でした。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米国『東海岸これが最後の大雪?』事情

2015年03月06日 | ひとりごと


ゆ~き~が~ふぅ~るぅ~♪

生徒は~こない~♪


いやもう、いったいどんだけ降るっちゅうのでしょう?
最高気温も零下だよ~ん♪ なんていう日が、いつ終わるのでしょう?

またまた、もういったい何度めか数えることもしなくなったSNOW DAY(雪で学校や職場が休みになること)となりました。
夫もわたしも、人に来てもらう仕事なので、こうなると外と同じく懐も寒いっ!

そんなこんなのうんざり気分が、心の壁にじっとりと張り付いてしまわないよう楽しいことを!
これは夫の得意技。

で、勝手口のドアを開けたところで、こんなことをしていました。


それにしても、凄まじいツララです。


これはまだ途中経過。



そして翌日の今日、朝からぴっか~ん!と晴れました。




気温はただいま22℉、摂氏でいうとマイナス5.5℃です。






昨夜のお楽しみの跡。



予報だと、明日からなんと、最高気温が零下ではなく、零上になる日が続くのだそうな…。
そんなことになったらもう、大人も子どもも嬉しすぎて、パァ~っと町に繰り出してきそうな気がします。
そういう時というのは、往々にして浮き足立っているので(特に車を運転している大人たち)、いろいろと気をつけなければなりません。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「放射能は、貧困者に、より多く降り注ぎます」事故原発収束作業員・北島教行さん

2015年03月05日 | 日本とわたし
今から3年前の冬、原発事故が起こってから1年弱が経った頃に、福島原発の第一、第二で作業員として働いておられた方が語られたものです。
心がえぐられるような思いで読みました。
この時から3年経った今もまだ、同じような搾取や使い捨てのような扱いが改善させないままです。

そして東京電力は黒字を出した…。

そして自民党政府は、原発再稼働に血道をあげている。

こんな社会は間違っています。

事故の後遺症とやくざの金の取り立てと、のっぴきならない貧乏の、重い重い鎖を身体中に巻いて生きていた時、
どうしてこうも、すっぱりと無視されているのだろうと、明るい朝の光を背中に浴びながら、高校への通学路を歩いていました。
それはきっと、とりあえず何にも無かったかのように繕っている自分のせいでもあるのだけれど、それにしても分かるだろうに、近くで見ている人は。などと思いました。
そして、後のドラマで流行った「同情するなら金をくれ」という台詞を、そっくりそのまま、暗い心の中でつぶやいていました。

こんな、わたしごときの経験と、あの過酷な環境で働いておられる原発作業員の方々を、一緒にして考えるのはおこがましいと思いつつ、
それでもいつも、あの時の自分が思い出されてならないのです。

わたしの人生の危機など、わたしひとりでなんとかなるものですが、作業員の方々の危機は、なんとかなることではありません。
そんなことに煩わすことさえ、申し訳のないことです。
命を、健康を犠牲にして、重篤な危機に再び陥ることのないよう、非常に危険な作業をしてくださっているのですから。

よく、それでも一向に効果が無く、収拾にはほど遠いままではないか、と言う人がいます。
ミスが多く、後手後手の仕事に、呆れている人がいます。

でもそれは、作業員の方々だけのせいではなく、上に立つ者たちの不適切な指示や計画が、大きな原因となっているのではないでしょうか。

議員に、企業に、作業員の方々の支援の充実を図るよう、強く要請しましょう。
報道機関に、作業員の方々が置かれている環境の実態を、ありのまま伝え続けるよう、きつく要求しましょう。


放射能は貧困者により多く降り注ぎますーー北島教行さんの心境
2012.2.24
https://www.facebook.com/notes/10150693410317359/

北島教行さんは現在、福島第一、第二原発内で、作業員として働いております。
私たち、原発推進派も原発反対派も、放射能の問題に焦点を当てすぎて、
原発産業の問題は、弱者に負担を強いる社会構造にあることを、忘れてはいないでしょうか?
彼は、私たちの偽善者ぶりを、鋭く指摘しています。

******* ******* *******

収束作業現場にいると、ニュースに触れる機会がなく、宿舎でも泥のように眠るだけなので、
「事件」らしきことは、現地をはるか離れた場所の友人達から、もたらされることが多々あります。

今回、2号機の温度上昇に至る原因として、計測機器の故障が疑われ、実際そのような結果となりましたが、
友人達からの「ありがたい忠告」を、たくさんいただきました。
曰く「早く現場から逃げよ」と。
心配頂いて嬉しくもありましたが、深く考え込んで出した、現在の心境を綴ります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

温度上昇問題、現場での慌ただしさは終息しました。
東京では、現場情勢がわからないから、憶測が憶測を呼び、不安感が増幅するのでしょう。

「逃げて欲しい」との暖かい言葉に嬉しくもあり、しかし残酷でもある、と感じてしまうのも確かです。

私の進退で申せば、私自身の経済的貧困故に、原発事故収束作業員を辞めることができません。
ほとんど全ての作業員が、経済的貧困が理由で、例え将来に、重大な健康障害が発生するかもしれないと解っていても、職場放棄することができないのです。

また、職場放棄したら、人類に重篤な被害を及ぼしてしまうことを理解しているがため、放棄することができなくなるよう、「社会からの無言の強制」に応じざる得ないのです。

その状況で、私達作業員は、引き換えるにしては余りにも低賃金(1稼働日給8千円から1万円、待機日は日給ゼロ、一切の補償なし、将来の保証も補償もなし、諸保険無権利)であるにも拘わらず、
疫病発生地域の医療従事者、戦場の医療従事者、火災現場の消防隊員とまったく同様の、職業的倫理観に基づいて従事している
のです。

私達収束作業員は、ギリギリまで退却することなく、最善の手を打つことを覚悟しています。
我が身が蝕まれようとも。
最後まで保ち続けたいのは、「収束作業員としての職業的プライド」です。
「誰か」が緊急措置をしなかったら、人類全体に災禍が降りかかるのですから。

私達は、このような気概で作業しています。
しかし、「社会的に犠牲者となることを暗に要求され」ている収束作業員は、推進派、反対派問わず、
「収束させることを要求する、圧倒的多数の都市民の人々」に、良いように利用される存在でしかない
、と実感します。

反原発運動の人々は、ひとたびでも、「1Fの現場にて何かあった時」には、鬼の首をとったかのように、私たち収束作業員の被害を都合宜しく代弁し、利用しつくそうとすることでしょう。

安全な高みで見物している、都市民による反原発運動の「強欲さ」「身勝手さ」「利用主義」に、ウンザリなのです。
私がもし、このような「利用」をされる対象物とされたなら、死んでも許さない、と遺言するしかありません。

社会的貧困者を収束作業にあたらせておいて、なんの痛みも感じようともしない反原発運動のエゴイストどもへの、失望感と不信感に溢れています。
推進派と何ら変わることなく、「犠牲者」を要求しているのですから。

原発を推進してきた者どもと同じ視点、「命の重みなど検討するに値しない貧困者」に、「死に至る苦役を負ってもらう」という思考は、反原発運動の側もあるのです。

貧困問題や差別問題を持ち込ませない、と宣う「シングルイシュー」は、思考として破綻していることを、反原発運動に関わる人々に悟って欲しい、と願うばかりです。

私達収束作業員は踏み留まって、最悪の事態を再発させないよう、24時間体制で従事しています。
重篤な被曝を受けながらの作業です。
「誰か」が必ずやらなければ、冷温を維持することさえできません。

その「誰か」とは、貧困故に就業せざるを得ない、私達収束作業員です。

貧困の問題とは、貧富の差別や、社会的マイノリティ差別の問題でもあります。
現場に来る前から、そのような分析をしていましたが、こちらに来て、そのような予測通りの、絶望的な現実を目の当たりにし、
反原発運動における、「原発労働者問題の切り棄て=隠蔽化」への絶望と怨嗟を、隠すことはできません。

読み書きも満足に出来ない労働者も、多数おります。
社会的には取るに足らない、棄民として扱われている階層かもしれません。
でも、こんな私達も、「人間」なのです。
反原発運動の人々に、収束作業の現場では、「人間」が従事しているんだよ、と叫びたい衝動に駆られます。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「戦争はもうやめなよ!戦争を繰り返さない!日本は戦争しない!」小澤征爾氏

2015年03月05日 | 日本とわたし
『みんなが知るべき情報/今日の物語』というブログに、今朝出会いました。
小澤征爾さんの言葉が心に突き刺さりました。

「日本は戦争しない!」

そして、小澤氏の記事の続きに紹介してくださっていた、手塚治虫氏、やなせたかし氏の、戦争に対する思いに触れ、ぜひここでも紹介させていただきたいと思いました。
すでに、2万6千人もの方々が、フェイスブック上で読まれている記事ですので、もうご存知の方が多いかもしれません。


↓以下、転載はじめ

小澤征爾氏「戦争はもうやめなよ!戦争を繰り返さない!日本は戦争しない、そんな国できたのは初めてですよ」

戦争はもうやめなよ!
戦争を繰り返さない!
日本は戦争しない!
そんな国できたのは初めてですよ!


情報・映像 【NEWS 23】2014.10.8より






インタビュー(要約書き起こし)

■初めて語る「戦争と平和」

全然音楽と関係ないんだけど…僕ね、中国で生まれて中国で育って、引き上げてきて、
東京の東京の立川で住んでた時に、戦争が始まっちゃったわけ、立川に飛行場があったの、軍事飛行場。

そうすると、B29っていうのが来ると、必ず爆弾、焼夷弾を落として、それで、いつも参っちゃったんですよ。

僕の同級生の一家が直撃弾で、家がなくなっちゃったわけよ。
そのくらい戦争というのは、僕にとって身近だった。
だから戦争だけはね…。

今の政治家なんか皆、戦争を知らない世代になっている。
これは具合悪いよ、これだけはね。
まったく勉強しない者が政治家になるなんて、ダメなわけよ。

日本はね、凄いいろんな戦争があったわけなんですけど、日本は、あれで戦争はしないって、言ってるわけだから…。
初めてですよ、そんな国が出てきたのは、それを大事にした方がいいね。

絶対にね、戦争は、もうやめなよっ!
人間は向上していかなければ…。
いまでも戦争があるんだから、凄いよね。




手塚治虫氏『戦争はごめんだ』
ぼくのマンガ人生=ぼくの戦争体験!
これだけは断じて、殺されても翻せない主義が


戦争はごめんだ.
ぼくのマンガ人生=ぼくの戦争体験!
これだけは、断じて、殺されても翻せない主義がある!



引用元:戦争:手塚治虫のメッセージ:TezukaOsamu.net(JP) 手塚治虫 公式サイト
http://tezukaosamu.net/jp/message/war01.html

犠牲の子羊たち
ただ一つ、これだけは断じて殺されても翻せない主義がある。
それは戦争はご免だということだ。
(『手塚治虫エッセイ集』より)

------------------------

戦争というのは、兵隊が戦って死んでゆく、という単純なものではありません。
歴史の上で、何回も戦争は繰り返され、そのたびに、多くの子どもたちが犠牲になってきました。
いまも、世界中で、沢山の子どもたちが、大人たちの争いの中で傷つき、手足を奪われ、両親や兄弟と引き離され、命も未来も踏みにじられています。
その現実から目を逸らさないこと。
「関係ないじゃん」とそっぽを向かないこと。
平和な世界を望むなら、まずそこからはじめなければなりません。




やなせたかし氏【戦争】そのものが悪。
【正義の戦い】そのものは存在しない。アンパンマンの原点は戦争体験。


【戦争】そのものが悪。
【正義の戦い】そのものは存在しない。

アンパンマンの原点は戦争体験。
ひもじい思いをしている人に、パンの一切れを差し出す行為を、『正義』と呼ぶのです。








NEWSポストセブンより
やなせたかし氏・兵隊時代の記憶が「絶対的な正義」に導いた

なにも相手の国にミサイルを撃ち込んだり、国家を転覆させようと大きなことを企てる必要はありません。
アメリカにはアメリカの“正義”があり、フセインにはフセインの“正義”がある。
アラブにも、イスラエルにも、お互いの“正義”がある。

つまり、これらの“正義”は、立場によって変わる

でも、困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても国が違っても、『正しいこと』には変わりません。
絶対的な正義なのです。






コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

極寒に、あたたかな気持ち、あたたかなランプ、あたたかなコーヒー

2015年03月05日 | ひとりごと
かあちゃん、また白いのぎょうさん降ってきたで…。


今日は3月5日、一応、春のちょっと手前です。
が…、
窓の向こうは真冬…。




カエデの爺さんも砂糖菓子のよう…。


それはそれは小さな粒の粉雪ですが、これが今日一日、ずっと降り続く予定です。


ちょっと美味そう…。


去年も確か、今年の冬は一番厳しいね、などと、顔を合わせては愚痴り合っていたのですが、どうやら今年の冬はそのまた上を突進中のようです。



そんな大雪の予兆があった昨夜、マンハッタンまで出てきていた夫の母が、夕飯をご馳走してあげようと、わたしたちが住む町まで来てくれました。
母と会うのはクリスマス以来、時間の経つのが早いったらありません。

そして同じ夜、すでに冷たい霙が降り始めていた中を、まなっちゃんがこんな物を持って帰ってきてくれました。


マンハッタンの通りを歩き、電車に乗りして、運んできてくれたランプです。
簡単に倒れないようにするための重りが入った土台があったりして、だから結構重いのに、ずっと暗くて雰囲気が悪かった台所にと、よいしょよいしょと運んできてくれたまなっちゃん。
その気持ち、めっちゃ嬉しかったよ~!ありがとう~!



さて、とうとう届いたコーヒーの生豆。


右のがグァテマラ産、左のがエチオピア産。


グァテマラの豆は丸くてちっこいです。
で、今朝はこのグァテマラの豆を、旦那がひとりで煎っておりました。


そして、薄皮を剥ぐために、レイチェルに教えてもらったように、ふうふう吹きながらザルからザルに移し、すっかり冷めるまで待つかと思いきや…、


さすが我が道を行く男…わずか15分ほど経ったところで、愛用のグラインダーでガ~!
ほんでもって、お湯は一回他の容器に移し、少し冷ましたものを細~く注ぎ…というアドヴァイスを受けていましたが…、
もちろん、いつものように、沸騰した熱湯をそのまま、やかん口からジャ~!

毎朝、挽きたてのコーヒーを入れていただいているわたしとしては、何の文句も言えません、はい。

実に上品、かつちょいと酸っぱい、けれどもほんのりの甘い香りが漂う、とても美味しいコーヒーでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする