愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

桶狭間の戦い(5) 名古屋市緑区

2013年06月09日 08時43分49秒 | 名古屋市緑区
信長公記(3)
信長は、わずかな軍勢で熱田神宮まで来ました。
丹下砦へ
海岸近くを通れば近いのだが、潮が満ちていて、馬で通ることができなかった。そこで熱田より北の方の道を難儀をしながら行軍し、まず丹下砦に行った。そこから善照寺砦、すなわち佐久間大学が守っている砦に行き、兵を集めた。敵軍の今川義元軍は4万5千の兵で桶狭間にて休憩をしていた。
天文21年5月19日午の刻(お昼頃)戌亥(北西)に向けて兵を揃え、鷲津、丸根の砦を攻め落としたので、機嫌をよくして謡を三番謡っていた。家康は、赤武者となって先駆けをさせられ、大高城に兵糧を入れ、さらに鷲津,丸根砦にて奮戦し、辛労なされたので、人馬の休息のため大高城にもどられた。
佐々隼人正、千秋四郎討死
信長が善照寺砦に来たのを見た佐々隼人正と千秋四郎は、300人ぐらいの兵で義元の軍に向かっていったが、千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、約50騎が討ち死にをしてしまった。これを聞いて、義元は、ますます機嫌をよくした。

<注解>
佐々隼人正 別名 佐々 政次。織田信秀に使えていた。小豆坂七本槍の一人である。
千秋四郎 別名 千秋季忠。熱田神宮の大宮司職。羽豆崎城城主。信長に仕えた。



丹下砦跡 光明寺というお寺の裏手の高台です。おそらく、どなたかの私有地で史跡を示す看板等はありませんでした。右側は墓地になっています。


丹下砦跡から南方を望んだ風景です。やはり一望の下に景色が広がっていました。おそらく当時は鳴海城も見えたことでしょう。