愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

安城市歴史博物館 安城市

2013年10月05日 22時12分30秒 | 安城市
 安城市歴史博物館に行きました。

安城市歴史博物館正面

安祥文化のさとまつり
 ちょうど、お祭りをやっていて、たくさんの人でにぎわっていました。

「安祥文化のさとまつり」の案内板が博物館に掲示してありました。


鎧兜を着た人もいました。


太鼓のイベントもやっていました。

 館内への入場料は、いつもは200円なのですが、今日(10月5日)はお祭りということで160円と安くなっていました。

本證寺の聖徳太子絵伝を動画で説明
 常設展は、安城市の歴史を通史的に古代から順を追って説明していました。記憶にあるものを少し紹介します。(館内は撮影禁止でしたので)
(古代)これは名古屋市大曲輪遺跡で発見されたものですが、人に抱かれた犬の骨があったそうです。それで、古代より犬は、人間が狩りをするときの大事なパートナーであったと説明していました。
(中世?)本證寺の聖徳太子絵伝 動画で説明していました。説明された内容は、聖徳太子の伝説でしたが、気になったこと
①幼少の頃の太子の顔の目鼻が消されている絵が多いこと
②寺を作った大工が鉄製の道具を持っていたこと
③やはり太子の服装が奈良時代以降のものに思えたこと。

自由研究に歴史調べ
 博物館のお隣に埋蔵文化財センターがありました。センターのギャラリーみたいなところで子どもの作品の展示がありました。それは夏休みの自由研究で歴史を扱ったものです。とてもたくさんあったので、安城市の子どもには歴史好きが多いのかなと思いました。なかなかたいしたものでした。
 三河一向一揆をとりあげた中3の子の発表が金賞でした。確かによく調べてありました。特にお寺に聞き取り調査に行き、坊さんの話を聞いたことは素晴らしいと思いました。資料として残っているのは、ほとんどが家康(武士)寄りのものですから、それだけだと武士寄りの見方になってしまうからです。もちろんその点は、作品の中で触れていましたが。
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長沢城 豊川市

2013年10月05日 06時49分50秒 | 豊川市

長沢城址とされる長沢小学校

 9月28日に長沢城を訪れました。午後2時ごろでしたが、ちょうど運動会をやっていて終了した直後のようでした。多くの人たちが門から出てきていましたので、時間を置いてまた来ることにしました。午後3時半頃に来たときは、人の姿はなくなっていました。

一里塚発見
 長沢小学校に東の方、音羽蒲郡インターのあたりから歩いていくと南の方に音羽川という川が流れていました。その川にかかる橋の袂に一里塚を発見しました。一里塚のあった道は、今は県道374号線ですが、昔の街道であったと思われます。

一里塚跡

意外と大きい長沢城
 長沢小学校のまわりを歩いていると、グランドの南側に案内看板がありました。そこに長沢城の古図がありました。けっこう大きな城であったことが分かりました。また、城の中心は国道一号線の北側にある団地であることも分かりました。

長沢小学校にあった案内板


案内板の古地図

 いざ、戦争があったときには、南側の山「御城山」に登り戦ったようです。

南側の御城山

分断された長沢城址
 また長沢城は、国道一号線によって城跡が分断されているようです。国道一号線から長沢城址を見ると、南北に分かれていることが分かります。

南側の様子(中央は国道一号線)


北側の様子(右側は国道一号線)

 城跡が新しい道で寸断されていたのは、名古屋市緑区の鳴海城がそうでした。

 北側の団地の方に行ってみました。小高い丘になっていました。民家の中に長沢城址の石碑がありました。


東の守り長沢城
 長沢城は、「東三河には長沢とこ井より東ハ駿河方也」と「松平記」にあるように、松平氏にとって東の守りとなっていました。ここに、松平信光の11男親則を始祖とする長沢松平家を置きました。

<系図>
松平信光-(始祖)親則-親益-親清-勝宗-一忠-親広-政忠-康忠-康直-・・・・

 三河一向一揆のときは、8代目康忠のあたりです。
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