愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

田上山城 滋賀県長浜市

2013年10月27日 13時10分10秒 | 滋賀県
 10月20日、「若越城の会」主催の見学会に行きました。目的地は、滋賀県長浜市の田上山城です。

田上山城の位置

田上山城とは
 田上山城は、豊臣秀吉と柴田勝家の有名な賤ヶ岳合戦に備えて、秀吉側が築いた砦です。合戦のときには、豊臣秀吉の弟、秀長が1万5千人の兵をここに集めたそうです。


縄張り図

 この図は、当日見学会で配布されたものに、以下写真を取った場所を赤い字で示したものです。
実際は図に示していない西郭も見学しました。ただ、天候が悪く、写真がうまく撮れていなかったので、割愛させていただきます。


田上山城遠景
 これは、JR木ノ本駅から写したものです。

登城口

田上山城登城口
 田上山のふもとの寺に登城口がありました。

のろし台

 途中に、その日に行われる予定だった「のろし」の台がありました。その日は雨天のため中止になったそうです。

神社の跡
 また城址にいく途中に、神社の跡もありました。上宮跡(かんのみやあと)と意冨布良神社跡(おほふらじんじゃあと)です。




南堀切

南堀切
 南堀切です。いつも思いますが、どうしてこれが人口のものと分かったのだろうということです。昔の資料で分かるのでしょうか。私には、ただの山肌にしか見えないのですが、「堀切」という構造物になるようです。専門家というのは本当に素晴らしいです。私も見分けがつくように勉強しないといけないと思いました。

南郭
 しばらくいくと、「南郭」につきました。周りが土塁で囲まれており、ここに何か建物があったということが感じられました。

南郭の土塁跡

土橋跡

土橋跡
 これは、はっきり分かりました。確かに橋でした。主郭と北郭をつなぐものです。

北郭

北郭
 周りを土塁が囲っていることが分かります。

ふもとの神社

 ふもとの意富布良神社。先に見た上の神社が下りてきたのでしょうか。

 雨の中、最初は登城はできないのではという感じでしたが、集まられた皆さんの思いが強く、せっかく来たのだから登りましょうということになり、登りました。「典型的なお城」と会の方がおっしゃっていましたが、土塁や堀切などが言われてみれば分かりやすく、とても勉強になりました。

本宗寺にたてこもる一揆側の武将 岡崎市

2013年10月27日 12時59分15秒 | 岡崎市
 「松平記」は次に、土呂本宗寺に立て篭もっていた武将の名前を挙げています。赤色の武将は、桶狭間の戦いのとき家康について丸根城を攻めていた武将です。家康の家臣団が分かれて戦ったことが分かります。

一 また土呂本宗寺の寺内に立てこもる人々は、大橋伝十郎、石川半蔵、佐橋甚兵衛(吉忠)、同甚五郎(吉実)、大見藤六石川善五佐衛門同源左衛門(一勝)、佐藤乱之助(吉久)大橋左馬助江原孫三郎(利金)、本多甚七、石川十郎左衛門(知綱)、同新九郎(正綱)、同新七(親綱)、同太郎八郎、同右衛門八、同又十郎、佐野与八(正吉)、江原又助、内藤弥十、山本才蔵松平半助、小野弥平、村井源四郎、山本小次郎、活計五助(月海左五助)、黒柳次郎兵衛、成瀬新蔵、岩城半七、三浦平三郎、浅美主水、阿佐美金七郎、加藤五郎右衛門、平井甚五郎、黒柳彦助<1>、これらをはじめ70余騎立てこもり、家康に敵対していた。


<1> 土呂本宗寺に立てこもっていた人々。エピソードが見つかった人だけコメントをする。

○佐橋甚五郎 森鴎外に「佐橋甚五郎」という名の小説がある。そこでは、佐橋甚五郎は松平信康の小姓として登場し、同じ小姓の蜂谷を約束を守らぬとして殺害、また家康の命で甘利四郎三郎を刺殺し行方をくらました。そして慶長12年朝鮮使節として現れている。

○大見藤六 「東照宮御実紀付録」に記事が載せられている。永禄6年正月大見藤六は、徳川方にあり翌日の戦いの作戦を聞いていた。そしてそのまま一揆方に寝返った。家康は、臣下に藤六を討て、これは大きな忠義だと檄を飛ばした。戦いの当日水野太郎作正重が大見藤六を討ち、家康に大変誉められたという逸話が記されている。

○石川善五左衛門 桶狭間の戦いのとき、丸根城を攻めた家康の遊兵(奇襲攻撃軍)として参戦している。

○江原孫三郎 江原利全。家康が人質として今川に行ったときに近侍の家臣として同行したらしい。

○石川新七 上記大見藤六で載せた「東照宮御実紀付録」に藤六とともに家康方を攻めた武将として記録されている。新七は水野忠重に討たれている。