古の歌人が通った深坂古道
峠を越えていくと、笠朝臣金村(かさのあそんかなむら)という人の歌の碑がありました。
笠朝臣金村は、元正朝末から聖武朝初期にかけて活躍した歌人で、官人でもあったようです。天皇に同行して地方に出かけたことが多かったようです。
この歌は笠金村が越前の国に出かけたときに歌ったもので、万葉集に納められているそうです。
2首あって、1首目は
丈夫の弓末振り起こし射つる矢をのち見む人は語り継ぐがね
意味
勇者たるものは、自分の弓の弓末をしっかりと振り起こして射よ。射た矢を後に見る人があれば、それを語り草に言い伝える材料とするだろうから。
昔は旅の幸運を祈って、矢を射た事があったようです。「がね」は願望を表すそうです。名古屋弁でもあったような気がします。「~だがね」は、「~だね」という意味で使うので、ちょっと違いました。
越前は行きたくない?
2首目は
塩津山打ち越え行けば我が乗れる馬ぞつまづく家恋ふらしも
意味
塩津山を越えて行くと、私の乗っている馬がつまづいた。家人が私を慕っているらしい。
越前に行こうとすると、馬がつまづいたというのです。馬でさえ行きたくないというのです。ひどい話ですが、昔は越前に行くというのは、大変なことだったんだということが分かります。
さすが紫式部
しばらくいくと有名な紫式部の歌がありました。
知りぬらむ ゆききにならす塩津山 世にふる道はからきものぞと
人足たちが「やっぱり塩津山は難儀だなあ」と言い合っているのを聞いた紫式部が自分は輿に乗っているにもかかわらず、
「これで分かったでしょう。人生というものは、この坂のようにつらいものなんだよ。」と歌ったといいます。
さすが貴族の娘、当時27歳だったそうですが、自分は歩きもしないのに、人生訓をたれる辺り貴族の娘でなければできないことだと思いました。これを聞いた人足たちは「この野郎(小娘)、いつか輿から蹴落としてやる」と思ったかもしれません。
深坂古道 おしまい
峠を越えていくと、笠朝臣金村(かさのあそんかなむら)という人の歌の碑がありました。
笠朝臣金村は、元正朝末から聖武朝初期にかけて活躍した歌人で、官人でもあったようです。天皇に同行して地方に出かけたことが多かったようです。
この歌は笠金村が越前の国に出かけたときに歌ったもので、万葉集に納められているそうです。
2首あって、1首目は
丈夫の弓末振り起こし射つる矢をのち見む人は語り継ぐがね
意味
勇者たるものは、自分の弓の弓末をしっかりと振り起こして射よ。射た矢を後に見る人があれば、それを語り草に言い伝える材料とするだろうから。
昔は旅の幸運を祈って、矢を射た事があったようです。「がね」は願望を表すそうです。名古屋弁でもあったような気がします。「~だがね」は、「~だね」という意味で使うので、ちょっと違いました。
越前は行きたくない?
2首目は
塩津山打ち越え行けば我が乗れる馬ぞつまづく家恋ふらしも
意味
塩津山を越えて行くと、私の乗っている馬がつまづいた。家人が私を慕っているらしい。
越前に行こうとすると、馬がつまづいたというのです。馬でさえ行きたくないというのです。ひどい話ですが、昔は越前に行くというのは、大変なことだったんだということが分かります。
さすが紫式部
しばらくいくと有名な紫式部の歌がありました。
知りぬらむ ゆききにならす塩津山 世にふる道はからきものぞと
人足たちが「やっぱり塩津山は難儀だなあ」と言い合っているのを聞いた紫式部が自分は輿に乗っているにもかかわらず、
「これで分かったでしょう。人生というものは、この坂のようにつらいものなんだよ。」と歌ったといいます。
さすが貴族の娘、当時27歳だったそうですが、自分は歩きもしないのに、人生訓をたれる辺り貴族の娘でなければできないことだと思いました。これを聞いた人足たちは「この野郎(小娘)、いつか輿から蹴落としてやる」と思ったかもしれません。
深坂古道 おしまい