愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

関ヶ原古戦場(3) 岐阜県

2017年04月24日 08時11分43秒 | 岐阜県
岡山烽火場から石田三成陣所跡へ
岡山烽火場から関ヶ原を一望した後は笹尾山の石田三成陣所跡へ向かいました。途中の道は自然豊かな道で、まだ桜も咲いていました。

岡山烽火場から笹尾山(石田三成陣所跡)へ

決戦地
笹尾山へ行く途中に「決戦地」という石碑がありました。

決戦地石碑

案内掲示板によれば、西軍が総崩れした後「ここ決戦地一帯は、最後に残った石田隊や島津隊に押し寄せる東軍諸隊で埋めつくされていたと考えられる。」とありました。

笹尾山交流館
この決戦地を過ぎて北の方へ行きますと、笹尾山交流館がありました。交流館ですから、市民の集会所や図書などが置いてあると思いきや、観光地になっていました。玄関の前に柵が造られていて、中に入ると武将隊の服装に着替えて記念撮影ができたりするコーナーもありました。土日はそういう活動をして、平日は交流館の働きをしているのかと思いました。

笹尾山交流館

この交流館の素晴らしいところは、「行事予定」の黒板でした。

笹尾山交流館の「行事予定」

よく見ると、4月3日は曜日が「1557」となっていて、予定欄は「毛利元就、周防の大内義長を討つ。周防二国を手に入れる」とあります。おそらく戦国時代の出来事を月毎に記載しているものと思われます。よく調べたなあと感心しましたし、こういうことを行事予定に書いておくことがとても面白いと思いました。

島左近陣所跡
そして交流館から東へ歩きますと「馬防柵」があり、島左近の陣所跡がありました。

島左近陣所跡

ここは、笹尾山の麓ですが、上に石田三成陣所跡がある関係でしょうか、観光地として気合が入っていると感じました。馬防柵の他にモニュメントみたいなものも建てられていました。島左近という武将も関ヶ原古戦場に来て初めて知りました。
案内板によれば、

「三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる左近です。前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。黒田・田中らと奮戦後、家康本陣に迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討ち死にしたともいいます。鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は諸書に様々な姿で描かれています。」

大変勇猛で有能な武将だったようです。しかし関ヶ原で討ち死にしてしまいました。