愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(30) 松平記

2022年08月07日 12時35分48秒 | 松平記

松平記p30

翻刻
(弘治二年九月十三日本多豊)
後大将にて藤波なわてより被攻、義昭の家老富永半五郎
大将にて終日の合戦、岡崎衆大久保太郎八郎、鳥居半六郎
討死仕、東城の大将富永廿五歳にて討死也、其後不叶して
義昭も降参有是
一 永禄元年春三河国寺部城主鈴木日向守、義昭と一味致し
未降参不申候間、元康初陣に御発向被成、比類なき高名被
成、城外放火被成、本城計に被成候間、今川殿大に感し、御太
刀を被下、山中三百貫の知行返給る、譜代衆寄合今一戦し
て岡崎本領を申給ハらんとかせく
一 去年弘治三年の春より尾州の侍皆駿府へ心を寄、御手を

現代語
(弘治2年9月13日)本多豊後が大将として藤波畷より攻められた、吉良義昭も家老冨永半五郎を大将として終日の合戦となった。岡崎衆は、大久保太郎八郎、鳥居半六郎が討死をした。東条側の大将冨永も25歳にして討死をした。そののち、吉良義昭は叶わぬと降参した。
一 永禄元年春三河の国寺部城主鈴木日向守が吉良義昭と一味し、未だ降参しないので、松平元康(徳川家康)は初陣として出陣なされ、比類なき手柄を立てた。城内外を放火し、裸城としたので、今川義元は大いに喜び、太刀を下賜し、山中300貫の知行を元康に返した。譜代衆は、寄り合って「今一戦し、岡崎本領を取り返そう」と意気込んだ。
一 昨年弘治3年の春より尾州の侍、皆駿府へ心を寄せ、駿府への鉾先を(引いていたところ、)

コメント
藤波畷の戦いも通説では、永禄4年のこととなっています。(ウィキペディア)すなわち、桶狭間の戦い以後のことになっています。なので、松平元康と吉良義昭(反松平)の戦いとして位置づけられています。しかし、ここでは弘治2年のこととし、先の善明堤の戦いと同様に今川対織田の戦いとして描かれています。ここで討死した東城側の大将冨永は優れた武将で「冨永が討死したならば、東条城の落城は近い」と東条側でささやかれたと、「三河物語」に掲載されています。
寺部城の戦いは、永禄元年では通説と一致しています。鈴木日向が織田信長に与したために今川勢(松平重吉、元康ら)と戦ったことになっていますが、ここでは鈴木日向は吉良氏と組んでいたことになっています。(吉良義昭は織田と組んでいたので、間接的には織田方ではありますが)この寺部城の戦いの結果、元康は、山中の知行を取り戻したとあります。岡崎本領はの返還は、まだだったようですが、戦いへの参加、知行の返還と松平元康の今川家内での台頭が窺えます。
豊明市史に永禄2年の「松平元康定書」が掲載されています。ここには元康家臣団への指示、命令が記載されていますので、永禄2年には今川家臣団の中で一定の勢力を持つことができていたと思われます。今川義元は、自身の家臣団の有力な一角として松平元康を考えていたのかも知れません。

難語

最後の行です。
解決しました。「春」ありがとうございました(2022/8/7)