松平記p32
翻刻
けれども、いかにしてか聞えけん、信長是を聞付、弟の武蔵
守をよび、生害し給ふ、此事ハ人知べきにあらす、新之亟が
信長へ返り忠と沙汰有しかば、義元笠寺の戸部新之亟を
成敗有しと聞えし
一 永禄元年三月尾州科野城に駿河より松平勘四郎大将に
て三百にて籠る、又笠寺に駿河衆葛山備中守、三浦左馬助
飯尾豊前、浅井小四郎四百余人にて籠る、然処に尾州衆科
野の城に付城を拵日々夜々のせり合也、或時松平勘四郎
城より時分を見て夜討に寄、尾州衆付城の大将竹村孫七、
礒田重平、戸崎平九郎、滝山侍三四人初めよき者五十余
(人討取)
現代語
(どうして人が知ることができようかと思うので)あったが、なぜか人に知られてしまった。信長はこれを聞きつけ、弟の武蔵守を呼び、殺害してしまった。このことは、人に知れず、笠寺戸部新之亟が信長に返忠、と流布した。そこで、今川義元は笠寺戸部新之亟を成敗したとのことである。
一 永禄元年3月尾張科野城に、駿河より松平勘四郎を大将に300人の兵が籠った。また、笠寺には駿河衆の葛山備中守、三浦左馬助、飯尾豊前、浅井小四郎の400人が籠った。そこで尾張勢は、科野城に付城を拵え、日夜せり合いをした。或時、松平勘四郎は頃合いを見て、城から夜討ちに出て、尾張衆付城の大将竹村孫七、礒田重平、戸崎平九郎、滝山伝三,四人をはじめ、強い者たちを50余名(討ち取った。)
コメント
結局、信長弟武蔵守も戸部新之亟もそれぞれ信長、義元に殺害され、戦国の世の「殺し殺され」の実相が描かれています。「ゴッドファーザー」や「仁義なき戦い」の原風景です。
次の話は、科野(品野)城の戦いです。松平勘四郎は、松平信一です。安城松平から分かれ、藤井に分家した松平家の初代になります。
松平家関係系図
笠寺は以前戸部がいましたが、永禄元年は、ここにいる武将たちが籠められました。葛山備中守は、今川の家臣で駿河の東に所領があるようです。三浦左馬助は、あの「鎌倉殿の13人」に登場する三浦義村の末裔のようです。(ウィキペディア)飯尾豊前とは、織田方の鷲津砦に織田秀敏とともに籠った飯尾近江守とは偶然の同姓で関係はないようです。浅井小四郎は、桶狭間の戦いの時は沓掛城を守っていたようです。
この4人と岡部五郎を加えた5人が笠寺に籠ったという記事は「信長公記」にもみられます。但し、天文22年(1553)「三の山赤塚合戦」の記事です。(中川太古・現代語訳「信長公記」では天文21年1552と修正されています。)ずいぶん前に笠寺は葛山以下の武士たちが守っていることになっています。
松平勘四郎が付城(山崎城)の竹村孫七らに夜襲をかけ、大きな損害を与えたようです。
松平記による年表
天文18年(1549) 松平広忠死亡。病死。
弘治元年(1555) 蟹江城の戦い 蟹江城(織田)に松平勢が攻め込む。
弘治2年(1556)正月 松平元信、瀬名姫と祝言
同年 4月 吉良義昭、織田につく。
善明堤の戦い 松平大炊助・主殿助(今川)×吉良義昭(織田
同年 9月 藤波畷の戦い 本多豊後(今川)×吉良義昭・冨永半五郎
弘治3年(1557) 織田武蔵守謀反生害される、戸部新之亟成敗される
永禄元年(1558)春 科野城の戦い 松平勘四郎(今川)×織田信長・竹村孫七
松平元康初陣
永禄3年(1560)5月 桶狭間の戦い 今川義元×織田信長
ということで、松平廣忠が死亡してから桶狭間の戦いまでの年表をまとめてみました。他の史料との関係で、異なる点が多いようです。今後の課題です。