愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(31) 松平記

2022年08月08日 18時36分40秒 | 松平記

松平記p31

翻刻
引申候処知多郡ハ過半駿河へ降参す、依て中村城、鳴海城、
科野城皆駿河へ籠る、又信長の弟織田武蔵守も義元と内
通し兄の信長をたおし、其跡を知行せんとの儀也、此事、駿
河へ内通の為に、其頃武蔵守小姓笠寺の戸部新之丞と申
者を武蔵守ひそかに呼寄、七枚の起請をかかせ内證申渡
し、扨二三日過て右の笠寺を成敗せんとて刀をぬき追給
ふ、笠寺兼て約束したる事なれば早々逃走り行、武蔵守は
だしに成、追かけられしが、終に追失ひ給ふ、戸部ハはうはう
逃げ或寺へ逃入、二三日過て駿河へ下り、此よしを義元に
申上る、か様にはかりし事なれば人いかでか知るべき事な

現代文
(尾張の侍が駿府に心を寄せ、駿府への鉾先を)引いていたところ、知多郡は半数以上が駿河に降参した。これによって、中村城、鳴海城、科野城は皆駿河へ籠った。また信長の弟織田武蔵守も義元と内通し、兄の信長を倒し、その後の領地を知行しようとしていた。このことを駿河に密かに知らせようと、その頃小姓の笠寺戸部新之亟という者を密かに呼び寄せ、七枚の起請文を書かせ、密かに渡した。さて2,3日過ぎてその笠寺を成敗しようと織田武蔵守が刀を抜き追いかけた。笠寺戸部はかねて約束したことであったので、早々に逃げ走り、織田武蔵守は裸足になって追いかけたが、ついに見失ってしまった。笠寺戸部は、ほうほうの体で逃げ、ある寺に逃げ込んだ。2,3日過ぎて駿河に下り、このことを義元に申し上げた。このように(ひそかに)諮ったことであったので、どうして人が知ることができようかと思うのであったが、(なぜか人に知られてしまった)

コメント
織田信秀の死後、尾張地方に今川義元の勢力が着実に延びてきていることが窺えます。特に知多半島は過半が今川義元に降参したとあります。中村城(南区桜本町)は、織田信秀没後に今川に寝返った山口教継の城です。鳴海城(緑区)は、その子山口教吉の城です。科野城(品野城?瀬戸市)は織田になったり、松平になったり変遷がありますがこの頃は松平が治めていたようです。
織田武蔵守が探してみましたが、見つかりません。信長の弟で武蔵守と名乗っていた武将は誰でしょうか。笠寺の戸部新之亟(新左衛門?)と謀をして、何とか自分の気持ちを今川義元に伝えようとしていたことが記録されています。
山口父子の話と似ていることから、特に戸部新之亟(新左衛門)を山口教継と同一人物ではないかという説もあるそうです(ウィキペディア)。山口父子の話(「信長公記」)や戸部新左衛門の偽手紙の話(「甫庵太閤記」)がこの「松平記」には出てきませんので、もしかしたら、織田武蔵守は山口父子のどちらかと同一人物かも知れないと思いました。
どちらにしても権謀術策、騙し騙されの戦国時代ならではの話だと思いました。