「参河国二葉松」幡豆郡を読み進めていきますと、「永良村(ながらむら)古屋敷」とあります。コメントは「加藤三之亟息左馬助嘉明出生加藤主殿同心也」とあります。
加藤嘉明の父、三之亟教明
加藤嘉明の父は三之亟(教明)と言います。ウィキペディアによれば、徳川家康の家臣でしたが、永禄6年(1563)の三河一向一揆で一揆側についたため子の嘉明ともども流浪の身となりました。
秀吉に拾われる 松山城を築城
しかし、近江の国で豊臣秀吉に拾われ、家臣になったようです。(はじめは豊臣秀勝の近習だったようです)以下秀吉に従軍し、たくさんの手柄を立てます。特に賤ヶ岳の戦いでは、「賤ヶ岳七本槍」の一人として有名になります。その後は秀吉に従軍して大きな手柄を立て、伊予の国の大名になります。そして、あの松山城を築城します。
加藤嘉明像(松山城にて)2015年11月撮影
松山城(2015年8月撮影)中央は松山城マスコットキャラクターの「よしあきくん」
その加藤嘉明が三河国で生まれたということです。場所は現在の西尾市上永良町です。そして、代表して宮東の神明社に「生誕の地」の石碑が建てられています。
加藤嘉明生誕の地石碑
国の天然記念物 大きな椎の木
この神社には他に面白いことが二つありました。一つは、大きな椎の木があるということです。案内板によりますと、樹高8m、根回り20m、樹齢1000年で県下最大の古木だそうです。昭和7年に国の天然記念物となっています。
大椎の木
広田川に向いている神社
もう一つは、常夜灯が川の近くにあるということです。
神明社、常夜灯、広田川の位置関係(グーグル地図より作成)
神明社の建物と2つの常夜灯の真ん中を結ぶと川に行きあたってしまいます。だいたい常夜灯は神社の入口近くか本殿の近くにあります。つまり、2つの常夜灯に照らされて、本殿に進み、お参りをするというわけです。この神社の常夜灯が川の近くにあるということは、川の方から本殿に進むということになります。鳥居は、常夜灯や本殿の向きとは全然違った道路沿いにあります。
本殿が南東の方を向いているので、それに合わせて常夜灯を置いたように思います。では、なぜ神明社が南東の方、つまり広田川の方を向いているのでしょう?なにか向きに理由があるのかも知れません。とても不思議でした。
加藤嘉明の父、三之亟教明
加藤嘉明の父は三之亟(教明)と言います。ウィキペディアによれば、徳川家康の家臣でしたが、永禄6年(1563)の三河一向一揆で一揆側についたため子の嘉明ともども流浪の身となりました。
秀吉に拾われる 松山城を築城
しかし、近江の国で豊臣秀吉に拾われ、家臣になったようです。(はじめは豊臣秀勝の近習だったようです)以下秀吉に従軍し、たくさんの手柄を立てます。特に賤ヶ岳の戦いでは、「賤ヶ岳七本槍」の一人として有名になります。その後は秀吉に従軍して大きな手柄を立て、伊予の国の大名になります。そして、あの松山城を築城します。
加藤嘉明像(松山城にて)2015年11月撮影
松山城(2015年8月撮影)中央は松山城マスコットキャラクターの「よしあきくん」
その加藤嘉明が三河国で生まれたということです。場所は現在の西尾市上永良町です。そして、代表して宮東の神明社に「生誕の地」の石碑が建てられています。
加藤嘉明生誕の地石碑
国の天然記念物 大きな椎の木
この神社には他に面白いことが二つありました。一つは、大きな椎の木があるということです。案内板によりますと、樹高8m、根回り20m、樹齢1000年で県下最大の古木だそうです。昭和7年に国の天然記念物となっています。
大椎の木
広田川に向いている神社
もう一つは、常夜灯が川の近くにあるということです。
神明社、常夜灯、広田川の位置関係(グーグル地図より作成)
神明社の建物と2つの常夜灯の真ん中を結ぶと川に行きあたってしまいます。だいたい常夜灯は神社の入口近くか本殿の近くにあります。つまり、2つの常夜灯に照らされて、本殿に進み、お参りをするというわけです。この神社の常夜灯が川の近くにあるということは、川の方から本殿に進むということになります。鳥居は、常夜灯や本殿の向きとは全然違った道路沿いにあります。
本殿が南東の方を向いているので、それに合わせて常夜灯を置いたように思います。では、なぜ神明社が南東の方、つまり広田川の方を向いているのでしょう?なにか向きに理由があるのかも知れません。とても不思議でした。
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