幡豆の小笠原家
三河の南に一色町、吉良町、幡豆町という3つの町がありました。今は西尾市に合併してしまいましたが、それぞれ歴史のある町でした。その中の幡豆町に戦国時代、小笠原氏が住んでいました。幡豆小笠原氏というそうです。幡豆小笠原氏は2系統ありました。
幡豆小笠原氏
小笠原安芸守(寺部城) 定正-広政-重広-信元-信重・・・
小笠原摂津守(欠城) 安元-安次-広勝・・・
この小笠原氏は、はじめ今川氏についていましたが、桶狭間の戦い(永禄3年1560)の後、徳川氏につくようになりました。永禄6年(1563)の三河一向一揆では家康側に付いて戦います。永禄7年から11年(1564~68)にかけては、今川氏に対抗するために遠江との国境の船形山城を守ります。元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いでは小笠原安元の弟と孫の安広が戦死し、三男の安勝も歩行困難になる重傷を負うなど小笠原氏は大きな被害を被ります。その後小笠原家は家康に従い、子孫は関東で旗本になっています。
欠城
さて、寺部城は城跡としてしっかり残っていて、見学にも行きましたが、「欠城」にはまだ行っていません。そこで、行ってみることにしました。なお、欠城は「参河国二葉松」では「寺部掛村古城」として記載されていました。最初は違う城かと思いましたが、「かけ」が同じ発音なので同じ城だと分かりました。しかし、現在は「中野郷」「市場」「貝吹」などの地名になっていて「掛村」に関係する地名は残っていないようです。
参考 ネット「みかわこまち」より「小笠原広重と小笠原安元」
本ブログ「幡豆寺部城(1) 西尾市」「船形山城跡 豊橋市」
中之郷古墳
現地には「穴観音」と呼ばれるお社がありました。この観音のあたり一帯が欠城のあった場所だそうです。
穴観音
穴観音とは、この墳丘が「中之郷古墳」と言われる古墳であり、その石室の中に観音様をお祀りしたので、穴の中の観音様、穴観音と呼ばれるようになったのだと思います。
中之郷古墳の説明版
説明板によれば、被葬者は、「海上交通を掌握し、近畿や九州地方とも交流を持った人物」と考えられるそうです。ネットでは「奈良朝時代の豪士三宅民部足信盛を安置奉った」と古人の言い伝えがあるとの情報もありました。
三河の南に一色町、吉良町、幡豆町という3つの町がありました。今は西尾市に合併してしまいましたが、それぞれ歴史のある町でした。その中の幡豆町に戦国時代、小笠原氏が住んでいました。幡豆小笠原氏というそうです。幡豆小笠原氏は2系統ありました。
幡豆小笠原氏
小笠原安芸守(寺部城) 定正-広政-重広-信元-信重・・・
小笠原摂津守(欠城) 安元-安次-広勝・・・
この小笠原氏は、はじめ今川氏についていましたが、桶狭間の戦い(永禄3年1560)の後、徳川氏につくようになりました。永禄6年(1563)の三河一向一揆では家康側に付いて戦います。永禄7年から11年(1564~68)にかけては、今川氏に対抗するために遠江との国境の船形山城を守ります。元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いでは小笠原安元の弟と孫の安広が戦死し、三男の安勝も歩行困難になる重傷を負うなど小笠原氏は大きな被害を被ります。その後小笠原家は家康に従い、子孫は関東で旗本になっています。
欠城
さて、寺部城は城跡としてしっかり残っていて、見学にも行きましたが、「欠城」にはまだ行っていません。そこで、行ってみることにしました。なお、欠城は「参河国二葉松」では「寺部掛村古城」として記載されていました。最初は違う城かと思いましたが、「かけ」が同じ発音なので同じ城だと分かりました。しかし、現在は「中野郷」「市場」「貝吹」などの地名になっていて「掛村」に関係する地名は残っていないようです。
参考 ネット「みかわこまち」より「小笠原広重と小笠原安元」
本ブログ「幡豆寺部城(1) 西尾市」「船形山城跡 豊橋市」
中之郷古墳
現地には「穴観音」と呼ばれるお社がありました。この観音のあたり一帯が欠城のあった場所だそうです。
穴観音
穴観音とは、この墳丘が「中之郷古墳」と言われる古墳であり、その石室の中に観音様をお祀りしたので、穴の中の観音様、穴観音と呼ばれるようになったのだと思います。
中之郷古墳の説明版
説明板によれば、被葬者は、「海上交通を掌握し、近畿や九州地方とも交流を持った人物」と考えられるそうです。ネットでは「奈良朝時代の豪士三宅民部足信盛を安置奉った」と古人の言い伝えがあるとの情報もありました。
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