愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(54) 松平記

2023年12月25日 09時04分55秒 | 松平記

松平記p54

翻刻
本の間を押やふり合戦を初め、先手衆を追払、籠城の岡崎
衆本多百助を初皆突て出でて、合戦し利を得て引とる、一
万あまりの駿河衆三千の岡崎衆をくひとむる事難叶ハ、
家康無双の高名也
一 同五年九月廿五日、佐脇八幡の板垣弾正、同主水を責らる
る、板倉むこの主水突て出岡崎衆を追立る、岡崎衆敗軍し
て二手に成て引、石川新七、同新九、渡辺半蔵三人しんがり
いたし候處に、急に喰付候處に、半蔵一騎のり返し残たる
敵と鑓を合静に引のく處に、矢田作十郎痛手負、かたハはら
に伏たるを引おこしつれて退来る、敵あまた押来る間、御
(はたもとを以もり返し、合戦を被成)

現代語
(今川側の)旗本の間を押し破り、合戦をはじめ、先手の兵を追い払い、(一宮砦に)籠城している岡崎衆本多百助をはじめ皆突き出でて合戦し、味方有利のうちに城に引いた。一万余の駿河衆は3千の岡崎衆を食い止めることができなかった。このことは家康の素晴らしい手柄である。
一 同(永禄)5年9月25日、佐脇・八幡の板垣弾正、同(板垣)主水らを(家康が)攻められた。板垣の婿である主水突き出でて岡崎衆を追い立てた。岡崎衆は敗軍し、二手に分かれて引いた。石川新七、同(石川)新九、渡辺半蔵の3人がしんがりをしたところ、急に敵が食らいつき、半蔵が一騎で折り返して残る敵と槍で闘い引き退いた。矢田作十郎は痛手を負い、旁に伏していたのをおこして退却してきた。敵がたくさん押し寄せてきたので、(旗本を以て盛り返し、合戦をした。)

コメント
6月の合戦では「一宮の後詰」でみごと家康が勝利したようですが、9月にも合戦があり、この時は佐脇・八幡を守る板垣弾正、板垣主水らと戦ったようです。この戦いは、これまでの経過では守勢に立たされていたようで、「岡崎衆は敗軍」とあります。しんがりは石川新七、石川新九、渡辺半蔵の3人です。石川新七と石川新九は、後に、三河一向一揆で一揆方に味方し土呂に籠ったようです。そして、小豆坂で家康軍と戦い、新七の方は水野藤十郎に討ち取られたとの記述があります。(「松平記」による)渡辺半蔵は有名な槍の使い手です。豊田市の寺部城の城主で、後に名古屋徳川家の家老をつとめます。矢田作十郎は、桶狭間の戦いでも丸根砦攻めで名が出てきますが、三河一向一揆で一揆側につき、その中で討死したようです。


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