深坂古道へ
さっそく深坂古道に入りました。

深坂古道について説明を聞く城の会の人たち

案内板に上手にまとめてありました。
深坂古道とは、古代の近江、越前を結ぶ最短距離であること、
ここを歌人の笠金村、紫式部等が通ったこと、
平重盛がここに運河を作ろうとしたこと、
近世に入り新道ができて、衰退してきたこと
が書かれていました。
深坂問屋跡
しばらく行くと、右側に石垣がありました。「深坂問屋跡」だそうです。案内板によれば、越前敦賀から馬で峠を越えた荷物は、ここで別の業者に積みかえられるそうです。国がちがうので、取り扱う業者も変えられるのでしょうか。ここから、近江国の塩津まで運ばれるそうです。
石垣だけ見ていると、まるでお城のようにも見えます。

石垣の跡が残る問屋跡

深坂古道
堀止め地蔵
さらに登っていくと、「堀止め地蔵」がありました。どうして「堀止め地蔵」と呼ばれているかといえば、
むかし越前の国主であった平重盛が琵琶湖と日本海を結ぶために運河を計画し、このあたりを掘ったのだが、掘ろうとした職人が突然腹痛を起こし、どうしたのかとその地を掘り起こしたところ、大きな地蔵が出てきたそうです。それで、この運河の工事は中断され、この地蔵を「掘止め地蔵」と呼ぶそうです。道中の人が安全を祈願して塩をかけたので、「塩かけ地蔵」とも呼ばれるそうです。

「堀止め地蔵」を安置するお堂
さっそく深坂古道に入りました。

深坂古道について説明を聞く城の会の人たち

案内板に上手にまとめてありました。
深坂古道とは、古代の近江、越前を結ぶ最短距離であること、
ここを歌人の笠金村、紫式部等が通ったこと、
平重盛がここに運河を作ろうとしたこと、
近世に入り新道ができて、衰退してきたこと
が書かれていました。
深坂問屋跡
しばらく行くと、右側に石垣がありました。「深坂問屋跡」だそうです。案内板によれば、越前敦賀から馬で峠を越えた荷物は、ここで別の業者に積みかえられるそうです。国がちがうので、取り扱う業者も変えられるのでしょうか。ここから、近江国の塩津まで運ばれるそうです。
石垣だけ見ていると、まるでお城のようにも見えます。

石垣の跡が残る問屋跡

深坂古道
堀止め地蔵
さらに登っていくと、「堀止め地蔵」がありました。どうして「堀止め地蔵」と呼ばれているかといえば、
むかし越前の国主であった平重盛が琵琶湖と日本海を結ぶために運河を計画し、このあたりを掘ったのだが、掘ろうとした職人が突然腹痛を起こし、どうしたのかとその地を掘り起こしたところ、大きな地蔵が出てきたそうです。それで、この運河の工事は中断され、この地蔵を「掘止め地蔵」と呼ぶそうです。道中の人が安全を祈願して塩をかけたので、「塩かけ地蔵」とも呼ばれるそうです。

「堀止め地蔵」を安置するお堂
古代の越前と近江をつなぐ国境越えの山道。しかし、中世から戦国時代には戦いのための重要な拠点ともなり、峠には山城が築かれたようです。
当日の説明に立った人からは、はっきりした話は聞けなかったのですが、後日調べてみたら、ちゃんと福井県の遺跡地図に登録された、深坂峠城址群だったことが分かりました。
やはり、あのとき、峠の左右の山を登ってみてよかったと思っています。どちらも山城らしき遺構がチラホラ見え隠れしていましたね。
もう一度ちゃんと歩いてみないと全体像は見えてこないのですが、中程度の規模の山城のようです。
いつか、2回目にチャレンジしたいと思います。
コメントありがとうございます。
やはりそうでしたか。
深坂峠城址群という事は、一つや二つではなく,いくつかの砦があったということですね。何年かの歳月のうちに、建て直したりして重複しているのかもしれませんね。
すごい発見です。
登ってみてよかったです。