絶好の秋晴れ。久しぶりにドライブしました。目的地は「西高木家陣屋跡」。
西高木家陣屋とは
高木家とは美濃南部駒野・今尾周辺(現・海津市)に勢力を張った土豪でした。関ヶ原合戦の功により、石津郡時・多良郷に4300石を与えられ入部し、江戸時代を通じて同地を旗本として支配しました。西家2300石、北家・東家各1000石の3家からなり、「交代寄合(こうたいよりあい)美濃衆」として大名と同等の格式を許され、知行地に常時居住しながら江戸屋敷を有し、参勤交代を行いました。領地は美濃・伊勢・近江の3国が接する軍事・交通の要衝で、特に上方の非常事態に備えました。また、川通(かわどおり)御用の役儀を担い、ほぼ江戸時代を通じて木曽川三川の治水行政にあたる水行(みずゆき)奉行を努めました。
西高木家陣屋跡の図
太い破線が伊勢街道です。高木家は街道をまたぐように3家が位置しています。
上石津資料館
平日だったこともあり、他の観光客はゼロ、やったあと思って資料館に入ろうとしましたら、「休館日」。毎週火曜日は休館日でした。残念。
上石津資料館
この資料館の入口の脇に「多良中学校」の碑がありました。
多良中学校の碑
陣屋がなくなった後に中学校ができたんだと分かりました。それも今はないということです。
長屋門
資料館の右奥に長屋門がありました。この門は、嘉永5年(1852)建造の下屋敷御門を移築したものだそうです。資料館と長屋門から入った敷地が西高木家の屋敷があった場所のようです。そこから下の方に降りていきます。
高木陣屋跡の石垣
河岸段丘の壁に沿って造られている石垣
ここから下に降りていく道に沿って石垣がびっしりと造られていました。
坂道の石垣から埋門にかけての石垣
埋門は右と左で、微妙に違っていて、向かって右側がより傷んでいる感じがしました。孕みがあったり、雑草が食い込んでいる状態が目につきました。修復が急がれると思いました。
埋門
伊勢街道と日向松
西高木家を後にして、北高木家、東高木家を巡り、伊勢街道を少し北へ進みました。(高木家は伊勢街道を挟んで西家と東家があり、曲がった道の曲がり角に北家が位置しています。(前の地図参考)すると街道の東側に大きな松の木がありました。これは、高木家の紹介でも述べた「川通役儀」で、「宝暦治水」に関わった証拠として植えられた松だそうです。
日向松
以下説明版のコピーです。
「宝暦治水の日向松」
この松は江戸時代の宝暦年間に行われた御手伝普請(宝暦治水)を終えた薩摩藩士たちが、水奉行を務めていた高木家の陣屋に、薩摩から取り寄せて植えたと伝えられ、千本松原に植えられているものと同じ種類の「日向松」です。目通り幹周囲、約3.3m、樹高約30mあります。以前は松並木になっていましたが、今は一本のみ
残されているもので、当時を偲ぶことのできる貴重な松です。
大垣市上石津文化財保護協会
大垣市観光協会
なお、宝暦治水の記事がこのブログにもありますので、参考までにリンクを張っておきます。
治水神社 岐阜県海津市
またこの向かいには戦争の碑と共に「多良小学校」の石碑もあり、上の中学校と下の小学校で、この辺りが多良地域の文化の中心地だったのだろうなと思いました。(多良小学校は、現在いくつかの小学校を統合し、他の場所に移転しています)
多良小学校の碑
江戸時代から明治・大正・昭和にかけてこの地域がとても賑わっていたんだろうなあと推測されました。
西高木家陣屋とは
高木家とは美濃南部駒野・今尾周辺(現・海津市)に勢力を張った土豪でした。関ヶ原合戦の功により、石津郡時・多良郷に4300石を与えられ入部し、江戸時代を通じて同地を旗本として支配しました。西家2300石、北家・東家各1000石の3家からなり、「交代寄合(こうたいよりあい)美濃衆」として大名と同等の格式を許され、知行地に常時居住しながら江戸屋敷を有し、参勤交代を行いました。領地は美濃・伊勢・近江の3国が接する軍事・交通の要衝で、特に上方の非常事態に備えました。また、川通(かわどおり)御用の役儀を担い、ほぼ江戸時代を通じて木曽川三川の治水行政にあたる水行(みずゆき)奉行を努めました。
西高木家陣屋跡の図
太い破線が伊勢街道です。高木家は街道をまたぐように3家が位置しています。
上石津資料館
平日だったこともあり、他の観光客はゼロ、やったあと思って資料館に入ろうとしましたら、「休館日」。毎週火曜日は休館日でした。残念。
上石津資料館
この資料館の入口の脇に「多良中学校」の碑がありました。
多良中学校の碑
陣屋がなくなった後に中学校ができたんだと分かりました。それも今はないということです。
長屋門
資料館の右奥に長屋門がありました。この門は、嘉永5年(1852)建造の下屋敷御門を移築したものだそうです。資料館と長屋門から入った敷地が西高木家の屋敷があった場所のようです。そこから下の方に降りていきます。
高木陣屋跡の石垣
河岸段丘の壁に沿って造られている石垣
ここから下に降りていく道に沿って石垣がびっしりと造られていました。
坂道の石垣から埋門にかけての石垣
埋門は右と左で、微妙に違っていて、向かって右側がより傷んでいる感じがしました。孕みがあったり、雑草が食い込んでいる状態が目につきました。修復が急がれると思いました。
埋門
伊勢街道と日向松
西高木家を後にして、北高木家、東高木家を巡り、伊勢街道を少し北へ進みました。(高木家は伊勢街道を挟んで西家と東家があり、曲がった道の曲がり角に北家が位置しています。(前の地図参考)すると街道の東側に大きな松の木がありました。これは、高木家の紹介でも述べた「川通役儀」で、「宝暦治水」に関わった証拠として植えられた松だそうです。
日向松
以下説明版のコピーです。
「宝暦治水の日向松」
この松は江戸時代の宝暦年間に行われた御手伝普請(宝暦治水)を終えた薩摩藩士たちが、水奉行を務めていた高木家の陣屋に、薩摩から取り寄せて植えたと伝えられ、千本松原に植えられているものと同じ種類の「日向松」です。目通り幹周囲、約3.3m、樹高約30mあります。以前は松並木になっていましたが、今は一本のみ
残されているもので、当時を偲ぶことのできる貴重な松です。
大垣市上石津文化財保護協会
大垣市観光協会
なお、宝暦治水の記事がこのブログにもありますので、参考までにリンクを張っておきます。
治水神社 岐阜県海津市
またこの向かいには戦争の碑と共に「多良小学校」の石碑もあり、上の中学校と下の小学校で、この辺りが多良地域の文化の中心地だったのだろうなと思いました。(多良小学校は、現在いくつかの小学校を統合し、他の場所に移転しています)
多良小学校の碑
江戸時代から明治・大正・昭和にかけてこの地域がとても賑わっていたんだろうなあと推測されました。
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