愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

桶狭間の戦い 名古屋市緑区

2013年05月26日 19時40分55秒 | 名古屋市緑区
中島砦とは
ところで、中島砦は桶狭間の戦いに関係のある砦です。

桶狭間の戦いが始まる前の緑区のあたりは、今川氏の勢力と織田氏の勢力が錯綜していたようです。東のほうから迫っていた今川氏は、大高城、鳴海城を支配下にしていました。それに対して、織田氏は鳴海城を囲むように丹下砦、善照寺砦、中島砦を作りました。また、今川氏の大高城と鳴海城の連絡を絶つために鷲津砦、丸根砦を築きました。

赤いマークは信長の築いた砦です。青いマークは、今川義元支配化のお城です。

さて、信長が義元に勝った世紀の戦い、桶狭間の戦いについて、「信長公記 巻主 今川義元討死の事」には、以下のように書かれています。以下私なりの口語訳です。

天文21年(1552年)5月17日
今川義元が沓掛城に兵を動かした。5月18日夜になり、義元は大高城に兵糧を送った。このことから、5月19日の朝には潮の干満を考え、鷲津砦、丸根砦を攻めてくることは間違いないだろうという情報が信長の下に入ってきた。
5月18日夕方に、佐久間大学、織田玄蕃のほうより、信長に注進がなされた。しかし、その夜の話は戦の話ではなく、世間話ばかりであった。そして、長くなったから帰ってよいとの事だった。家老たちは、「運がないときは、知恵も浮かばない。」と、皆嘲笑して帰っていった。


この文面から大きな疑問が生じました。一つ、今川義元が沓掛城に兵を動かしたのは、上記「信長公記」では天文21年(1552年)としていますが、一般的には永禄3年(1560年)となっています。これはいったいどういうことか、不思議です。
さらに二つ目、潮の干満を考慮していることです。つまり海岸線が今よりもかなり内陸にあったことがうかがわれます。他の人の桶狭間の戦いについてのHPを見ると、海岸線が鳴海城近くまできている図を載せているのもあります。いったいどんなふうだったのか?

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2 コメント

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桶狭間の戦いはおもしろい! (城歩きマン)
2013-05-27 09:07:44
桶狭間の戦いは本当におもしろいですね。
『信長公記』の天文・・・の記事は、永禄3年の間違いですね。桑田忠親さんの校注本でははっきり注書きがあります。
原本自体で記憶違いなのか、写本段階で写し間違えるのか…。よくあることだそうです。
中島砦についてはよくわかりました。ありがとうございます。
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そういうことがあるんですね (midorishako)
2013-05-27 22:17:28
信長に仕えていた牛一でも、記憶違いで書き記すということがあるのですね。おもしろいです。でも、これは後世の写し間違いの方が確率が高い気がします。
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