県外の記事が続いていますので、息抜きで愛知県の記事を入れます。豊田市の七州(しちしゅう)城です。
豊田市に挙母(ころも)城が3つ?
豊田市には有名なお城が3つあるそうですが、どれも挙母(ころも)城と呼ばれているそうです。
1 豊田市金谷町にある挙母城(金谷城)・・・金谷城としましょう。
2 豊田市元城町にある挙母城(桜城)・・・桜城としましょう。
3 豊田市小坂町にある挙母城(七州城、桜城)・・・七州城としましょう。
3つの城には次のような関係がありました。
1 金谷城 (中條氏)
室町時代の武将、中條氏の居城です。中條氏は室町幕府の重臣を務めるなど由緒ある武将でした。しかし、次第に勢力が衰え戦国時代ごろには豊田市の辺りを支配するぐらいの武将になっていました。
そして、台頭する織田氏や今川氏によって滅ぼされてしまいました。
江戸時代になると、そこに1604年三宅氏が入りました。三宅氏は古くなったこの城を捨てて、あたらしく今の元城町付近に陣屋を構えました。これが桜城です。
2 桜城 (三宅氏、幕府領、本多氏)
三宅氏は、陣屋を中心に7ヶ町を形成し城下町を形作っていきました。1619年(元和5年)第2代藩主三宅康信は、伊勢亀山藩に領地替えになりましたが、1636年(寛永13年)第3代藩主康盛が再び城主となりました。しかし1664年(寛文4年)には、第4代藩主康勝が田原藩に領地替えとなり、三宅氏はもう戻ることはありませんでした。
幕府領時代
このあと、挙母の地は幕府領となりました。1664年(寛文4年)から、三河代官、鳥山氏が支配しました。鳥山氏は、伊保に代官所を作り、三宅氏の陣屋を廃止しました。倉をつくったり、陣屋跡を田地にしたり、道路を整備したり、養蚕、灌漑などを行ったそうです。
1681年(天和元年)本多忠利が入封しました。そして「衣」を「挙母」と表記するようにしたそうです。本多氏は、3代に渡り支配を継続しました。(忠利、忠次、忠央)
3 七州城 (内藤氏)
1749年(寛延2年)内藤政苗が桜城に入封。挙母城築城の計画がありましたが、一揆、洪水、政争等の理由で進まなかったそうです。1779年(安永8年)第2代内藤学文が挙母城移転を決意し、新しい城の場所を桜城より西の樹木台にしました。1785年(天明5年)に築城工事が終わりました。
内藤学文は、崇化館(藩校)を創設しています。1836年(天保7年)加茂一揆が起こりましたが、第5代藩主内藤政優が一揆を鎮圧しました。井伊一族の政文が第6代藩主です。1854年(安政元年)、挙母大地震があったそうです。1858年(安政5年)内藤文成が、第7代藩主に4歳でなったそうです。もうこの頃は幕末です。
七州城の礎石
初めて知りましたが、城の塀の礎石が見つかっているそうです。
礎石についての説明板
豊田市に挙母(ころも)城が3つ?
豊田市には有名なお城が3つあるそうですが、どれも挙母(ころも)城と呼ばれているそうです。
1 豊田市金谷町にある挙母城(金谷城)・・・金谷城としましょう。
2 豊田市元城町にある挙母城(桜城)・・・桜城としましょう。
3 豊田市小坂町にある挙母城(七州城、桜城)・・・七州城としましょう。
3つの城には次のような関係がありました。
1 金谷城 (中條氏)
室町時代の武将、中條氏の居城です。中條氏は室町幕府の重臣を務めるなど由緒ある武将でした。しかし、次第に勢力が衰え戦国時代ごろには豊田市の辺りを支配するぐらいの武将になっていました。
そして、台頭する織田氏や今川氏によって滅ぼされてしまいました。
江戸時代になると、そこに1604年三宅氏が入りました。三宅氏は古くなったこの城を捨てて、あたらしく今の元城町付近に陣屋を構えました。これが桜城です。
2 桜城 (三宅氏、幕府領、本多氏)
三宅氏は、陣屋を中心に7ヶ町を形成し城下町を形作っていきました。1619年(元和5年)第2代藩主三宅康信は、伊勢亀山藩に領地替えになりましたが、1636年(寛永13年)第3代藩主康盛が再び城主となりました。しかし1664年(寛文4年)には、第4代藩主康勝が田原藩に領地替えとなり、三宅氏はもう戻ることはありませんでした。
幕府領時代
このあと、挙母の地は幕府領となりました。1664年(寛文4年)から、三河代官、鳥山氏が支配しました。鳥山氏は、伊保に代官所を作り、三宅氏の陣屋を廃止しました。倉をつくったり、陣屋跡を田地にしたり、道路を整備したり、養蚕、灌漑などを行ったそうです。
1681年(天和元年)本多忠利が入封しました。そして「衣」を「挙母」と表記するようにしたそうです。本多氏は、3代に渡り支配を継続しました。(忠利、忠次、忠央)
3 七州城 (内藤氏)
1749年(寛延2年)内藤政苗が桜城に入封。挙母城築城の計画がありましたが、一揆、洪水、政争等の理由で進まなかったそうです。1779年(安永8年)第2代内藤学文が挙母城移転を決意し、新しい城の場所を桜城より西の樹木台にしました。1785年(天明5年)に築城工事が終わりました。
内藤学文は、崇化館(藩校)を創設しています。1836年(天保7年)加茂一揆が起こりましたが、第5代藩主内藤政優が一揆を鎮圧しました。井伊一族の政文が第6代藩主です。1854年(安政元年)、挙母大地震があったそうです。1858年(安政5年)内藤文成が、第7代藩主に4歳でなったそうです。もうこの頃は幕末です。
七州城の礎石
初めて知りましたが、城の塀の礎石が見つかっているそうです。
礎石についての説明板
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