愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(21) 松平記

2022年04月05日 11時06分21秒 | 松平記

松平記p21

翻刻
岡崎衆を下知し三郎五郎を追崩し、三町程追申候処、敵も
二の備にてもり返し岡崎衆林藤五郎、小林源之助を初と
してよき者あまた討死也、其時岡部五郎兵衛横鑓を入も
り返し合戦を初、尾州衆先手の物頭やり三位をは駿河衆
小倉千之介組打に仕り高名しける、三位うたれ尾州衆力
を落し悉く敗軍仕候也
一 駿河衆ハ打勝、織田殿三河へ出る事度々なれとも岡崎を
取事ならす敗軍して古わたりへ帰り給ふ、駿河衆ハ先々
帰国、岡崎衆悦事限なし、其年三州山中城落申候、岡崎衆攻
落し、松平権兵衛没落也、蔵人殿ハ尾州衆打まけ力を落し

現代語
(朝比奈藤三郎信置は)岡崎衆に指示を出し、織田三郎五郎信広を追い崩し、三町(約300m)程追った。しかし、敵も二番目の備があって盛り返してきた。岡崎衆の林藤五郎、小林源之助を初めとしてたくさんの武将が討死した。その時岡部五郎兵衛が横鑓を入れて、(今川勢が)ふたたび盛り返し、尾州衆先手の物頭やり三位が駿河衆小倉千之介に組み伏せられ討たれた。小倉は高名をなした。三位が討たれ、尾州衆は力を落し、悉く敗軍となった。
一 駿河衆は打ち勝ち、織田信秀は三河へたびたび出たが、岡崎を取ることはできず、敗れて古渡の城に帰陣した。駿河衆は帰国し、岡崎衆は大変喜んだ。その年(天文17年)三河の山中城を岡崎衆が攻め落とし、松平権兵衛は没落した。松平蔵人信孝は、尾州衆が討ち負けたので、力を落し、・・・・

コメント
ここは、いわゆる第2次小豆坂合戦の様子が描かれています。岡崎衆を指揮しているのは、今川家臣朝比奈信置です。松平廣忠は何をしていたのでしょうか。合戦で岡崎衆の林藤五郎、小林源之助が討死します。ところが、岡部五郎兵衛(この人は桶狭間の戦いで義元の首と引き換えに鳴海城を開城した人です)の横槍で今川勢が盛り返し、とうとう今川勢が織田勢を破るという展開です。
この戦いの後岡崎衆が山中城を攻め落とした言う記事があります。松平権兵衛は織田に与していたようです。山中城は小豆坂合戦の時、織田方の城だったのでしょうか。通説では、「小豆坂合戦時、山中城は、岡城、生田城と共に今川軍の重要拠点」となっていたとあります。(ウィキペディア)どちらが正しいのでしょうか。
また、ネットを調べていると、山中城は羽栗と本宿と2つあり、どちらの城主も松平権兵衛といい、やはり織田に通じていたらしいです。山中城が2つあったとは知りませんでした。

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2 コメント

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Unknown (hakusiyu)
2022-04-05 23:10:30
こんにちは~!
旧東海道歩きの途中で両方の山中城に立ち寄りました。
羽栗のほうは巨大な山城で大いに堪能しました。
本宿古城のほうは遺構が残ってないですね。というか、本宿古城が山中城と呼ばれてたは!認識新たにしました。
ありがとうございます。
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行ってみたい (midorishako)
2022-04-06 19:19:53
hakusiyuさん
コメントありがとうございます。

羽栗の山中城は私も行ったことがあります。立派な山城です。本宿の方は知らなかったので、ぜひ現地に足を運びたいと思います。
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