愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

糟塚(かすづか)砦 豊川市

2022年04月03日 16時29分40秒 | 豊川市
豊川市の糟塚砦に行きました。糟塚砦は徳川家康が永禄6年(1563)、牛久保城、吉田城の攻略の際に築いた砦です。「三河国二葉松」に「小笠原新九郎長晟(ながあきら?)」とありますので、家康の家臣の中にそういう武将がいたものと思われます。現在は龍徳院という寺院になっています。
本堂の裏手に土塁、堀が残っているというので、行ってみました。

龍徳院本堂裏の土塁跡

ありました。本堂の裏手に高さ1m50cmぐらいの土塁が。約70mほどの長さがあるそうです。この土塁の裏には堀がありました。

土塁の裏の堀

Google航空写真で表すと以下のようです。

龍徳院と土塁、堀

糟塚砦は、このような土塁、堀で四方を囲まれた砦だったそうです。
龍徳院の山門には糟塚砦の説明板がありました。

龍徳寺山門の説明版

さて、意外と早く糟塚砦の見学が終わったので、近くにある神社を見学することにしました。


菟足(うたり)神社

この神社一帯は、貝塚が広がっていた場所だそうです。また、面白い言い伝えがあり、中国秦の始皇帝が不老長寿の薬を求め、日本にあたる島に家臣徐福以下3000名ほどのものを派遣したそうですが、行方不明になってしまったそうです。ところが、日本には徐福が到来したという伝説のある場所が二十カ所以上あるそうです。そしてこの豊川の小坂井地方にも来たという伝承があるそうです。すごい。貝塚と言い、この伝承と言い、昔からここに人が住んでいた証拠だと思いました。

もうひとつ、五社稲荷神社という神社がありました。

五社稲荷神社

こちらの方は、この地がもとは古墳だったという話です。直径約32m、高さ約5mの円墳だそうです。築造時期ははっきりしないが古墳時代中期ではないかと説明板に記載されていました。この古墳の立地が豊川右岸の地帯を見渡せる丘陵にあること、後の東海道と伊奈街道の交わる交通の要衝にあることから、豊川右岸地域一帯を支配する首長の墓であろうと推測していました。
ここでもこの地域の歴史の古さを実感しました。


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