日置城は日置村の西北?
今回は尾張の城です。といっても尾張の城はほとんど遺構が残っていません。
「尾州古城志」に、「日置村 城跡1反2畝歩、自村戌亥方 織田丹波守、一説曰織田掃部領之」との記事があります。1反2畝は、約1189平方メートル(正方形にすると、一辺約34mの正方形の広さ)なので、少し小さすぎます。尾州古城志が成立した宝永5年(1708)に城跡として残っていたのがこれだけということでしょうか。方位が村より戍亥とあります。戍亥は西北の方向です。
明治23年の地図より
ところが、明治23年の地図で、日置城は日置村のほぼ東に位置しています。不思議に思い、「日本城郭体系9」を見たところ、「古渡城の西北に位置し」との説明がありました。古渡城は、ちょうど東本願寺別院の場所なので、そこから西北の方向というのは頷けます。「尾州古城志」には「自村」としか書かれていませんので、この村とは古渡村のことかもしれません。
熱田台地の西端
さて、この地図で日置城跡の西側を南北に流れている大きな川は、堀川です。つまり、この地図の北の方に名古屋城があります。そして南は熱田神宮です。この名古屋城から熱田神宮にかけては熱田台地という台地になっていて、まわりより少し高くなっています。日置城はこの台地の上にあり、西端に位置しています。「日本城郭体系9」でも「西方を広く眺望できる要害の地であった」と記しています。
熱田台地(地理院地図、陰影起伏図より)
熱田台地がわかる所
日置城のすぐ西隣にコメダ珈琲がありましたが、1階部分は下になっていました。2~3メートルは段差があるでしょうか。現在日置城跡から西を見てもビルが立ち並んでいて、眺望は開けていませんが、日置城が一段高いところにあったことは分かりました。
尾張織田家
この城に関する武将ですが、織田丹波守とは、尾張守護代(下四郡)の方の織田家で、織田寛定(ひろさだ)です。明応4年(1495)に討死したということなので、信長の生まれる(天文3年1534)以前です。主に、清州城を本拠としていたようです。
織田掃部(かもん)とは、清州三奉行(因幡守家、弾正忠家、藤左衛門家)の一つ藤左衛門家の織田忠寛(ただひろ)です。信長、信雄に仕えていました。
尾張支配図
今回は尾張の城です。といっても尾張の城はほとんど遺構が残っていません。
「尾州古城志」に、「日置村 城跡1反2畝歩、自村戌亥方 織田丹波守、一説曰織田掃部領之」との記事があります。1反2畝は、約1189平方メートル(正方形にすると、一辺約34mの正方形の広さ)なので、少し小さすぎます。尾州古城志が成立した宝永5年(1708)に城跡として残っていたのがこれだけということでしょうか。方位が村より戍亥とあります。戍亥は西北の方向です。
明治23年の地図より
ところが、明治23年の地図で、日置城は日置村のほぼ東に位置しています。不思議に思い、「日本城郭体系9」を見たところ、「古渡城の西北に位置し」との説明がありました。古渡城は、ちょうど東本願寺別院の場所なので、そこから西北の方向というのは頷けます。「尾州古城志」には「自村」としか書かれていませんので、この村とは古渡村のことかもしれません。
熱田台地の西端
さて、この地図で日置城跡の西側を南北に流れている大きな川は、堀川です。つまり、この地図の北の方に名古屋城があります。そして南は熱田神宮です。この名古屋城から熱田神宮にかけては熱田台地という台地になっていて、まわりより少し高くなっています。日置城はこの台地の上にあり、西端に位置しています。「日本城郭体系9」でも「西方を広く眺望できる要害の地であった」と記しています。
熱田台地(地理院地図、陰影起伏図より)
熱田台地がわかる所
日置城のすぐ西隣にコメダ珈琲がありましたが、1階部分は下になっていました。2~3メートルは段差があるでしょうか。現在日置城跡から西を見てもビルが立ち並んでいて、眺望は開けていませんが、日置城が一段高いところにあったことは分かりました。
尾張織田家
この城に関する武将ですが、織田丹波守とは、尾張守護代(下四郡)の方の織田家で、織田寛定(ひろさだ)です。明応4年(1495)に討死したということなので、信長の生まれる(天文3年1534)以前です。主に、清州城を本拠としていたようです。
織田掃部(かもん)とは、清州三奉行(因幡守家、弾正忠家、藤左衛門家)の一つ藤左衛門家の織田忠寛(ただひろ)です。信長、信雄に仕えていました。
尾張支配図
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