10月8日、犬山方面に用事がありましたので、ついでに「桃太郎神社」に行きました。
先日テレビで桃太郎伝説は、岡山だけではない、日本各地にあるということで、愛知県の桃太郎神社と四国の桃太郎伝説の地が紹介されました。
そこで、一度行ってみようと思いました。
桃太郎神社は、先日出かけた「木曽川鵜飼」の渡し場の少し上流にありました。
桃太郎神社の位置(Googleマップより作成)
神社に着くと道沿いに大きな鳥居がありましたが、鳥居の下には、サルが座って出迎えていてくれました。

桃太郎神社の鳥居
鳥居をくぐると右側に岩があり、なんとおばあさんが洗濯をした時の足跡が遺っている岩だそうです。

おばあさんの足跡が遺っているという岩
上から見たかったのですが、柵があって入れませんでした。
参道の右手には、なにやら銅像がありました。

桃太郎神社の創建者、川治蘇山という人の像
像の後ろに、「明治27年1月2日栗栖に生る。犬山観光開発の先駆者にして此地に公園を設け桃太郎神社を祭祀す。昭和48年1月吉日建立」とありました。
ネットで調べると、この桃太郎神社は、川治蘇山こと川治宗一さんが栗栖の村をなんとか発展させたいと、桃太郎神社を造ったそうです。今の宮司は2代目の川治桃光さんというそうです。
奥のほうに本殿がありました。突き当たって左手です。鳥居の代わりに桃の輪郭のアーチになっていました。

桃太郎神社本殿
この本殿の右側に歌碑がありました。
案内板によると、野口雨情、鳥観図大家吉田初三郎、御歌所奇人坂正臣翁という人の3人の歌の石碑がありました。どういう関係でしょうか。

記念歌碑
そして本殿の反対側には「宝物殿」がありました。宝物殿の入り口に鬼が背中に人が乗れる格好で四つん這いになっていました。曰く「やさしい鬼です。せなかへどうぞ」
思わず「泣いた赤鬼」を思い出しました。あの話でも優しい鬼は、赤鬼でした。子どもさんが来られて、背中に乗ったところをパチリということを狙ったものと思われますが、なんだか鬼がかわいそうに思えました。

宝物殿入口の「やさしい」鬼
宝物殿の中には、嘘かまことか鬼のミイラの写真であったり、鬼の体の一部の化石であったりが展示されていました。話しのタネとしては面白いと思いました。
戦時中に、この桃太郎が戦意創出のために利用され、日本兵は桃太郎、連合軍は鬼(まさに鬼畜米英です)として描かれ、それが子どもたちの読み物として登場していたことが展示されていました。
こどもたちの心を育てる昔話が戦争に利用されてはならないことを暗に訴えているのかと思いました。
先日テレビで桃太郎伝説は、岡山だけではない、日本各地にあるということで、愛知県の桃太郎神社と四国の桃太郎伝説の地が紹介されました。
そこで、一度行ってみようと思いました。
桃太郎神社は、先日出かけた「木曽川鵜飼」の渡し場の少し上流にありました。

桃太郎神社の位置(Googleマップより作成)
神社に着くと道沿いに大きな鳥居がありましたが、鳥居の下には、サルが座って出迎えていてくれました。

桃太郎神社の鳥居
鳥居をくぐると右側に岩があり、なんとおばあさんが洗濯をした時の足跡が遺っている岩だそうです。

おばあさんの足跡が遺っているという岩
上から見たかったのですが、柵があって入れませんでした。
参道の右手には、なにやら銅像がありました。

桃太郎神社の創建者、川治蘇山という人の像
像の後ろに、「明治27年1月2日栗栖に生る。犬山観光開発の先駆者にして此地に公園を設け桃太郎神社を祭祀す。昭和48年1月吉日建立」とありました。
ネットで調べると、この桃太郎神社は、川治蘇山こと川治宗一さんが栗栖の村をなんとか発展させたいと、桃太郎神社を造ったそうです。今の宮司は2代目の川治桃光さんというそうです。
奥のほうに本殿がありました。突き当たって左手です。鳥居の代わりに桃の輪郭のアーチになっていました。

桃太郎神社本殿
この本殿の右側に歌碑がありました。
案内板によると、野口雨情、鳥観図大家吉田初三郎、御歌所奇人坂正臣翁という人の3人の歌の石碑がありました。どういう関係でしょうか。

記念歌碑
そして本殿の反対側には「宝物殿」がありました。宝物殿の入り口に鬼が背中に人が乗れる格好で四つん這いになっていました。曰く「やさしい鬼です。せなかへどうぞ」
思わず「泣いた赤鬼」を思い出しました。あの話でも優しい鬼は、赤鬼でした。子どもさんが来られて、背中に乗ったところをパチリということを狙ったものと思われますが、なんだか鬼がかわいそうに思えました。

宝物殿入口の「やさしい」鬼
宝物殿の中には、嘘かまことか鬼のミイラの写真であったり、鬼の体の一部の化石であったりが展示されていました。話しのタネとしては面白いと思いました。
戦時中に、この桃太郎が戦意創出のために利用され、日本兵は桃太郎、連合軍は鬼(まさに鬼畜米英です)として描かれ、それが子どもたちの読み物として登場していたことが展示されていました。
こどもたちの心を育てる昔話が戦争に利用されてはならないことを暗に訴えているのかと思いました。
鬼は外(王邇波)
オニはヘブライ語で、私を苦しめる者の意味です。
中部地方は鬼は内です。
邇波氏拠点 邇波(爾波)縣
稲庭(否む邇波)
傀儡王は、大人に政策を立案、奏上し良いとされれば
実施され、失敗すれば殺害されました。
両者の関係は、大国主と大物主で政治的な政略結婚の関係(*イザヤ書から多用)
大国主は花婿(田縣神社)
豊年祭の珍宝、木曽檜製で長さ2.5m、重さ280kg
土着民の豪族邇波氏
合議政治の実質的な王(大人)
大物主は花嫁(大縣神社)
渡来の扶餘王家(ガド)
渡来の烏桓ウガン王家(エフライム)
合議政治の傀儡王(大君)
表記された直接的氏族名
宗形(宗像)氏・・・ムナ(任命)、カタン(花婿) ヘブライ語
邇波氏族の蔓木氏から、宗形氏が輩出されます。
蔓木 垂見(一言主神)の大人が、尾治国造。 倭 幼武大君(欽明帝)が補佐してた時に入鹿屯倉を設置しました。 入鹿とは、怒る(イ ルシカ)の意味が有ります。
倭 継大君(継体帝)を殺害させた後、武大君の子を傀儡王に擁立する立場に有り、尾治(蔓木)山で鹿狩りをして、幼武の素質を見極め大君としました。
摩理勢以降朝廷直轄地
一時、神威カムイ 毛人に渡るが、朝廷直轄地化しました。