渡辺政香「鴨の騒立」第5回 行動の開始
9月21日、夜7時ごろ、ほら貝の代わりに竹筒を吹き、時の声を告げた。その音に驚き、隣村の人々は出なければ家を打ち砕かれると恐れ、取るものもとりあえず、石御堂に集まった。人数は60人あまりになったらしい。その夜1時ごろより、竹筒を吹きながら、松平数馬様(1)御知行所である滝脇村庄屋へ8~9人が走って行って、
「申し次ぎの廻状はこちらに来ているか」
と聞いた。それを聞いて庄屋はぶるぶると震えだし、
「地頭(2)役人羽明村河合庄兵衛に聞いてから、ご返答させていただく」
といいながら、走っていってしまった。その後に滝脇村に来た一揆勢一同がときの声をあげたので、まもなく大勢駆けつけ、(3)庄屋の家を微塵に打ち砕き、すぐさま組頭の家2軒を打ち砕いた。この物音に近くの村の人たちが驚き、我も我もと駆けつけ、すで200人余りとなった。(4)
22日午前5時ごろ、しばらく休息をしているところに、遊平(ゆだいら)村・柵沢(ませざわ)村・株木(かぶき)村(5)・長嶺村・外山村・須山村・柳村等の村からも人が集まり、400人余りとなった。
注意書き
(1)松平数馬 所領は六百石滝脇松平といわれ、古くからこの地に縁を持つ旗本。
(2)地頭 ここでは松平数馬のこと。つまり羽明村の河合庄兵衛は松平数馬の役人でもあったと言うことか。
(3)大勢駆けつけ どこら駆けつけて来たのか不明。近隣の村々か。
(4)最初60人ぐらい、次に滝脇村の庄屋の家の打毀しを終わった段階で200人余りへと人数が増えている。そして翌22日には400人となっている。人数の揃え方として一気に何千人もの人を集めたのではなく、人を集めながら村々を回っていくという感じである。また、この段階で人々が打ち壊しのために、どんな「道具」を持っていたかは明らかではない。
(5)株木村 蕪木(かぶらき)であろう。(高橋校注)
石御堂に集まり、いよいよ行動開始です。最初は60人ほどでした。これでは少ないと思ったのか、まずはじめに、石御堂のある滝脇村の庄屋を訪ねました。というより結果的には庄屋を襲いました。滝脇村は、当時松平数馬という旗本の領地だったようです。庄屋は、人を出すと言えば、一揆に手を貸したことになって、あとでお咎めを食うし、人を出さないと言えば、一揆勢に責められる、苦肉の策として、「役人に聞いてから」と答えました。
しかし、それは今すぐにでも人数を増やしたい一揆勢にとっては、「人を出さない」と同じ意味だったと思います。また、役人に知れれば、すぐに鎮圧隊がやってくることも予想されたので、そんなことは一揆勢にとって了承できるはずもありません。廻状の趣に沿って、庄屋宅は打ち壊しの対象になってしまいました。
そして、庄屋宅、組頭宅の打ち壊しを目の当たりに見た近隣の百姓たちは、自分の家も壊されるとの思いから、一揆に加勢していきました。しかし、恐怖心からだけではないと思います。生活の困窮、困窮の原因となっている酒屋、高利貸し等への怒りが根底にあったためと思われます。
滝脇町 石御堂
当時は、今より若干下の旧道沿いにあったらしいです。(「豊田市史」)
愛知県図書館のホームページを検索したところ、明治2年頃の三河の村の絵図が公開されていました。この絵図を見ると、当時の村の所在がだいたいですが分かりますので、ぜひ参照してみてください。
愛知県図書館HP>左側のバーナー「愛知県図書館所蔵 絵図の世界」>右側の「旧藩(旧県)管轄絵図(支配所絵図) 三河国全図>絵図を見る 高精細
三河国全図
愛知県図書館に問い合わせましたが、学術目的はコピーできるが、営利目的あるいは趣味では、できないとのことでしたので、リンクを貼らせていただきました。
このごろ、加茂一揆の記事が多くなっています。そこで、加茂一揆を一つのカテゴリーにします。
9月21日、夜7時ごろ、ほら貝の代わりに竹筒を吹き、時の声を告げた。その音に驚き、隣村の人々は出なければ家を打ち砕かれると恐れ、取るものもとりあえず、石御堂に集まった。人数は60人あまりになったらしい。その夜1時ごろより、竹筒を吹きながら、松平数馬様(1)御知行所である滝脇村庄屋へ8~9人が走って行って、
「申し次ぎの廻状はこちらに来ているか」
と聞いた。それを聞いて庄屋はぶるぶると震えだし、
「地頭(2)役人羽明村河合庄兵衛に聞いてから、ご返答させていただく」
といいながら、走っていってしまった。その後に滝脇村に来た一揆勢一同がときの声をあげたので、まもなく大勢駆けつけ、(3)庄屋の家を微塵に打ち砕き、すぐさま組頭の家2軒を打ち砕いた。この物音に近くの村の人たちが驚き、我も我もと駆けつけ、すで200人余りとなった。(4)
22日午前5時ごろ、しばらく休息をしているところに、遊平(ゆだいら)村・柵沢(ませざわ)村・株木(かぶき)村(5)・長嶺村・外山村・須山村・柳村等の村からも人が集まり、400人余りとなった。
注意書き
(1)松平数馬 所領は六百石滝脇松平といわれ、古くからこの地に縁を持つ旗本。
(2)地頭 ここでは松平数馬のこと。つまり羽明村の河合庄兵衛は松平数馬の役人でもあったと言うことか。
(3)大勢駆けつけ どこら駆けつけて来たのか不明。近隣の村々か。
(4)最初60人ぐらい、次に滝脇村の庄屋の家の打毀しを終わった段階で200人余りへと人数が増えている。そして翌22日には400人となっている。人数の揃え方として一気に何千人もの人を集めたのではなく、人を集めながら村々を回っていくという感じである。また、この段階で人々が打ち壊しのために、どんな「道具」を持っていたかは明らかではない。
(5)株木村 蕪木(かぶらき)であろう。(高橋校注)
石御堂に集まり、いよいよ行動開始です。最初は60人ほどでした。これでは少ないと思ったのか、まずはじめに、石御堂のある滝脇村の庄屋を訪ねました。というより結果的には庄屋を襲いました。滝脇村は、当時松平数馬という旗本の領地だったようです。庄屋は、人を出すと言えば、一揆に手を貸したことになって、あとでお咎めを食うし、人を出さないと言えば、一揆勢に責められる、苦肉の策として、「役人に聞いてから」と答えました。
しかし、それは今すぐにでも人数を増やしたい一揆勢にとっては、「人を出さない」と同じ意味だったと思います。また、役人に知れれば、すぐに鎮圧隊がやってくることも予想されたので、そんなことは一揆勢にとって了承できるはずもありません。廻状の趣に沿って、庄屋宅は打ち壊しの対象になってしまいました。
そして、庄屋宅、組頭宅の打ち壊しを目の当たりに見た近隣の百姓たちは、自分の家も壊されるとの思いから、一揆に加勢していきました。しかし、恐怖心からだけではないと思います。生活の困窮、困窮の原因となっている酒屋、高利貸し等への怒りが根底にあったためと思われます。
滝脇町 石御堂
当時は、今より若干下の旧道沿いにあったらしいです。(「豊田市史」)
愛知県図書館のホームページを検索したところ、明治2年頃の三河の村の絵図が公開されていました。この絵図を見ると、当時の村の所在がだいたいですが分かりますので、ぜひ参照してみてください。
愛知県図書館HP>左側のバーナー「愛知県図書館所蔵 絵図の世界」>右側の「旧藩(旧県)管轄絵図(支配所絵図) 三河国全図>絵図を見る 高精細
三河国全図
愛知県図書館に問い合わせましたが、学術目的はコピーできるが、営利目的あるいは趣味では、できないとのことでしたので、リンクを貼らせていただきました。
このごろ、加茂一揆の記事が多くなっています。そこで、加茂一揆を一つのカテゴリーにします。
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