愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(52) 松平記

2023年12月13日 08時39分10秒 | 松平記

松平記p52

翻刻
候てつき山と申所に御座候を是をつき山殿と申し奉る也
一 右家康駿河と御手切有し故、日比ハ駿河へ付たる岡崎の
譜代衆皆駿河と手切にて岡崎へ参り忠節仕る、然とも三
河遠州の人質ハ大かた駿河方へ越置候、中にも松平備後
守人質に娘を駿河方へ越、吉田の城主大原肥前守もとに
置きたりしを捨て岡崎へ出仕致し、妻子を岡崎の城へ人質
に奉る間、大原是を聞、彼松平備後守娘を初として大竹兵
右衛門、浅羽三太夫等が子共其外にも今度人質を捨て家
康へ出仕致し、忠を成たる三河侍の証人を十一人吉田の
城外龍念寺口にて串さしに致す也

現代語
(三河へ)行かれて、築山と申す所におられた。この方を築山殿と言われなされます。
一 このように家康は駿河(今川)と縁を切ったので、今まで駿河に付いていた岡崎の譜代衆も駿河と縁を切り、岡崎(家康)に忠節することになった。しかしながら、三河や遠江の人質は大方駿河方に残されていた。なかでも松平備後守は娘を駿河に人質として送り、吉田(現豊橋)の城主大原肥前守の元にあったのをそのままにして、岡崎(家康)に仕え、妻子を岡崎に人質として入れ置いた。大原はこれを聞いて、松平備後守の娘や大竹兵右衛門、浅羽三太夫の子ども等、その他家康に出仕した者の人質を吉田の城外にある龍念寺で串刺しにして殺害した。

コメント
吉田城主大原肥前守による人質殺害事件です。大原肥前守は、小原鎮実(おばらしげざね)と言われることが多いようです。松平備後守は、松平清善のことで、竹谷松平氏の4代目だそうです。この時に家康の家臣の人質が多く殺され、徳川の家臣たちの中で今川に対する恨みとなって蓄積されたようです。ウィキペディアでは殺された人をリストアップしています。

松平清善の妻、松平家広の妻、菅沼定盈の妻、菅沼貞景の妻、西郷正勝の妻、水野藤兵衛の妻、大竹兵右衛門の妻、浅羽三太夫の妻、浅羽三太夫の娘、大竹麦右衛門の妻、設楽貞通の妻、奥平貞能の妻

松平清善の娘ではなく、妻になっていますが、どちらが本当か分かりません。いずれにしても戦国時代の武将の家で生まれた女性は夫や父親のために人質となり、必要がなくなれば、断腸の思いはあったでしょうが、殺されてしまうという悲しい運命でした。


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