愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

設楽城址 東栄町

2016年11月06日 07時56分42秒 | 東栄町
秋もだんだん深まってきました。山の方では紅葉が進んでいるだろうと今日は、東三河の奥に行きました。東栄町の設楽城址です。

紅葉はまだ
愛知県は、西は平野部が多いですが、東は三河高原で山が多いです。したがって三河の方の山城を見学に行けば、この時期紅葉を見ることができるというわけです。

しかし、結論から言いますと、まだ紅葉は始まったばかりでちょっと残念な結果でした。

途中のコンビニから写した東三河の山

しかしそれでも、谷川に沿って走っていくと真っ黄色に染まったイチョウなど部分的にはきれいな景色も楽しめました。

設楽城とは
さて、肝心の設楽城ですが、築城は設楽氏のようです。設楽氏とは、鎌倉時代ごろにこの設楽地方を支配していた豪族です。正和元年(1312)にこの設楽郷から設楽重清が写ったという記録があるそうです。(現地案内板)戦国期には設楽貞道が、今川氏に属し菅沼貞則の娘を妻として川路あたりに住んでいました。その後今川義元が戦死すると徳川氏に属しました。戦国末期になると長篠菅沼家の家臣である伊藤氏が居城したそうです。(「愛知の山城ベスト50」)

「三河国二葉松」には、「設楽村古屋敷 伊藤左京隠居の地也と云う」と紹介されていました。


設楽城の概要(現地案内板)

案内板では、
・ぐるっと山を取り囲む川や断崖は、城を守る最高の地形
・地続きの南方には、土塁や堀切を作って守りを強化
・湧き水は、長期間敵に囲まれた時の籠城にも有利
との説明がありました。

全くその通りで、箇条書きにしてあり大変分かりやすかったです。

二の丸の堀切
案内板に従って坂を登っていくとすぐに大きな堀切が見えました。

二の丸南の堀切(左が二の丸)

この写真にもあるように遺構には標識が建てられており、私のような初心者でもよく分かるようになっていました。

二の丸の土塁

二の丸南の土塁

写真ではわかりにくいですが、半円形をしていました。その土塁の下に堀切があるので、ちょうど二の丸は馬出のようでした。

本丸の土塁
本丸の東側には土塁が残っていました。その土塁の上に「設楽城址」の石碑と祠が立っていました。ちょうどよい高さだったのでしょう。

本丸東の土塁

本丸の石碑
本丸の北側には大きな石碑が2つありました。

おそらく明治以降の戦没者の忠霊塔だと思いますが、判読できませんでした。

戦国時代から生きる大黒杉
また、本丸の東には戦国時代からという杉がありました。大黒杉というそうです。

大黒杉

今も現役の湧き水
本丸を東の方に降りていくと湧き水がありました。井戸の跡があるのかと思って行ってみると、なんと現役で水が湧き出ていました。


がんばる学生
ここは「元気城山」と名付けられた公園になっていますが、その散策路を愛知大学の学生たちが協力をして作ったという看板もありました。すばらしい。

学生の活動を伝える看板

なお、二の丸南の堀切よりさらに南の方は高まりになっていて、その奥には小さな堀切がありました。


ということで、設楽城は東栄町という愛知県でも最東に位置する場所で、しかも標高294メートルという高地にある城でしたが、案内板も遺構の標識も充実しており、しかも駐車場のすぐそこという近さもあり、素人にはうってつけの城でした。

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