脇坂安治陣所跡
大谷刑部吉継の墓にお参りした後は松尾山に向かいました。途中脇坂安治という武将の陣所跡がありました。
脇坂安治陣所跡
松尾山の北側の麓です。どんな武将か知りませんでしたが、案内板を読むと案の定小早川秀秋とともに東軍に寝返ったとありました。
陣所跡に土塁か?
この陣所跡を見回ると北側に土塁のようなものが見受けられました。後世に造られたものかも知れませんし、土塁とは違う構造物かも知れません。しかし陣所なので、こういう土塁状のものを周りにめぐらしていてもおかしくはないと思いました。
脇坂安治陣所北側の様子
苦しかった松尾山登山
いよいよ松尾山です。案内マップには「山麓駐車場から約2キロ、高低差約200メートル徒歩40分」とありましたので、40分ならたいしたことないかと思いましたが、高低差200メートルを40分で登るというのは、後で考えると結構きついことなんだと思いました。実際きつかったです。何度も休憩しました。特にその日は、急に暑くなった日で4月中旬なのに20度を超える気温でした。また、3時間ぐらい関ヶ原を歩いて巡った後の登山ということもあり、ふらふらでした。
松尾山
何はともあれ松尾山に登りました。入り口に看板があり、そこには「松尾山城」とありました。
松尾山入口の看板
看板によると応永年間に富島氏によって築城され、織田信長、浅井長政等に管理されながら最終的に関ヶ原で小早川秀秋の陣所となったようです。
松尾山からの眺め
徳川家康の威嚇射撃を考える
松尾山から関ヶ原全体を見ることができました。
小早川秀秋はここから戦いの趨勢を見極めていたのでしょう。一説に徳川家康は、内通していたにもかかわらず、いっこうに東軍として軍事行動を起こさない小早川秀秋を見て、威嚇射撃をしたと言われています。
しかし、家康本陣から松尾山までは地図で測っても2.2キロあります。とうてい届きません。鉄砲の射程距離が最大で400メートルぐらいしかないからです。実際登ってみて、それは実感します。
もし本陣から射撃をすれば、松尾山までの間に陣を取っている福島正則、藤堂高虎らの陣を背後から射撃することになり、東軍は大混乱に陥ってしまいます。ということは、徳川家康本陣からではなく東軍の松尾山に近い陣所からの射撃だったと思われます。
つまり、徳川家康は関ヶ原北西の石田三成、小西行長、宇喜多秀家らと黒田長政、井伊直政、松平忠吉らの戦闘がなかなか決着がつかないのを見て小早川秀秋に寝返りを催促するために、松尾山近くに布陣していた福島正則、藤堂高虎、京極高知らに発砲を命じたということでしょうか。
福島正則陣所から松尾山まで約1.5キロなので、半分ぐらいは届いたことになります。ちょうど脇坂安治の陣所のあたりぐらいは届いています。(約500メートル)
一番驚いたのは、脇坂安治でしょう。小早川秀秋が動かないのでどう動くかずっと松尾山を見守っていたら急に背後の福島正則から射撃されたのですから。「なんで、福島正則が俺たちに攻撃してくるのだ?東軍につくという密約ができているのに。これはぐずぐずしていると、西軍とみなして攻撃するぞ、早く東軍として参陣しろという合図か。」と思ったかどうかは分かりませんが、決断に迫られたのは間違いないと思います。なので、小早川秀秋より先に脇坂安治が大谷吉継に向けて攻撃を開始したのかもしれません。それを見て小早川秀秋も松尾山から西軍攻撃を開始したということが考えられます。
松尾山は山城だ
それはさておき、この松尾山陣所跡よく見ると周りに土塁があります。頂きがおそらく主郭と思われますので、この土塁は主郭を防御するためのものと思われます。
松尾山城の主郭土塁
土塁はぐるっと主郭を取り囲んでいました。そして南側には枡形の虎口がありました。
主郭南枡形虎口
さらにこの虎口を南の方に下っていきますと、土橋らしきものもありました。
土橋
また腰曲輪や土塁、堀切なども確認でき、りっぱな山城であることが分かりました。
土塁の跡
山を降りるときも気を付けて見てみますと道の脇に曲輪があり、土塁を確認することができました。
降り道の右側にあった曲輪と土塁
松尾山はただの陣所と思っていましたが、今まで山城を見てきた経験が生かされて立派な山城であることが分かり、大変有意義でした。ふらふらになりながらも登った甲斐がありました。
大谷刑部吉継の墓にお参りした後は松尾山に向かいました。途中脇坂安治という武将の陣所跡がありました。
脇坂安治陣所跡
松尾山の北側の麓です。どんな武将か知りませんでしたが、案内板を読むと案の定小早川秀秋とともに東軍に寝返ったとありました。
陣所跡に土塁か?
この陣所跡を見回ると北側に土塁のようなものが見受けられました。後世に造られたものかも知れませんし、土塁とは違う構造物かも知れません。しかし陣所なので、こういう土塁状のものを周りにめぐらしていてもおかしくはないと思いました。
脇坂安治陣所北側の様子
苦しかった松尾山登山
いよいよ松尾山です。案内マップには「山麓駐車場から約2キロ、高低差約200メートル徒歩40分」とありましたので、40分ならたいしたことないかと思いましたが、高低差200メートルを40分で登るというのは、後で考えると結構きついことなんだと思いました。実際きつかったです。何度も休憩しました。特にその日は、急に暑くなった日で4月中旬なのに20度を超える気温でした。また、3時間ぐらい関ヶ原を歩いて巡った後の登山ということもあり、ふらふらでした。
松尾山
何はともあれ松尾山に登りました。入り口に看板があり、そこには「松尾山城」とありました。
松尾山入口の看板
看板によると応永年間に富島氏によって築城され、織田信長、浅井長政等に管理されながら最終的に関ヶ原で小早川秀秋の陣所となったようです。
松尾山からの眺め
徳川家康の威嚇射撃を考える
松尾山から関ヶ原全体を見ることができました。
小早川秀秋はここから戦いの趨勢を見極めていたのでしょう。一説に徳川家康は、内通していたにもかかわらず、いっこうに東軍として軍事行動を起こさない小早川秀秋を見て、威嚇射撃をしたと言われています。
しかし、家康本陣から松尾山までは地図で測っても2.2キロあります。とうてい届きません。鉄砲の射程距離が最大で400メートルぐらいしかないからです。実際登ってみて、それは実感します。
もし本陣から射撃をすれば、松尾山までの間に陣を取っている福島正則、藤堂高虎らの陣を背後から射撃することになり、東軍は大混乱に陥ってしまいます。ということは、徳川家康本陣からではなく東軍の松尾山に近い陣所からの射撃だったと思われます。
つまり、徳川家康は関ヶ原北西の石田三成、小西行長、宇喜多秀家らと黒田長政、井伊直政、松平忠吉らの戦闘がなかなか決着がつかないのを見て小早川秀秋に寝返りを催促するために、松尾山近くに布陣していた福島正則、藤堂高虎、京極高知らに発砲を命じたということでしょうか。
福島正則陣所から松尾山まで約1.5キロなので、半分ぐらいは届いたことになります。ちょうど脇坂安治の陣所のあたりぐらいは届いています。(約500メートル)
一番驚いたのは、脇坂安治でしょう。小早川秀秋が動かないのでどう動くかずっと松尾山を見守っていたら急に背後の福島正則から射撃されたのですから。「なんで、福島正則が俺たちに攻撃してくるのだ?東軍につくという密約ができているのに。これはぐずぐずしていると、西軍とみなして攻撃するぞ、早く東軍として参陣しろという合図か。」と思ったかどうかは分かりませんが、決断に迫られたのは間違いないと思います。なので、小早川秀秋より先に脇坂安治が大谷吉継に向けて攻撃を開始したのかもしれません。それを見て小早川秀秋も松尾山から西軍攻撃を開始したということが考えられます。
松尾山は山城だ
それはさておき、この松尾山陣所跡よく見ると周りに土塁があります。頂きがおそらく主郭と思われますので、この土塁は主郭を防御するためのものと思われます。
松尾山城の主郭土塁
土塁はぐるっと主郭を取り囲んでいました。そして南側には枡形の虎口がありました。
主郭南枡形虎口
さらにこの虎口を南の方に下っていきますと、土橋らしきものもありました。
土橋
また腰曲輪や土塁、堀切なども確認でき、りっぱな山城であることが分かりました。
土塁の跡
山を降りるときも気を付けて見てみますと道の脇に曲輪があり、土塁を確認することができました。
降り道の右側にあった曲輪と土塁
松尾山はただの陣所と思っていましたが、今まで山城を見てきた経験が生かされて立派な山城であることが分かり、大変有意義でした。ふらふらになりながらも登った甲斐がありました。
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