大変久しぶりです。
名古屋では、「やっとかめ」と言うそうです。
コロナ禍など外出をしようという気をそぐ出来事が続き、「史跡めぐり」は開店休業状態でした。
しかし、ようやく出てみようかという気持ちになり、出かけました。
はじめは、滋賀県小谷城周辺の城です。というのは、愛教労城の会でここに行ってみてはどうかという話が出ていて、行ったことがない私にとって、大変興味深い話だったからです。虎御前(とらごぜん)山城、丁野(ようの)山城、中島城です。山本山城にも行きたかったのですが、暑いのでやめました。コロナよりも熱中症の方が差し迫る危険でした。
虎御前山城と言いますが、一つの城ではありません。実態は織田信長とその家臣たちの陣跡です。
虎御前山案内図
図の現在地に掲げられていた案内図ですが、「伝〇〇陣地跡」というのがたくさんあります。下から多賀貞能(さだよし)、蜂屋頼隆、丹羽長秀、滝川一益(かずます)、堀秀政、柴田勝家、木下秀吉の名前があります。みなさん織田信長の家臣又は味方になっている武将です。
何のための陣かと言えば、案内図の上の方に記されている小谷山、つまり浅井長政とそれと同盟している朝倉義景と戦うためです。
織田信長は、永禄11年(1568)将軍足利義昭を奉じて京都に入りました。その後畿内の武将たちを攻め、天下統一への道を進み始めましたが、元亀元年(1570)朝倉領の敦賀手筒山城を攻めているときに、突然同盟関係にあった浅井長政の謀反を知り、撤退する羽目になりました。この辺りから、信長に対する包囲網が作られ始め、浅井、朝倉、比叡山、大坂本願寺、将軍義昭、そして最強の戦国武将武田信玄をも敵に回すという状況が生まれました。しかし、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を一応破り、比叡山は焼き討ちにし、将軍義昭も追放して、どうにか、この包囲網を破りつつありました。
小谷城の攻防戦は、こういう中で戦われました。虎御前山は小谷城の目と鼻の先。浅井氏にとってこの山を取られるということは、かなり致命的なことだと思います。浅井氏の本拠地小谷城の目前まで侵攻されていること、さらに今は木が茂っていてあまり見えませんが、この虎御前山から小谷城は丸見えなのです。ここに織田勢が陣を構えたということは、もうそれだけでも戦いの趨勢は決まっていたように思いました。
伝多賀貞能陣地跡
伝多賀貞能陣地跡
最初は「伝多賀貞能陣地跡」です。多賀貞能という武将を初めて知りました。説明板には、以下のようにありました。
多賀貞能は豊後守貞隆の子。近江高島郡を領し各地を転戦する。元亀3年(1572)の江北出陣に際し織田信長に従軍、虎御前山に陣を構え、戦功をあげた。しかし、天正10年(1582)の山崎合戦に応じたため、戦後所領を没収され、京都東福寺に蟄居の身となった。貞能には男子がなく、堀秀正の弟秀種を養子とする。
矢合神社
しばらく行くと神社がありました。「矢合(やあい)神社」です
矢合神社
虎御前山の南側を八相山と呼び、ここも信長は、陣を築いたようです。八相山は「はっそうざん」と読みますが、「やわいやま」とも読みます。「矢合神社(やあいじんじゃ)」の名前は、この読みから来たのかも知れません。
伝蜂屋頼隆陣地跡
その上には蜂屋頼隆陣地跡がありました。
蜂屋頼隆陣地跡
蜂屋頼隆とは、説明板によれば
織田信長に仕えて頭角を現す。元亀3年(1572)の江北出陣に従軍。虎御前山に陣を構え、柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛らとともに小谷の町を破った。その後も越前朝倉攻め、伊勢長島攻めなど各地を転戦している。近江国愛知郡肥田城主に封じられたのはこの頃か。天正10年(1582)に勃発した本能寺の変直後、頼隆は新たに封じられた和泉岸和田に居たようだが、その後の山崎合戦で羽柴秀吉に属し主君の仇を討った。同13年(1585)越前敦賀城主に転封、同16年(1588)には「羽柴」の姓を与えられ、羽柴敦賀侍従と呼ばれた。後嗣がなく、家は断絶となった。
とあります。大谷吉継が敦賀城に入る前の城主だったようです。
除病神疫
展望台がありました。登ってみると眼下に「田んぼアート」がありました。
田んぼアート
平安時代に比叡山延暦寺座主良源が、都に疫病が流行した時、自ら角を生やした鬼の姿「角大師」になり、その姿を版木にして、お札を作り、疫病を鎮めたという伝承が残っているそうです。
コロナウィルスの拡散防止を願い、田んぼアートが作られたのだと思いました。
虎御前山 つづく
名古屋では、「やっとかめ」と言うそうです。
コロナ禍など外出をしようという気をそぐ出来事が続き、「史跡めぐり」は開店休業状態でした。
しかし、ようやく出てみようかという気持ちになり、出かけました。
はじめは、滋賀県小谷城周辺の城です。というのは、愛教労城の会でここに行ってみてはどうかという話が出ていて、行ったことがない私にとって、大変興味深い話だったからです。虎御前(とらごぜん)山城、丁野(ようの)山城、中島城です。山本山城にも行きたかったのですが、暑いのでやめました。コロナよりも熱中症の方が差し迫る危険でした。
虎御前山城と言いますが、一つの城ではありません。実態は織田信長とその家臣たちの陣跡です。
虎御前山案内図
図の現在地に掲げられていた案内図ですが、「伝〇〇陣地跡」というのがたくさんあります。下から多賀貞能(さだよし)、蜂屋頼隆、丹羽長秀、滝川一益(かずます)、堀秀政、柴田勝家、木下秀吉の名前があります。みなさん織田信長の家臣又は味方になっている武将です。
何のための陣かと言えば、案内図の上の方に記されている小谷山、つまり浅井長政とそれと同盟している朝倉義景と戦うためです。
織田信長は、永禄11年(1568)将軍足利義昭を奉じて京都に入りました。その後畿内の武将たちを攻め、天下統一への道を進み始めましたが、元亀元年(1570)朝倉領の敦賀手筒山城を攻めているときに、突然同盟関係にあった浅井長政の謀反を知り、撤退する羽目になりました。この辺りから、信長に対する包囲網が作られ始め、浅井、朝倉、比叡山、大坂本願寺、将軍義昭、そして最強の戦国武将武田信玄をも敵に回すという状況が生まれました。しかし、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を一応破り、比叡山は焼き討ちにし、将軍義昭も追放して、どうにか、この包囲網を破りつつありました。
小谷城の攻防戦は、こういう中で戦われました。虎御前山は小谷城の目と鼻の先。浅井氏にとってこの山を取られるということは、かなり致命的なことだと思います。浅井氏の本拠地小谷城の目前まで侵攻されていること、さらに今は木が茂っていてあまり見えませんが、この虎御前山から小谷城は丸見えなのです。ここに織田勢が陣を構えたということは、もうそれだけでも戦いの趨勢は決まっていたように思いました。
伝多賀貞能陣地跡
伝多賀貞能陣地跡
最初は「伝多賀貞能陣地跡」です。多賀貞能という武将を初めて知りました。説明板には、以下のようにありました。
多賀貞能は豊後守貞隆の子。近江高島郡を領し各地を転戦する。元亀3年(1572)の江北出陣に際し織田信長に従軍、虎御前山に陣を構え、戦功をあげた。しかし、天正10年(1582)の山崎合戦に応じたため、戦後所領を没収され、京都東福寺に蟄居の身となった。貞能には男子がなく、堀秀正の弟秀種を養子とする。
矢合神社
しばらく行くと神社がありました。「矢合(やあい)神社」です
矢合神社
虎御前山の南側を八相山と呼び、ここも信長は、陣を築いたようです。八相山は「はっそうざん」と読みますが、「やわいやま」とも読みます。「矢合神社(やあいじんじゃ)」の名前は、この読みから来たのかも知れません。
伝蜂屋頼隆陣地跡
その上には蜂屋頼隆陣地跡がありました。
蜂屋頼隆陣地跡
蜂屋頼隆とは、説明板によれば
織田信長に仕えて頭角を現す。元亀3年(1572)の江北出陣に従軍。虎御前山に陣を構え、柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛らとともに小谷の町を破った。その後も越前朝倉攻め、伊勢長島攻めなど各地を転戦している。近江国愛知郡肥田城主に封じられたのはこの頃か。天正10年(1582)に勃発した本能寺の変直後、頼隆は新たに封じられた和泉岸和田に居たようだが、その後の山崎合戦で羽柴秀吉に属し主君の仇を討った。同13年(1585)越前敦賀城主に転封、同16年(1588)には「羽柴」の姓を与えられ、羽柴敦賀侍従と呼ばれた。後嗣がなく、家は断絶となった。
とあります。大谷吉継が敦賀城に入る前の城主だったようです。
除病神疫
展望台がありました。登ってみると眼下に「田んぼアート」がありました。
田んぼアート
平安時代に比叡山延暦寺座主良源が、都に疫病が流行した時、自ら角を生やした鬼の姿「角大師」になり、その姿を版木にして、お札を作り、疫病を鎮めたという伝承が残っているそうです。
コロナウィルスの拡散防止を願い、田んぼアートが作られたのだと思いました。
虎御前山 つづく
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