愛知の史跡めぐり

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松平記(41) 松平記

2022年12月09日 16時48分50秒 | 松平記

松平記p41

翻刻
渡し退く。二の丸ハ元康衆罷在候。元康八歳にて御出なり。
今年五月廿三日、入城被成候。十九歳にて本知を自然と御
知行被成候。今年迄義元に手を置、所々駿河よりの御仕置
の処に、元康の譜代衆寄合、昔のことごと知行致し、目出度と
諸人悦事限なし。扨岡崎衆人数を促し、出張して石が瀬と
云所にて、水野下野衆とせり合い有て、元康ハ大久保新八、同
七郎右衛門、石川新九郎、杉浦八十郎、松平勘四郎。かりや衆
ハ、矢田伝十郎、水野藤助、滝見弥平次、高木主水、水野藤四郎、
梶川五左衛門、清水権之助、久米江左衛門、神谷新七等終日
合戦。杉浦八十郎はれ成討死也。是ハ岡崎へ帰入被成、初而の合戦也。

現代語
(しかし、駿河の人達は早々に岡崎城を)明け渡し、逃げて行った。二の丸は松平元康の家臣たちが守っていた。元康は8歳で岡崎城を出て、今年5月23日、岡崎城に入城なされた。19歳で元の領地をたまたま知行なされた。今年まで今川義元の味方をし、ところどころ今川の采配で知行を持っていた。松平元康の譜代衆は集まって昔のように知行をし、めでたいとたいそう喜んだ。さて、岡崎衆は兵を起こして、石が瀬という所で、水野下野の衆と戦いがあって、元康の衆には、大久保新八、大久保七郎右衛門、石川新九郎、杉浦八十郎、松平勘四郎がいて、刈谷(水野下野守)衆には、矢田伝十郎、水野藤助、滝見弥平次、高木主水、水野藤四郎、梶川五左衛門、清水権之助、久米江左衛門、神谷新七等がいて、終日戦っていた。杉浦八十郎は、討死した。この戦いは、松平元康が岡崎に帰ってから初めての戦いであった。

コメント
前半の文では、「所々駿河よりの御仕置の処に」とあるので、松平元康が今川義元から岡崎で所々に領地を与えられていたと思われます。しかし、桶狭間の戦いの後、5月23日に岡崎に戻った時には旧領を取り戻したようです。次の「石が瀬」は、桶狭間の戦い以前にも度々水野下野と戦っていたところです。(リンク「松平記(33)松平記」)。桶狭間の戦いが終わっても「石が瀬の戦い」は継続していたようで、松平元康が岡崎に戻ってから初めての戦だったというわけです。
矢田十郎というのが、紛らわしかったです。この頃矢田十郎という武将がいて、この人は、桶狭間の戦いで松平元康の馬廻り衆として丸根砦攻めに参加していますが(リンク「上野城 豊田市」)、永禄6年(1563)の三河一向一揆では一揆側に付き、11月25日の小豆坂の戦いで戦死しています。それと見間違い、どうして桶狭間の戦いの直後に水野側に付いたのだろうと、とても不思議でした。しかし、矢田作十郎の他に矢田伝十郎という武将がいたということで納得しました。


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