松平記p40
翻刻
(城主水野藤)九郎油断致し、よき侍一人も近所に不置有少、子細侍共を城の外へ
遣し置ける時分なれハ、岡部同心伊賀衆を以、濱の方より押寄、火
をかけ攻申候間、水野藤九郎あハてふためく処へ、忍の者押入
つき倒、首を取候得共、小勢にて城を持へき様なく、先手をよひ返し、
此城をふまへんなとと申処に、藤九郎家老の玄蕃助則時攻、入城を
のり返し、主の首を取返し、伊賀衆丗余人討取る。岡部ハ早々退く。此人鳴
海をふまへ、和談に致し、御死骸を申請、又かりやの城主を討捕
事、無二比類と諸国迄沙汰有し也。
一 三河岡崎にも、本丸には駿河衆、三浦、上野、飯尾と申侍二人
番手に罷在。二の丸にハ岡崎衆罷在候が、駿河衆ハ早々明
(渡し退く)
現代語
刈谷城主水野藤九郎信近は油断し、強い侍を一人もそばに置かず、兵も少なかった。侍たちは城の外に出払っていた。そこで岡部八郎五郎元信は、味方である伊賀の者たちをもって、浜辺の方から火をかけ攻め入った。水野藤九郎信近が慌てふためくところへ、忍びの者が押し入り、信近を突き倒し首を取った。しかしながら、岡部の兵数は少なく、城を持ちこたえることができず、「先陣を呼び返して、この城を掌握しよう」などと話しているところへ、藤九郎信近の家老、玄蕃助が素早く攻め入り、敵の入場を食い止め、主藤九郎信近の首を取り返し、伊賀の者たち30人ばかりを討ち取った。岡部八郎五郎元信は、早々に退散した。この岡部という人は、鳴海城を敵から守り通し、信長と和睦をし、今川義元の亡骸を受け取った。また、刈谷の城主を討ち取ったことは、比類なき事と諸国に噂された。
一 三河岡崎城には、本丸に駿河の者たち、三浦上野、飯尾という侍二人、当番として城を守っていた。二の丸には、岡崎の人たちが守っていた。しかし、駿河の人達は早々に岡崎城を明け渡し、逃げて行った。
コメント
岡部八郎五郎元信の刈谷城攻めの話です。なぜ、岡部は刈谷の水野を攻めたのか。信長とは和談になっているので、岡部が織田方の城を攻めるということはあり得ません。そうでなくても、義元が討たれ、駿河勢が総崩れになっている中で、あえて信長方の城を攻めるということは、和談に反する行為であるとともに、織田の総反撃を食らい、自身が討ち取られるということを意味したのだと思います。ということは、岡部が攻めた水野藤九郎は、今川方であったということです。それを示す史料が永禄3年4月12日の「今川義元書状写し」です。
今川義元書状写(豊明市史より)
この書状のあて先は水野十郎左衛門尉となっています。この水野が誰なのかは確定していません。しかし、水野藤九郎信近であるという説があります。内容は、義元がこの夏に出陣するので、尾張の国境に砦を築き、前線になってほしいというものです。水野十郎左衛門は桶狭間の戦いの時、今川に与していたものと思われます。しかし、実際に水野はこの戦いで今川側として明確に戦いませんでした。岡部はそれを恨んで、攻撃したのではないかと言われています。
このことは、義元の息子である氏真にとっても喜ばしいことで、6月8日には岡部に対して領地を返還する旨の判物が出されています。
今川氏真判物(豊明市史より)
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