3月19日、若越城の会の山城見学会に行きました。目的地は駈倉山砦です。駈倉山城は、福井県美浜町にあります。
美浜町の位置(yahoo地図を元に作成しました。)
駈倉山砦の位置(城の会の資料より)
目的地の駈倉山砦は、図の右の中断の○です。似たような名前の砦が左上にあり、狩倉山(かりくらやま)砦といいます。
集合場所は国吉城歴史資料館です。そこから乗りあって織田(おりた)神社という所まで車で移動しました。ここからは徒歩で山登りです。駈倉山は標高約213メートル。「最初に難所があります。棄権していただく方はここで待っていてください」という説明がのっけからあって、ややびびりました。
織田神社駐車場での説明
最初の難所。
結構厳しい急斜面でした。しかし、棄権する方はいませんでした。さすがは城の会!
尾根線伝いに登っていきますと、ようやく砦の境界線である虎口の跡がありました。
食い違い虎口の跡
食い違い虎口からさらに登っていきますと曲輪のある所に行きます。
この砦は曲輪が一つです。
駈倉山砦縄張り図 (城の会の資料より)
まずは北虎口です。
北虎口 曲輪の方から写しました。
黄色い線は土塁で、外枡形の虎口となっていました。
曲輪の周りはぐるっと土塁で囲まれていました。
曲輪を囲んでいる土塁
曲輪は結構広く、多くの人数を収容することができたと思われます。
圧巻は東の虎口でした。
東虎口の一部
残念ながら虎口の一部しか撮影できませんでしたが、写真は虎口の南側の部分で、右端の土塁は曲輪と区切るものです。そのすぐ外側に堀が掘られています。案内の大野さんが立っている左側に馬出状の虎口が展開していました。かなり防御性の高い虎口になっていました。
曲輪の周りは腰曲輪が回っていました。
腰曲輪
なお、この城には鹿の糞が至る所にあり、鹿がここで木の芽や木の皮などを食べていると思われました。
駈倉山城について、これが朝倉氏の出城であるということが言われてきましたが、現状の遺構はそのまま朝倉氏が造ったままのものではなく、「賤ヶ岳の戦い」で豊臣方の将丹羽長秀によって造られたのではないかということを城の会の方々がさかんに議論しておられました。
美浜町の位置(yahoo地図を元に作成しました。)
駈倉山砦の位置(城の会の資料より)
目的地の駈倉山砦は、図の右の中断の○です。似たような名前の砦が左上にあり、狩倉山(かりくらやま)砦といいます。
集合場所は国吉城歴史資料館です。そこから乗りあって織田(おりた)神社という所まで車で移動しました。ここからは徒歩で山登りです。駈倉山は標高約213メートル。「最初に難所があります。棄権していただく方はここで待っていてください」という説明がのっけからあって、ややびびりました。
織田神社駐車場での説明
最初の難所。
結構厳しい急斜面でした。しかし、棄権する方はいませんでした。さすがは城の会!
尾根線伝いに登っていきますと、ようやく砦の境界線である虎口の跡がありました。
食い違い虎口の跡
食い違い虎口からさらに登っていきますと曲輪のある所に行きます。
この砦は曲輪が一つです。
駈倉山砦縄張り図 (城の会の資料より)
まずは北虎口です。
北虎口 曲輪の方から写しました。
黄色い線は土塁で、外枡形の虎口となっていました。
曲輪の周りはぐるっと土塁で囲まれていました。
曲輪を囲んでいる土塁
曲輪は結構広く、多くの人数を収容することができたと思われます。
圧巻は東の虎口でした。
東虎口の一部
残念ながら虎口の一部しか撮影できませんでしたが、写真は虎口の南側の部分で、右端の土塁は曲輪と区切るものです。そのすぐ外側に堀が掘られています。案内の大野さんが立っている左側に馬出状の虎口が展開していました。かなり防御性の高い虎口になっていました。
曲輪の周りは腰曲輪が回っていました。
腰曲輪
なお、この城には鹿の糞が至る所にあり、鹿がここで木の芽や木の皮などを食べていると思われました。
駈倉山城について、これが朝倉氏の出城であるということが言われてきましたが、現状の遺構はそのまま朝倉氏が造ったままのものではなく、「賤ヶ岳の戦い」で豊臣方の将丹羽長秀によって造られたのではないかということを城の会の方々がさかんに議論しておられました。
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