愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

桶狭間の戦い(6) 名古屋市緑区

2013年06月16日 08時50分47秒 | 名古屋市緑区
信長公記(4)

信長は、善照寺砦まで兵を進めましたが、勢いあまった佐々隼人正、千秋四郎が討ち死にをしてしまいました。

信長は、それを見て中島砦に移動しようとしたが、周りはぬかるみで通れず、一本道の状況だった。ここを通れば、兵の数が少ないということが敵方(今川勢)よりはっきりと見えてしまうので、家老たちは、轡(くつわ)の引き手に取り付いて、口々にお止めしたが、信長は、振り切って中島砦に移られた。このとき、兵隊は二千人に満たない数であった。しかし、信長は、再び中島砦を出発しようとした。今度は、無理にすがり付いてとめた。
ここに至って信長公は全軍に訓示した。「敵軍は、夜に大高城に兵糧を運び込み、鷲津砦、丸根砦で戦いをして疲れている。しかしわれわれは、まだ戦いをしていない元気な兵である。小軍であっても、敵を恐れるな。運は天にあるという言葉を知らないものはいないはずだ。敵が向かってきたら、引け。敵が退いたならば、ひきつけて戦え。おおい倒し、追い崩すようにすること。捕虜とせず、首は打ち捨てとすること。戦に勝ち、ここに集まった者の家名の面目は末代までも続くだろう。ただがんばるのみだ。」
と、訓示したとき、前田又衛門、毛利河内、毛利十郎、木下雅楽助、中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人が、手に手に斬首した首を持ち寄ってきた。
信長軍が、桶狭間山の山際まで兵を進めたところ、にわかに雨が降ってきた。石か氷をなげうつように、敵軍の将兵に打ち付けた。敵は後ろの方から桶狭間山を降りようとしていた。沓掛の峠にある二抱えほどもある楠木が雨で東に倒れようとしていた。これを見て「熱田大明神の神軍がこられた」と言い合った。信長は、空が晴れるのを見て、槍を取り、大きな声で、「いまだ、かかれ」と号令を出した。今川勢は、黒煙が立つのを見ると、水をまくように後ろの方に崩れていった。弓、鑓、鉄砲、幟、指物などが散乱した。今川義元の塗輿も捨てられ、くずれ逃げていった。

<注解>
足入り→ぬかるみ、泥沼。
勿体無い→妥当でない、不届きである。
指物→戦国時代以降、戦場で武士が自分や自分の隊の目印として、鎧(よろい)の指筒(さしづつ)に立てたり部下に持たせたりした小旗や飾りの作り物。旗指物。背旗。


この場面が桶狭間の戦いの始まりのところです。よく言われるように、信長は回り道をして後ろから攻めたということは記述されていません。
大変不思議ですが、手勢2000に足らない信長軍が、少なくとも2万は超えるであろうと思われる義元軍を正面から攻めて、いとも簡単に突き崩しています。勝因といえば、にわかに襲ってきた嵐で、今川軍が混乱したことでしょうか。それにしても、信長は空が晴れてきたのを見て、進軍の号令をかけています。嵐の最中に、嵐にまぎれて攻めたということでもありません。実に不思議です。どうして信長軍が勝利できたのか。議論がおおいのも納得できます。

さて、それとは別に、こんな疑問も出てきました。はじめに清州を出た信長は、わずか6騎でした。それが、熱田神宮、丹下砦、善照寺砦、中島砦と進んでいくうちに2000人もの軍勢になっています。善照寺砦で、「夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ」とあるので、主に善照寺砦で、兵を集めたものと思われますが、中島砦に移ったときには、「ふり切つて中島へ御移り侯。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。」と、2000人弱の兵隊を集めています。どうやって集めたのか。疑問に思っています。

桶狭間の戦い(5) 名古屋市緑区

2013年06月09日 08時43分49秒 | 名古屋市緑区
信長公記(3)
信長は、わずかな軍勢で熱田神宮まで来ました。
丹下砦へ
海岸近くを通れば近いのだが、潮が満ちていて、馬で通ることができなかった。そこで熱田より北の方の道を難儀をしながら行軍し、まず丹下砦に行った。そこから善照寺砦、すなわち佐久間大学が守っている砦に行き、兵を集めた。敵軍の今川義元軍は4万5千の兵で桶狭間にて休憩をしていた。
天文21年5月19日午の刻(お昼頃)戌亥(北西)に向けて兵を揃え、鷲津、丸根の砦を攻め落としたので、機嫌をよくして謡を三番謡っていた。家康は、赤武者となって先駆けをさせられ、大高城に兵糧を入れ、さらに鷲津,丸根砦にて奮戦し、辛労なされたので、人馬の休息のため大高城にもどられた。
佐々隼人正、千秋四郎討死
信長が善照寺砦に来たのを見た佐々隼人正と千秋四郎は、300人ぐらいの兵で義元の軍に向かっていったが、千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、約50騎が討ち死にをしてしまった。これを聞いて、義元は、ますます機嫌をよくした。

<注解>
佐々隼人正 別名 佐々 政次。織田信秀に使えていた。小豆坂七本槍の一人である。
千秋四郎 別名 千秋季忠。熱田神宮の大宮司職。羽豆崎城城主。信長に仕えた。



丹下砦跡 光明寺というお寺の裏手の高台です。おそらく、どなたかの私有地で史跡を示す看板等はありませんでした。右側は墓地になっています。


丹下砦跡から南方を望んだ風景です。やはり一望の下に景色が広がっていました。おそらく当時は鳴海城も見えたことでしょう。

桶狭間の戦い(4) 名古屋市緑区

2013年06月08日 17時49分42秒 | 名古屋市緑区
信長公記(2)
信長公記が途中であったので、続きを記載します。


前の日の会議で、戦いについて全く議論もせず家来を清州の城から帰してしまった信長であったが、いよいよ翌日19日、鷲津、丸根の両砦が攻められていることを聞いた信長は戦闘を開始します。

案の定、夜明け方、佐久間大学・織田玄蕃のほうから、鷲津砦、丸根砦に兵が寄せてきているとの連絡が入った。これを聞いた信長は、敦盛の舞を舞い、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と謡われた。そして、ほら貝をふけ、鎧をとれと仰せられ、鎧をつけ、立ちながらご飯を食べ、兜をつけ、出陣なされた。
そのときのお伴は、小姓衆(信長の秘書的な役職で、いざというときは主君の盾となる役目を負った)の岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎で、計6騎であった。6騎は熱田神宮まで行き、辰の剋(午前8時ごろ)に源大夫殿宮(上知我麻神社、現在は熱田神宮の中にある)前から東のほうを見れば、鷲津、丸根の砦が攻め落とされたらしく、煙が昇っていた。このとき、馬上6騎、雑兵200人ぐらいであった。
<注解>
佐久間大学 別名、佐久間盛重。織田信長の家臣。丸根砦を守っていたが、桶狭間の戦いの前哨戦で大高城の松平元康(徳川家康)に攻められて戦死する。
織田玄蕃 別名、織田秀敏。織田信長の大叔父にあたる。すなわち、信長の父、織田信秀の叔父である。官職が玄蕃允であったので、織田玄蕃と言われたと考えられる。信長の後見役のような立場であったらしい。桶狭間の前哨戦で、鷲津砦を守ったが、今川勢に攻められて戦死したといわれている。



現在の清州城です。


現在の熱田神宮本殿です。

荒木集成館 名古屋市天白区

2013年06月02日 17時58分52秒 | 名古屋市天白区
緑区の歴史をもっと知りたいとネットで調べていたところ、「みどりの歴史を訪ねて鳴海編」という書物を見つけ、それが名古屋市天白区の「荒木集成館」というところにおいてあるということで、今日(6月2日)は、さっそく荒木集成館に行ってみました。

画像は、「荒木集成館」のHPを使用しました。

行ってみると、女性の方が玄関からちょうど出てきたところで、「見学できますか」と聞くと、「どうぞ、どうぞ」と、とてもにこやかに応対していただきました。
その方は、「一ノ瀬芳翠(いちのせ ほうすい)」という立派な書道作家の方でした。
今ちょうど「文房四宝―書家の机まわり―一ノ瀬芳翠収集品」という特別展示をしていて、その一ノ瀬さんから直接展示品の説明を受けることができました。


また、これも偶然ですが、「みどりの歴史を訪ねて鳴海編」の著者である淡河俊之(おうご としゆき)さんもこの荒木集成館にいて、2階の常設展示館の展示品を直接聞きながら見ることができました。


ラッキーな一日でした。また、天白区にこのような「博物館」があるとは全く知らず、大発見の一日でした。

桶狭間の戦い(3) 名古屋市緑区

2013年06月02日 09時47分06秒 | 名古屋市緑区
善照寺砦
鳴海宿コースの東の果てに善照寺砦がありました。東西に延びる小高い丘の東端に位置していました。

図の緑色は、小高いところを表しています。西の城址公園から善照寺砦までが薄く緑色になっています。


現在は「砦公園」として頂上付近は広場になっています。また、全体が3段になっていました。2段目には桶狭間の戦いの折、信長が兵を集めたと、案内掲示板に記載されていました。





小高い丘の上にあるので、眺望が大変よかったです。

写真は、砦公園から南東を望んだ景色です。当時は大高城が見えたのかもしれません。