信長公記(4)
信長は、善照寺砦まで兵を進めましたが、勢いあまった佐々隼人正、千秋四郎が討ち死にをしてしまいました。
信長は、それを見て中島砦に移動しようとしたが、周りはぬかるみで通れず、一本道の状況だった。ここを通れば、兵の数が少ないということが敵方(今川勢)よりはっきりと見えてしまうので、家老たちは、轡(くつわ)の引き手に取り付いて、口々にお止めしたが、信長は、振り切って中島砦に移られた。このとき、兵隊は二千人に満たない数であった。しかし、信長は、再び中島砦を出発しようとした。今度は、無理にすがり付いてとめた。
ここに至って信長公は全軍に訓示した。「敵軍は、夜に大高城に兵糧を運び込み、鷲津砦、丸根砦で戦いをして疲れている。しかしわれわれは、まだ戦いをしていない元気な兵である。小軍であっても、敵を恐れるな。運は天にあるという言葉を知らないものはいないはずだ。敵が向かってきたら、引け。敵が退いたならば、ひきつけて戦え。おおい倒し、追い崩すようにすること。捕虜とせず、首は打ち捨てとすること。戦に勝ち、ここに集まった者の家名の面目は末代までも続くだろう。ただがんばるのみだ。」
と、訓示したとき、前田又衛門、毛利河内、毛利十郎、木下雅楽助、中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人が、手に手に斬首した首を持ち寄ってきた。
信長軍が、桶狭間山の山際まで兵を進めたところ、にわかに雨が降ってきた。石か氷をなげうつように、敵軍の将兵に打ち付けた。敵は後ろの方から桶狭間山を降りようとしていた。沓掛の峠にある二抱えほどもある楠木が雨で東に倒れようとしていた。これを見て「熱田大明神の神軍がこられた」と言い合った。信長は、空が晴れるのを見て、槍を取り、大きな声で、「いまだ、かかれ」と号令を出した。今川勢は、黒煙が立つのを見ると、水をまくように後ろの方に崩れていった。弓、鑓、鉄砲、幟、指物などが散乱した。今川義元の塗輿も捨てられ、くずれ逃げていった。
<注解>
足入り→ぬかるみ、泥沼。
勿体無い→妥当でない、不届きである。
指物→戦国時代以降、戦場で武士が自分や自分の隊の目印として、鎧(よろい)の指筒(さしづつ)に立てたり部下に持たせたりした小旗や飾りの作り物。旗指物。背旗。
この場面が桶狭間の戦いの始まりのところです。よく言われるように、信長は回り道をして後ろから攻めたということは記述されていません。
大変不思議ですが、手勢2000に足らない信長軍が、少なくとも2万は超えるであろうと思われる義元軍を正面から攻めて、いとも簡単に突き崩しています。勝因といえば、にわかに襲ってきた嵐で、今川軍が混乱したことでしょうか。それにしても、信長は空が晴れてきたのを見て、進軍の号令をかけています。嵐の最中に、嵐にまぎれて攻めたということでもありません。実に不思議です。どうして信長軍が勝利できたのか。議論がおおいのも納得できます。
さて、それとは別に、こんな疑問も出てきました。はじめに清州を出た信長は、わずか6騎でした。それが、熱田神宮、丹下砦、善照寺砦、中島砦と進んでいくうちに2000人もの軍勢になっています。善照寺砦で、「夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ」とあるので、主に善照寺砦で、兵を集めたものと思われますが、中島砦に移ったときには、「ふり切つて中島へ御移り侯。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。」と、2000人弱の兵隊を集めています。どうやって集めたのか。疑問に思っています。
信長は、善照寺砦まで兵を進めましたが、勢いあまった佐々隼人正、千秋四郎が討ち死にをしてしまいました。
信長は、それを見て中島砦に移動しようとしたが、周りはぬかるみで通れず、一本道の状況だった。ここを通れば、兵の数が少ないということが敵方(今川勢)よりはっきりと見えてしまうので、家老たちは、轡(くつわ)の引き手に取り付いて、口々にお止めしたが、信長は、振り切って中島砦に移られた。このとき、兵隊は二千人に満たない数であった。しかし、信長は、再び中島砦を出発しようとした。今度は、無理にすがり付いてとめた。
ここに至って信長公は全軍に訓示した。「敵軍は、夜に大高城に兵糧を運び込み、鷲津砦、丸根砦で戦いをして疲れている。しかしわれわれは、まだ戦いをしていない元気な兵である。小軍であっても、敵を恐れるな。運は天にあるという言葉を知らないものはいないはずだ。敵が向かってきたら、引け。敵が退いたならば、ひきつけて戦え。おおい倒し、追い崩すようにすること。捕虜とせず、首は打ち捨てとすること。戦に勝ち、ここに集まった者の家名の面目は末代までも続くだろう。ただがんばるのみだ。」
と、訓示したとき、前田又衛門、毛利河内、毛利十郎、木下雅楽助、中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人が、手に手に斬首した首を持ち寄ってきた。
信長軍が、桶狭間山の山際まで兵を進めたところ、にわかに雨が降ってきた。石か氷をなげうつように、敵軍の将兵に打ち付けた。敵は後ろの方から桶狭間山を降りようとしていた。沓掛の峠にある二抱えほどもある楠木が雨で東に倒れようとしていた。これを見て「熱田大明神の神軍がこられた」と言い合った。信長は、空が晴れるのを見て、槍を取り、大きな声で、「いまだ、かかれ」と号令を出した。今川勢は、黒煙が立つのを見ると、水をまくように後ろの方に崩れていった。弓、鑓、鉄砲、幟、指物などが散乱した。今川義元の塗輿も捨てられ、くずれ逃げていった。
<注解>
足入り→ぬかるみ、泥沼。
勿体無い→妥当でない、不届きである。
指物→戦国時代以降、戦場で武士が自分や自分の隊の目印として、鎧(よろい)の指筒(さしづつ)に立てたり部下に持たせたりした小旗や飾りの作り物。旗指物。背旗。
この場面が桶狭間の戦いの始まりのところです。よく言われるように、信長は回り道をして後ろから攻めたということは記述されていません。
大変不思議ですが、手勢2000に足らない信長軍が、少なくとも2万は超えるであろうと思われる義元軍を正面から攻めて、いとも簡単に突き崩しています。勝因といえば、にわかに襲ってきた嵐で、今川軍が混乱したことでしょうか。それにしても、信長は空が晴れてきたのを見て、進軍の号令をかけています。嵐の最中に、嵐にまぎれて攻めたということでもありません。実に不思議です。どうして信長軍が勝利できたのか。議論がおおいのも納得できます。
さて、それとは別に、こんな疑問も出てきました。はじめに清州を出た信長は、わずか6騎でした。それが、熱田神宮、丹下砦、善照寺砦、中島砦と進んでいくうちに2000人もの軍勢になっています。善照寺砦で、「夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ」とあるので、主に善照寺砦で、兵を集めたものと思われますが、中島砦に移ったときには、「ふり切つて中島へ御移り侯。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。」と、2000人弱の兵隊を集めています。どうやって集めたのか。疑問に思っています。