愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

源空院 西尾市

2017年04月14日 16時44分17秒 | 西尾市
浅井西城址を見学したついでに、松平康孝の菩提寺という源空院を訪ねました。


源空院山門

源空院は松平康孝の墓所であるばかりでなく、枝垂れさくらでも有名なようです。


源空院の枝垂れ桜 枝垂れ桜は3月下旬に咲くので、訪れた時はかなり花は散っていて、若葉が出ていました。



松平康孝の墓所であることを表示する石碑


松平康孝の墓(左側)右側は初代住職の一雲の墓です。松平康孝がこの源空院を開いたとき、一雲という高僧を招致したそうです。ちなみに松平康孝の法名は「宝琳院礼翁善忠」というそうです。寺内の案内板に説明してあったので、ようやく松平康孝の墓を見つけることができました。

改めて言うまでもないのですが、昔の武家は、菩提寺をだいたいは持っていることが分かりました。今NHKで放映している井伊氏は龍潭寺、松平太郎左衛門家は高月院、織田家は万松寺等々、セットになっている場合が多いことが分かりました。


浅井西城址 西尾市

2017年04月12日 13時58分48秒 | 西尾市
まるで梅雨のような雨が続いています。おかげでなかなか史跡めぐりができません。
しかし、雨の合間をぬってでかけました。今回は、西尾市です。

三河国二葉松に、以下のように説明があります。
幡豆郡 浅井村古城 在二箇所清康御弟松平十郎三郎康孝西古城
             大津土左衛門東古城也


浅井城は東西2か所あり、西の方に松平康孝(松平清康の弟)、東の方は大津土左衛門という武将の城だったようです。


松平氏系図

ネットで調べますと東古城の方は、どこか特定できないとありました。ので、今回は西古城の方へ行きました。

浅井西城址の位置(地理院地図で作成しました)

名古屋方面から行く場合は、国道23号線をひたすら西尾方面に走り、中原インターを降りて左折(岡崎方面)します。次に「志籠谷(しこや)」交差点を左折して県道479号線に入ります。しばらく行くと「西浅井町」の交差点に出るので、左折します。2本目の道を右折すると「大和興業」という会社があります。そこが浅井西城です。

「大和興業」

まずは、左手に回ってみました。すると、階段がありました。立ち入り禁止の為に中に入ることはできませんでしたが、周りが土塁で囲まれ、その中に建物があることが分かりました。

土塁の中の建物 

建物の屋根が見えますが、下が見えません。ということは、中がくぼんでいるということで、周りを土塁で囲まれていることが分かりました。

さらに進んで行きますと城の北側に堀跡がありました。水堀のようです。それとも後で水が溜まったのでしょうか。

堀跡

さらに北に回ってみると堀の跡が続き、高い土塁が見えました。

北側堀跡と土塁

土塁の上に見える建物は赤い鳥居が一緒に見えましたので、お社でしょうか。

これ以上は北側は進めなくなったので、今度は城の東側に回りました。

城の東側

城の東側にも土塁らしきものがあり、高くなっていました。そして、東側から北側に回りますと、立派な土塁跡を見ることができました。

城北側の土塁跡 
途中切り込みがあり、「曲輪」の中に入れるようになっていました。後世に造られたのでしょうか?それにしても立派な土塁でした。

なお、この城を航空写真で調べたところ、城跡であることがすぐに分かるようになっていました。

浅井西城址の航空写真(グーグル地図で作成しました)

地図には「古城」という地名もあります。案内板ではそのあたりに詰めの城があったのだろうとしています。浅井西城は居城であったとしています。

青塚古墳・経塚古墳 幸田町

2017年04月08日 18時07分24秒 | 幸田町
ちょうど今が桜は見頃です。満開とまではいきませんが、七分八分咲きというところでしょうか。しかし、あいにくの雨。花見も大変だろうなあと、史跡めぐりに行きました。

青塚古墳
今回は幸田町の古墳です。国道248号線沿いに青塚古墳というのと経塚古墳というのがあるというので、訪れました。


青塚古墳の看板

国道248号線の坂崎広野(幸田町)という交差点を北の方に歩いていきますと左側(西側)に土の盛ったようなものが見え、画像のような標識があります。

青塚古墳の紹介
幸田町教育委員会の現地案内板によれば、以下のようです。
本墳は6世紀初頭頃に菱池沼東部農業共同体の最も有力な者の墓として築造された。一見、円墳のように見えるが、幸田町では唯一の前方後円墳である。
 明治43年と昭和4年の2回発掘されており、石室は最も古い形式の竪穴式石室である。出土遺物には、直刀、硝子製小玉・金銅銙・鹿角製柄頭・水鳥埴輪および人骨がある。
 青塚という呼称は、「王塚(オオツカ)」から転訛したものとも考えられる。

金銅銙(こんどうか)とは金属でできた、腰帯につける装飾品という意味です。柄頭(つかがしら)とは刀の柄の先のこと、または、その装飾品のことです。鹿角製とあるので、この場合は装飾品のことでしょうか。



青塚古墳全景(北から撮影)

事前にネットで調べた時は、こんもりと木に覆われていましたが、今日訪れた時は、きれいに木が切られていました。文化財の整備のためであれば、とても素晴らしいと思いましたが、何かの開発のためだったらと、ちょっと心配になりました。

経塚古墳
この青塚古墳から北へ少し行くと経塚古墳があります。


経塚古墳

隣には工場があり、古墳には木が茂り、古墳の頂上には日清戦争の記念碑が建てられていました。案内板もフェンスの枠に遮られて文が全部読めませんでした。残念。

市木辻堂 豊田市

2017年04月03日 16時50分55秒 | 豊田市
カタクリの花の見学の帰りに豊田市の文化財を一つ見に行くことにしました。市木辻堂(いちぎつじどう)といいます。

江戸時代の街道に関連する史跡です。
詳細は、豊田市郷土資料館の案内文を掲載させていただきます。

間口2間半(4.5m)・奥行き2間(3.75m)、建材には主にマツを用い、屋根は茅(かや)葺(ぶ)きの寄棟造で素朴さを感じさせる建物である。見通しが良いことから「四つ見堂」とも呼ばれている。
境内の北端には、文化7(1810)年の記銘のある石の常夜灯があり,辻堂の建築時期も同年代と推定されている。
かつてはこのあたりで、善光寺街道(足助街道)と古瀬間道が交わっており、この辻堂は街道を行き交う人々の一時の休憩所であり、市木の人々のくつろぎの場所であったと思われる。



市木辻堂全景


江戸時代(文化年代)の記銘がある常夜灯

周りにきれいな花壇があり、地域の方が大切にされていると感じました。

カタクリの花 豊田市足助町

2017年04月03日 16時17分53秒 | 豊田市
さわやかな春が来ました。今日は、足助町のカタクリの花を見に行きました。

3月中旬から4月上旬が見ごろだそうです。今日は月曜日にもかかわらず、ファンの方が大勢見えて、カメラを撮っていたり、散策をしたりしてみえました。


カタクリの花が群生する足助町飯盛山

画像では見にくいのですが、左の山の斜面はカタクリの花で覆われています。

少し画像を修正してみました。一面がカタクリの花です。


一つだけではこんな花です。


飯盛山は、以前訪れた飯盛山城のある山です。麓は、紅葉で有名な香嵐渓です。

飯盛山城 豊田市