未熟なカメラマン さてものひとりごと

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写真日記 勝山・久世を訪ねて NO.4 旧遷喬尋常小学校 岡山県真庭市鍋屋

2020-10-22 23:41:28 | 建物
訪問日:令和2(2020)年9月28日


勝山の町並み保存地区を訪ねたあと次に向かったのが、国の重要文化財で映画やTVドラマのロケ地として知られる、旧遷喬尋常小学校校舎です。ナビをセットしていたので、難なく行けると思っていましたが、‘目的地付近です’とアナウンスがあってもわかりませんでした。奥に控えて建てられているので、道路からは見えにくかったのです。小学校校舎の隣では、エスパスランドの屋根の改修工事が行われているようで特に条件がよくありませんでした。後続の車が続いていたので、少々あせりもしました。こちらにはかなり以前に一度だけ訪ねたことがありました。



道路側から見る校舎


シンメトリーの美しい建物 建てられたのは、明治40年7月20日


運営するのは、公益財団法人間庭エスパス文化振興財団 正面に掲げられた校章、設計者の江川三郎八が「久世」の文字を高瀬舟でデザインしている


右側から見たところ 平成11年に国指定重要文化財となった


石碑「幽谷より出でて、喬木に遷る(ゆうこくよりいでて、きょうぼくにのぼる)」中国の古典、詩経の一節。ウグイスが深山の暗い谷間から飛び立ち、高い木に移ることに例えて、学問に励み立身出世するという意味。ここから2文字をとって「遷喬」と名付けた。命名したのは、備中聖人の山田方谷


昔懐かしい時計台


左側から見たところ

シンメントリーの美しい建物。空には青空もののぞき、まずまずの条件でした。
玄関先でスリッパに履き替えていると、係りの方が気軽に声を掛けてくれます。
上り口のところに男女の学生服がハンガーにかけられていました。何か、こちらでの特産物紹介かなと思いましたが、そうではないようです。
係りの方いわく「昔を懐かしんで着替えて楽しむ団体さんも多いですよ!」とのことでした。このイベント、残念ながらコロナの関係で現在では休止となっているようでした。



校舎内にある、学校の説明文


男女の学生服。

こちらで行われたロケの話をしたあと「どちらからお出でになりましたか?」と尋ねられたので、井原市というと、「この校舎を設計したのは、江川三郎八ですが、興譲館の講堂を設計したのも江川三郎八ですよ!」と力説されました。何とあの旧吹屋小学校や、中国銀行倉敷本館もそうだそうで、大いに感心しました。
1階と2階には、教室がいくつもあり懐かしく感じましたが、特に2階の真ん中にある講堂は特に素晴らしいものでした。
これだけの空間を柱なしで構成する技術、天井は格天井でしたが、二段に競りあがるようにつくられており、それは豪華でした。



校舎の模型。設計は、岡山県の多くの公共物の設計をした江川三郎八


この建物は、倉敷美観地区にある旧町役場。現在は、「倉敷館観光案内所」として使用されている。


映画「ALWAYS 三丁目の夕日」やNHK連続テレビ小説などTVドラマの撮影に使用された。


幅広く分厚いマツ材を使用している廊下。木のぬくもりが伝わってくるよう。


教室、教壇から見たところ


みんなの目標。


窓から暖かい日差しが入ってくる。校内ガラスの一部は、角度によって景色が変わる貴重な手造りガラス。


螺旋階段


講堂 広い空間


天井は、折り上げの格天井(ごうてんじょう)となっている

この時間の観光客は、他に二人だけでした。こちらでは、学校給食を体験できるメニューも用意されていますが、コロナ禍の関係でこれまた休止になっているようです。最後に、またまた外観を撮ろうとカメラを構えましたが、ちょうど玄関の向こう側の駐車場に停まっている車が視界に入り、正面からの撮影はあきらめました。
この日、一番気になったのは、やはり設計者の、江川三郎八という人のことでした。機会があればぜひ、詳しく調べてみたいと思いました。


(旧遷喬尋常小学校校舎紹介 岡山県観光WEB)
旧遷喬尋常小学校校舎は、岡山県真庭市にある歴史的建築物。日本の学校建築の設計基準が確立した明治後期における独特な擬洋風校舎として国の重要文化財に指定されている。江川三郎八の設計。

写真日記 勝山・久世を訪ねて NO.1 JR姫新線・月田駅
写真日記 勝山・久世を訪ねて NO.2 三浦邸
写真日記 勝山・久世を訪ねて NO.3 勝山町並み保存地区


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写真日記 勝山・久世を訪ねて NO.2 三浦邸 岡山県真庭市岡270

2020-10-06 23:15:34 | 建物
訪問日 令和2年9月28日
JR姫新線月田駅で懐かしい情景を味わったあと、次に向かったのが、本日一番の目的地、三浦邸です。勝山にはそれこそ何度も訪れていますが、なかなか行けなかった元お殿様の別邸です。私の仕事の関係で、お付き合いのある地元テレビのスタッフの方が、「あのお庭はすごいですよ!」とよく話していたので、ずっと気になっていたのです。
月田駅から、距離にして10km弱、約15分の行程です。位置的には神庭の滝と国道を挟んで反対側というイメージでしょうか。

細い坂道を登ると、やや広めの駐車場に到着、傍らに真白い蔵がありました。この蔵、中が改修されて、現在ではレストラン(=椎ノ木御殿)に使用されているそうです。白やピンクのコスモスが風にたなびき、何とも清清しい気分です。ここからの見晴らしもなかなかのもので、はるか向こうに高い山並みをみることができます。



土蔵は食事処に改修されています。

(周辺に咲いていた花たち)

コスモスが白い土蔵によく映える


小さな花が風に揺れる






赤い花は、キバナセンニチコウ


こちらは、ヤナギハナガサ


キバナコスモス




裏門、ここからも入れるようです


裏庭、屋敷が見えます

ここから、正面玄関へは歩いて5分ほどです。道の片側の傾斜地には、手入れされた杉林が広がっており、まさに森林浴、見ているだけで癒されます。その正門の手前には、大きな椎の木がそびえたっています。一説によれば樹齢400年以上とか。安土桃山時代からここにあったということになりますね。その大きさゆえに、広角で撮ってもなかなか一枚に収まりきりません。



正面に通じる道、杉林がありました


カエデの大木、秋には紅葉も楽しめそうです


門の手前には巨大な椎の木、大きいのでカメラに収まりません


樹齢、400年以上と言われる椎の木

門の正面奥には、格式の高い玄関が見えます。何箇所か行灯形の灯りが付けらとても上品な感じがします。中に人の気配はありません。靴を脱いで玄関を上り左手に廻ると二間続きの畳敷き大広間があります。勝手に障子を開け放つと、その向こうに庭園が広がり、とても贅沢な気分を味わうことができます。抹茶でも一服!といきたいところですが、それは叶いません。
庭園の隅で高齢の女性が1人、草取りをしている姿が見えました。
「こんにちは! 広いから大変ですね!」と声を掛けると、笑顔でハイと短く答えてくれます。
2階に上ると、なかなかの眺めでした。先ほどの女性が、「パンフレットをここの置いておきます!」と下から声を掛けてくれました。



立派な正門 高田城から移築された


玄関


玄関から振り返って見たところ


座敷


書院の透かし彫り


奥座敷


中庭を見る


部屋に置いてあった長持 家紋は、三浦三つ引(中白)


中庭に咲いていたムラサキシキブ


箱階段 階段の下の空間を有効利用する目的で、抽斗 (ひきだし) や戸棚を取り付けた箪笥。 江戸時代の初め、狭い町屋に登場し、箱階段と呼ばれた。 衣裳箪笥や商業用の箪笥が現れるよりも前から使われており、先人達の知恵がしのばれる。


ニ階から中庭を見る


屋根のシャチホコ


二階から、蔵を見る


台所の天井


台所のかまど

この建物は、それほど古いものではありませんが、元殿様が住まいされた、堂々たる構えはさすがだと思いました。
竹塀にかかるように大きなカエデが何本もあり、紅葉の頃は、さぞ美しいのではないかと思われます。
ただ、タイミング的なこともあったと思うのですが、肝心のお庭の剪定ができていなかったことが残念でした。きれいに剪定された直後のお庭をもう一度訪ねてみたいと思いながら
三浦邸をあとにしました。



外から中庭を見る


外のお庭にヒガンバナが咲いていました


遠くから見る椎の木と三浦邸


フジバカマに小さなチョウが停まっていました

(三浦邸 ご案内)
勝山領主となった三浦氏は、明治2年、版籍奉還により10代、107年間の歴史に幕を下ろしました。最後の城主、10代顕次(たかつぐ)が、地元庄屋の支援を受け構えた邸宅です。以来3代にわたりこの地で過ごしました。
平成元年2月、旧勝山町へこの土地を寄贈。屋敷の正門前に、樹齢数百年とされる巨大な椎の木が立つことから別名「椎の木御殿」との呼び名で親しまれています。
第十二代当主の三浦義次さんに嫁いだ佐々木智恵子さんの妹は、アパレルメーカー「ファミリア」の創業者である坂野敦子さんであり、NHKの連続テレビ小説「べっぴんさん」のモデルです。坂野敦子さんは戦時中の疎開先として、当屋敷に1年ほど滞在していました。
真庭観光WEBより)
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倉敷市児島を巡る旅 その2「塩田王国」を築いた野﨑武左衛門の屋敷 

2020-02-14 21:39:34 | 建物
前回 その1「厄除けの総本山として知られる由加山を訪ねて」につづく

旧野崎家住宅


駐車場からすぐのところにある住宅、入口は左側です。

由加山を訪ねたあと、向かったのが、味野の国指定重要文化財・旧野崎家住宅です。距離にして8km、時間にして15分ほどでした。
駐車場から少し歩き、入り口である長屋門を目にすると、その威容はまさに壮観。昨年の秋、訪ねた岡山県矢掛町の福武家住宅長屋門によく似ていると思いました。
まさに江戸時代の大庄屋建築といったところでしょうか。
この長屋門の南隣りに、藩主を迎える、御成門も残されています。



すぐに長屋門が見えてきます


格式の高い構えです。

ところで、パンフレットの表紙には国指定重要文化財・旧野崎家住宅、岡山県指定史跡・野崎家旧宅とあります。
何がどう違うのでしょう。どうして併記する必要があるのでしょうか。
国指定重要文化財の対象になるのは、長屋門、表書院、中座敷、蔵6棟などの主要建物(建物のみ)で、茶室3棟、待合・雪隠、納屋、便所、そして庭園は対象になっていません。
岡山県指定史跡の対象になるのは、それら建物のすべてや、庭園を含む全体のことを指すものと思います。



連続して並ぶ土蔵が美しい


まずは左手の表玄関に向かいます


表玄関

この建物は、江戸時代後期(文政12年)、児島に大規模な塩田を築いた野崎武左衛門(のざきぶざえもん)の屋敷です。
その広さ、敷地面積3000坪、建物延床面積は1000坪もあります。
私が一番興味があったのが、表書院と庭園です。被写体としては最高なのですが、ちょうど撮影のクルーが陣取っており、ここでの撮影は後回しにすることにしました。
一旦スルーし、南側の庭園へ。この庭園が一番華やぐのが、さつきの花が一斉に開花する晩春です。
枯山水庭園には、観曙亭、容膝亭、臨池亭の3つの茶室があり、地面は、ビロードのような光沢のある苔に覆われています。
雑草や枯れ葉は一切見当たらず、とてもきれいに管理されていて驚くばかりです。



表書院下の間


表書院上の間


表書院上の間


大きな飛び石


庭園のクマザサ


茶室・臨池亭


美しい苔で覆われています

もう一つの見どころは、中座敷です。野崎家が住まいの中心とした主屋で、向こう座敷まで九つの座敷が連続しています。その長さ二三間(42m)にも及びます。
主屋は、裏山に接しており、一部くり抜いているところもありました。戦時下、防空壕にでも使用したのでしょうか。
台所、納屋、便所、味噌蔵もきれいに保存されています。
これほどまでに、建物と庭園とが創建当時のまま保存されているのは大変めずらしいことだそうです。
裏から表に回ると、5つの土蔵が連続して並び、実に壮観です。内、二つが展示館となっています。(背後にもう一つあり、全体として蔵は6つ)



中座敷、九つの座敷が連続


台所


漬物小屋


味噌蔵

第一展示館では、製塩の歴史を紹介しています。製塩の工程や資料、ミニチュアの作業道具などを見ることができます。一番びっくりするのが、ポーランド産の一トン半もある円柱の岩塩です。人が触るからでしょうか、つるつるに輝いていました。
展示館を出ると、はや紅白の梅が満開でした。

続いて入ったのが、第二展示館です。例年二月、三月には岡山藩主から拝領した享保雛を初め様々なひな人形が展示されます。
最後に、もう一度表書院を撮影して、旧野崎家住宅をあとにしました。



立派なトクサがありました


紅梅が早くも満開でした


第二展示館、ガラスケースの中にお雛様が並んでいます


ミニチュアの雛道具、とても精巧です


お雛様


享保雛、下から見上げると微笑んでいるように見えます


見事な雛飾りです


ため石


路地、趣きがあります


向かい座敷 野崎家の提灯


最後に表書院と庭園を撮影です

次回は近接する、児島ジーンズストリートを訪ねます。


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シリーズ:井原市の歴史ある名建築を訪ねて

2012-08-22 22:19:48 | 建物

高屋教会

シリーズ:井原市の歴史ある名建築を訪ねて

日本キリスト教団高屋教会教会堂 (岡山県近代化遺産)
所在地:岡山県井原市高屋町1473
建築年:大正2(1913)年
構 造:木造平屋建て(一部2階建) 

高屋町は、「ねんねこ しゃっしゃりませ 寝た子のかわいさ」で始まる「中国地方の子守唄」発祥の地であり、かつては紡績業で栄えた町です。広島県福山市神辺町と接しており、国道313号線の北側を走る旧山陽道を50mほど北に入ったところにある白い建物が高屋教会です。

日本におけるキリスト教は、20世紀初頭大挙伝道を各地に展開しつつありましたが、岡本清は明治34(1901)に、郷里の高屋に戻り、伝道に従事しました。これが高屋におけるキリスト教伝道の始まりです。明治35年「日曜倶楽部」創設の後、明治39年高屋教会が創立され、教会堂は大正2(1913)年に建設されました。

 教会堂の外観は和洋折衷で、屋根はかね勾配(45度の傾斜がある)の切妻和型瓦葺きです。また玄関屋根はむくり(反り)が付けられています。上げ下げ式の窓となっており、妻側の窓には、ギリシャ、ローマ建築など古典主義建築で見られる三角ペディメントが用いられています。イギリス下見板張りの腰部及び窓、木部は建設当初のままと見られますが、全体的に改修及び補強工事が施されており、特に当初は漆喰塗だったと思われる外壁はサイディングに改修されています。屋根瓦は葺き替えられていますが、十字架が印された鬼瓦はそのまま使われています。

 内観は正面祭壇部にはトスカナ式を模したプロセニアムアーチ(客席から見て舞台を額縁のように区切る構造物をいう)が見られます。また祭壇左右の窓にはステンドグラスが当初のまま残されています。天井は和風の竿縁天井となっており、内部は木部のペンキ補修が施されていますが、漆喰塗りの壁は表面の劣化が進んでおり、窓も一部開閉できない箇所も見られます。また祭壇に置かれた椅子やチャーチ・ピュー(信徒が座るベンチ)、オルガンも建設当初から置かれていたものであり、保存状態も良好です。

 現在、高屋町におけるキリスト教信者は、上野家、岡田家など数軒だけとなり、寂しいと、教会堂を管理されている岡田さんのお話でした。

参考文献:岡山県教育委員会発行「岡山県の近代化遺産」、こころの友「教会堂を巡る」より


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甦った洋館

2009-03-30 21:50:51 | 建物

(二階の多目的室 H21.3.29撮影)


(二階の多目的室から見る庭園と福山城)

 福山城隣りの福寿会館(国登録文化財)の洋館の改修が終わり、28日、29日の両日、記念の市民茶会が開催され、おもてなしする側(上田宗箇流)の一員として参加いたしました。
その茶席のお客様に、かつて数十年前にここで結婚式を挙げられた方がいらっしゃいました。
立派に改修されたこの洋館の姿に、当時の記憶がよみがえったのか、感慨深げでした。
28日には、かつてここで式を挙げた夫婦3組が抽選で招かれたそうですが、そちらには応募したものの、当たらなかったそうです。

改修される前は、相当痛みがはげしかったそうですが、ほんとにきれいによみがえりました。
当時は結婚式場の他に市の迎賓館としても使用されていましたが、2003年から市史編纂室となっていました。
その洋館から見る庭園と福山城です。
きれいに剪定された、松が城をいっそう引き立てます。

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