未熟なカメラマン さてものひとりごと

ようこそ、おいでくださいました。

ねんねこしゃっしゃりませ♪ 中国地方の子守唄・誕生秘話 岡山県井原市高屋町

2021-01-21 23:45:14 | 歴史

井原鉄道 子守唄の里高屋駅

井原市高屋町の井原鉄道「子守唄の里高屋」駅の高架のプラットフォームへつづく階段を登っていると、「ねんねこしゃっしゃりませ~」のメロディーが自動的に流れてきます。
ご存知、山田耕筰編曲の、「中国地方の子守唄」です。



高屋町のランドマーク・華鴒大塚美術館 美しい日本庭園(華鴒園)で知られています。

この唄が世に出るきっかけとなったのは、同町出身の声楽家、上野耐之が東京の音楽学校在学中に、山田耕筰のもとを訪ね、故郷で歌われている、子守唄を披露したことが始まりでした。まもなく中国地方の子守唄として発表され、日本を代表する子守唄のひとつとなりました。


上野家の道路わきに設置された中国地方の子守唄紹介盤
耐之は、この山陽道高屋宿脇本陣上野家で出生した。

このことで私が残念に思うことは、なぜ中国地方なのか、ということです。井原市高屋町は、県境にあり、広島県福山市神辺町に接しています。どのあたりで歌われていたのか、そのエリアを特定することは困難かもしれません。
しかし、中国地方は、岡山県、広島県、山口県、鳥取県、島根県の5県にまたがるエリアで、その範囲はあまりにも広いのです。
できれば、高屋の子守唄、もしくは、井原地方の子守唄、もしくは備中地方の子守唄としてもらいたかったと思います。今さらどうすることもできませんが、いつも思う残念な点です。

しかし、調べてみると山田耕筰は東京生まれですが、岡山市に住む姉の家に寄宿し高校に通学しています。しかるに岡山県の地理にはある程度詳しいはずなのですが、あえて中国地方としたのは何か意味があったのでしょうか。



教会堂 高屋におけるキリスト教の歴史は、明治34年、プロテスタント岡本清が神戸から郷里に帰り伝道に従事したことから始まる。教会堂は上野家一族が中心になって資金を出し、大正2年に建立された。

さて、本題に戻りますが、上野耐之は幼いころから母=今(いま)さんの子守唄を聞いて育ちました。
この上野家の血をひく、故Sさんは、寄稿文で次のように紹介しています。
その頃家業は醤油の醸造販売を手掛け、父母はキリスト教に入信、敬虔なクリスチャンとして過ごしていました。耐志もまた両親に伴われ礼拝に出席、その時歌われる讃美歌で、母・今の歌声が一段と透き通る声で美しく聞こえ、信者間でも評判になっていました。

耐之もその影響で歌に興味を持ち、自分も歌の世界を目指し、興譲館中学校を経て東京の上野の音楽学校に進学、作曲家を志望し勉強中、ある日、山田耕筰の門をたたき作曲の指導をお願いしたところ、「君は何が得意か」との質問に「自分は歌が得意です」と答え「それでは君の好きな歌を歌ってご覧」と言われ「幼少の頃母が歌ってくれた子守唄です」と答え、地元の子守唄を披露しました。

「君の声、また歌詞曲、共に素晴らしい、すまないがこの歌を俺に呉れないか」と言われ、この子守唄を、正式な歌曲に仕上げられ「中国地方の子守唄」として世に紹介、広く世の中の人々に愛唱されるようになりました。



当時の面影が残る小路(裏通り)
旧山陽道の高屋の町並み、神辺宿と矢掛宿の合いの宿、江戸時代末期頃から伝わったとされるこの地方の子守唄。あの篤姫も通ったであろう町並みを歩くと、機織(はたおり)の音とともに、子守唄がどこからか聞こえてきそうです。


歌のあと、耐之がお願いしたのが、「ころは、眠たい昼下り、井戸つるべのガラガラ・・・という音がやんで、やがて国道を通る巡礼の鳴らす鈴の音が聞こえてくる、のどかな田舎の村、こんな情景を伴奏にとりいれていただければ幸いです」と。
まもなく中国地方の子守唄として出版されましたが、耐之は、のちに「母の子守唄」としてほしい気持ちであったと、新聞に述べています。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする