未熟なカメラマン さてものひとりごと

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写真日記 岡山県の鍾乳洞を訪ねる 満奇洞(新見市)と備中鐘乳穴(真庭市)

2020-09-24 23:28:35 | 自然
訪問日 令和2年(2020)8月29日

(満奇洞)岡山県新見市豊永
昨年の秋にNHK・BSプレミアムで放送された「八つ墓村」の重要な鍾乳洞のシーンのロケ地となった、新見市の満奇洞(まきどう)を訪ねました。かなり以前に一度だけ訪ねたことがありますが、殆ど記憶に残っていませんでした。
井原から高梁市を経由し国道313線を北上、途中から県道に入り細い道を進みますが、あとはナビ任せ。近くまで来ると第3駐車場の看板がありましたが駐車している車が一台もないため、案内板に従い鍾乳洞直下の第1駐車場へ、余裕で停めることができました。まず駐車場脇のトイレを利用させてもらいましたが、きれいに管理されおり感心しました。これで準備万端、しかし、ここで気になっていたことが1つ。それは三脚の持ち込みです。ダメもとで持参し入洞口に向かいます。急な坂道の途中に、自動販売機のチケット売り場がありました。
そして、入洞口受付へ、あえて尋ねませんでしたが、三脚の持込は指摘されませんでした。



駐車場から坂道を上る


鍾乳洞入り口 意外と小さい

満奇洞の名称は、ここを訪れた与謝野晶子の歌によるものとか。近年ではLED照明を利用して幻想的な雰囲気を演出し、入洞者数を増やしているようです。パンフレットではコスプレ大会も開催しているとのことでした。さて肝心の三脚での撮影ですが、メインとなる赤い橋付近で数枚撮影したのみで、かえって邪魔になりました。
通路で、天井が低いところも何箇所かあり、注意が必要です。昨秋NHKで放映された「八つ墓村」のロケシーンはどこか探しましたが、簡単にはわかりません。再度録画を見て確認したいと思いました。



入り口を入ったところにある洞内休憩所


低い通路


両側に壁が迫りいかにも鍾乳洞というイメージ


千枚田


LED照明で幻想的な’泉水’


象の足


LED照明で彩られた洞内


赤い橋


奥の院


赤い橋と大きな空間


恋人の聖地に選定された’恋人の泉’


LED照明で彩られた洞内


乙姫の寝殿


ケルンの寺院


鍾乳石の岩肌


外に出て駐車場の脇に咲いていたコスモス

ゆっくり散策したあと出口に向かいますが、ここで、お年寄りの団体さんと遭遇しました。
他のお客さんも随分増えてきているようです。もう少し遅かったら、撮影どころではありませんでしたが、いいタイミングでした。外に出ると、カメラのレンズがあっという間に曇ります。外の高い湿度のためでしょう。またまた猛暑の夏に帰還です。


(満奇洞 説明)
満奇洞(まきどう)は、江戸時代末期、猟師が狸を追っているとき発見したといわれ、古くから知られていました。昭和4年に情熱の歌人与謝野鉄幹・晶子夫婦はこの地を訪れ、槇(まき)という地名から「槇の穴」と呼ばれていた名称を地名にちなんで、奇に満ちた洞くつーー満奇洞ーーと命名しました。
満奇の洞 千畳敷(せんじょうじき)の蝋(ろう)の火のあかりに見たる顔を忘れじ ー晶子ー
洞くつは迷路に富む閉塞型の平面に発達した横穴で、総延長は約450m、最大幅は約25mあります。入口のホールをくぐり、鍾乳石の発達した狭いあたりを抜けると、日本屈指のリムストーン「千枚田」が広がり、巨大なホール「龍宮」には無数のストロー(鐘乳管)や、つらら石・流れ石・石筍・石柱がよく発達しています。「夢の宮殿」は断層が2本交錯した場所であり、断層の鏡肌や断層角礫(だんそうかくれき)をはっきりと確認することができます。
満奇洞は昭和52年渥美 清、平成8年豊川悦司、平成16年稲垣吾郎、2019年吉岡秀隆が金田一耕助役をした「八つ墓村」のロケ地にもなったところです。
2014年3月にはLED照明を設置したため、より一層、幻想的な雰囲気になっています!
2019年10月には、満奇洞「恋人の泉」が恋人の聖地に選定されました!
(新見市公式観光サイト えーとこ新見より)

(備中鐘乳穴)真庭市上水田
こうして、この日一番の目的を終え、次の目的地、真庭市「備中鐘乳穴(びっちゅうかなちあな)」に向かいました、車での所要時間は30分ほどです。鐘乳穴は、山陽道北房ICに近いためアクセス抜群ですが、駐車場からの急な坂道を歩かなければなりません。行きはよいのですが、帰りは息が切れそうになります。巨大な石の割れ目が入り口となっています。こちらでは、三脚は持参しませんでした。ご他聞にもれず、天井からぽつり、ぽつりと雫が落ちて地面が濡れています。洞内は、満奇洞以上に天井が高く、金属製の階段も設置していて、高いところから俯瞰できるようになっています。
古い歴史資料にも早くから登場し、地域では有名であったようです。またこのあたりには、7月10日前後に、5000匹の金ボタルが乱舞するとか。一度訪ねてみたいですね。



駐車場から坂道を下る


巨大な入り口が見えてきた


アップで見る


いよいよ探索


巨大な空間 手前の石筍は洞内富士


22階層の鍾乳石


満奇洞を上回る大空間


石筍


大黒柱

(備中鐘乳穴 説明)
平安時代に書かれた『日本三大実録』に記された、文献に残る日本最古の鍾乳洞として知られる鍾乳洞です。駐車場から杉林の谷間を100m下ると高さ20m、幅3mの入り口があります。全長約800mのうち、現在は約300mが観光洞として公開されています。日本一とも言われる22階層の鍾乳石からなる「五重の塔」や、高さ3m、直径5mの大石筍「洞内富士」などのダイナミックな景観に圧倒されます。洞内は一年を通して気温が9度と夏は涼しく冬は暖かいスポットです。6月下旬~7月上旬頃には神秘的なヒメボタル(金ボタル)が乱舞する風景が楽しめます。(岡山観光WEBより)
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井伏鱒二の小説「黒い雨」の舞台を行く。映画を見て私が気になってしょうがなかったこととは!

2020-09-15 22:33:24 | 歴史
(黒い雨とは?)
黒い雨(くろいあめ)とは、原子爆弾投下後に降る、重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物の一種です。核分裂で生成される物質は水溶性ですが、火炎や強風にによって舞い上がった煙の中の泥やほこり、すすの成分が雨滴に吸着して黒い色になったものです。

(黒い雨訴訟)
戦後75年、いまだに原爆と戦っている人たちがいます。広島地裁は、令和2年7月29日、原爆投下直後に降った放射性物質を含んだ「黒い雨」を国の援護対象区域外で浴びた原告84人全員を被爆者として認めました。しかし、広島県、広島市、国は控訴しました。過去の最高裁判断や、健康被害を黒い雨の影響とする新たな科学的知見がないことをその理由としています。また、県や市が求める援護対象区域の拡大に関し、区域の拡大も視野に入れた再検討を行うため、これまでに蓄積されてきたデータを最大限に活用し、最新の科学技術を用いて、可能な限りの検証を行うとしています。今後の展開を注視していきたいと思います。

(映画のロケ地、岡山県八塔寺ふるさと村)
そんな折、先月の初め、映画やテレビドラマのロケ地としても知られる、岡山県備前市吉永町の「八塔寺ふるさと村」を久しぶりに訪ねました。美しい田園風景には心を癒されましたが、その茅葺民家の象徴的な1棟が、八塔寺国際交流ヴィラでした。もともと村のはずれにあったものを、わざわざ映画「黒い雨」のために今の場所に移転させたそうです。
今村昌平監督は、撮影の候補地としてその実際の舞台である小畠(現広島県神石高原町)を訪ねたそうです。しかし当時の状況から随分様変わりしているので、当地での撮影をあきらめ別の候補地を探していたところ、八塔寺の存在を知り決めたそうです。


八塔寺ふるさと村 岡山県備前市吉永町加賀美 撮影日:2020.8.11


小畠村の閑間重松宅に使用された、八塔寺国際交流ヴィラ

(映画「黒い雨」を見て気になったこと)
実際に八塔寺のロケシーンが銀幕でどのように映っているかとても興味がありました。その物語のラスト、矢須子(田中好子さん)が倒れ、救急のトラックで運ばれるシーンがありました。私が気になっていたのは、その後の矢須子のことです。突然終わった感じがして、気になって仕方ありません。
DVDのデジタルニューマスター版では、矢須子が生き延びて原爆投下から20年後に四国の霊場をヤケドの四十男と共に巡礼として歩く原作には無いエピソードが19分のカラー映像として描かれているそうです。しかし映画で、今村監督は最後まで迷ったあげくそのシーンは採用しなかったそうです。(Wikipediaより)
こちらでのロケは100日間もかけて行われました。ある雑誌のインタビュー記事で、田中好子さんは、次のように語っています。
「撮影現場の八塔寺に行ったとき、最初はセーターとGパンだったけど、いつかジャージーになり、スニーカーはサンダルになって、気がついたらもんぺと長靴の毎日。村のたたずまいや合宿生活が私を変えて、矢須子という役に近づいた。」と。


(井伏鱒二の小説・黒い雨には、モデルがあった
井伏鱒二は、旧深安郡加茂町の出身でした。釣り仲間の旧神石郡三和町小畠の重松静馬から、自分が体験した被爆のことをノートにまとめてある、孫の世代に知ってもらうため、ぜひこれを題材にして小説を書いて欲しいと頼まれます。当時東京在住の井伏は、被爆に関してはまったく知識がなく、この日記を使用してよいか尋ねます。すると一向に構わないとの返事。井伏は新潮社と相談し、10万円を新潮社から、後日5万円を井伏が負担し、買い上げています。また、重松に幾度も相談をし、調査の依頼もしています。また、実際の被爆者から聞き取り調査もしています。まさにこの小説は、二人三脚で出来上がったものといえます。当初は、姪の結婚という題でスタートしていますが、途中から黒い雨に改題しています。
物語は、閑馬重松・シゲ子夫妻と、姪の矢須子の3人を主人公に、広島での被爆から、重松の生家である小畠村でのできごとを題材にしています。


(重松日記の誕生)
日記の原本は、重松家に保管されていましたが、重松家現当主の文宏氏ご夫婦の了解を得て、太宰治の研究で知られる・相馬正一氏(そうましょういち:1930~2013)が重松の被爆日記から表記を現代仮名遣いで活字化し、筑摩書房から「重松日記」として出版したのでした。日記の著者は重松静馬となっています。静馬氏が逝去して実に20年後のことでした。
但し、重松日記には、広島から小畠村に帰った以後のことは、一切書かれていません。当時、小畠村の生家には、小学生の養女フミエさん(現当主重松文宏氏の奥様)がいました。重松日記・巻頭の手紙はこのフミエさん宛てに書かれたと思われます。
重松日記は、2001年5月に第一冊が発行され、以降第三冊まで7000部が発行されましたが在庫切れとなっていました。2018年、実に17年ぶりに第四冊1000部が発行されました。



筑摩書房から発行された重松日記 小説「黒い雨」の第一資料

(志麻利で重松文宏さんから聞いた話)

そこで、物語の舞台となった神石高原町小畠を訪ねてその資料を拝見したいと思いました。特に、矢須子のモデルとなった安子さんの物語への関わり合い、その後どのように生きられどのような生涯を送られたのか?を知りたいと思ったのです。

訪ねたのは、黒い雨の資料を保存展示している、ふれあい平和サロン歴史と文学の館「志麻利」です。玄関先で声を掛けると「わざわざ、このために県外からお出でいただきましたか」と恐縮しながら、うれしそうに、迎えていただきました。玄関の受付で記帳し、資料が展示されている畳の部屋に案内されました。この志麻利、週3日のみ開館し、会員が交代で対応しているとのことでしたが、この日はたまたま重松文宏館長が当番に当たっておられたようで本当にラッキーでした。



ふれあい平和さろん・志麻利 右側の建物


重松文宏氏から詳しく説明をいただいた


井伏鱒二(左)と重松静馬氏


井伏鱒二(左)と重松静馬氏


井伏鱒二の原稿 題は「姪の結婚」


展示室


展示室 

展示室は、井伏鱒二と重松静馬氏の出会いから始まって、黒い雨の執筆に至る経緯、また関連する資料が、ぐるりと並べられていました。私は事前にネットから重松日記関連記事を読み、ある程度は理解できていたと思います。重松さんとの会話の中で、何度も「これはよくご存知ですね」と感心いただきました。

重松文宏さんは、当年84歳だそうですが、とてもお元気でしっかりされていました。初め、矢須子のモデル安子さんのご主人かと思いましたが、年齢が合いません。前出の幼いころから養女に入られていたフミエさんのご主人にあたられます。

(訪問日:2020年8月23日)

(矢須子のモデル、安子さんのかわいそう過ぎる生涯)
重松日記の最後の章に、その後の安子さんについて書かれていました。私が最も感心があった部分です。安子さんは、重松夫妻と広島から帰ってきて、翌年結婚しています。その後しばらく子どもはできませんでしたが、9年目(昭和30年)にして待望の第1子誕生。2年後に第2子が誕生したあと軽度の原爆病を発症、昭和35年1月21日、原爆症による心臓疾患で死去、若干35歳の命でした。
映画の矢須子役の女優・田中好子さんは、映画収録3年後に乳がんが見つかりました。以後、表面には出しませんでしたが、女優業も兼ねながら癌との闘病生活が始まりました。そして、こちらも53歳の若さで亡くなっています。


(安子さんは、ほんとに黒い雨を浴びたのか)
小説「黒い雨」では、回想する形で、矢須子は黒い雨を浴びたことになっていますが、重松日記では、一切そのことについては書かれていません。となれば、証言者の話を聞いた中で、あるいは何かをヒントに井伏が創作で書き上げたということでしょうか。このことについて、相馬正一氏も「井伏の思い違いか作り話である」と述べています。小説なので、それは一向にかまわないのですが、この小説の題名であり、とても重要なテーマなので気になりました。

(物語の舞台となった小畠を行く)


小畠の町並み


「黒い雨」のモデル 重松静馬氏生家


井伏鱒二揮毫による記念碑


井伏鱒二「黒い雨」の文学碑


つつじが丘公園から見る小畠の町


「黒い雨」の終章となる乱塔池

最後に、小畠の町を散策して帰ることにしました。実はナビをセットし向かう時、かなりの田舎と思っていたら商店や民家が連なる想像以上の町筋でした。どうしても八塔寺の田園風景がイメージにあり余計にそう感じたのでしょう。物語の舞台となっているスポットを重松さんから教えていただきました。最初に訪ねたのが重松家です(外観のみ)、映画と違って、町並みを見下ろす高台にありました。もともと麦藁葺きでしたが現在はトタンで覆われています。終戦時すでに築200年以上(重松日記)とのことでしたから、最低でも250年以上経っていると思われます。堂々たる構えです。
次に向かったのが、つつじが丘公園です。重松さんから聞いて、おおよその見当はつけていましたが、少し道に迷いました。急な坂を上りきると公園らしきエリアがあり、文学碑と書かれた石碑がありました。文面は次のとおりです。


「戦争はいやだ 勝敗はどちらでもいい 早く済みさえすればいい いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」

重松日記には、その日の日めくりカレンダーから「最も正しき戦争よりも、最も不正な平和を選ぶ」と、ローマの政治家、キケロの言葉が印刷してあった、とあります。この言葉が引用されたのでしょう。
つつじが丘公園の眺望はなかなかのものでした。眼下に小畠の石州瓦の町並みが見えます。
そして最後に向かったのが小説にある鯉を養殖したという池・乱塔池です。
こうして、本日の日程を終え、最後に重松さんにもう一度お礼の挨拶をして小畠をあとにしました。
気になっていたことは解決しましたが、たまたまこの時代に生まれ、悲惨な体験を余儀なくされた広島の人々のことを思うと、いたたまれない気持ちになりました。


ふれあい平和サロン歴史と文学の館・志麻利 広島県神石郡神石高原町小畠1733
 TEL(0847)85-2808 開館日:毎週月・木・日 開館時間:御前10時~午後3時
冬期閉館(12・1・2月) 重松日記はこちらで求めることができます。
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涼を求めて上帝釈を歩く! 日本一の天然橋・雄橋(おんばし)と山野草 広島県庄原市東城町帝釈未渡

2020-09-08 20:41:19 | 自然
訪問日:令和2年(2020)8月23日(日)

猛暑日がつづく8月下旬、涼を求め帝釈峡の渓流沿いの遊歩道を歩いてみたいと思いました。帝釈峡は、中国山地に位置する広島県北東部の庄原市東城町及び神石郡神石高原町にまたがる、全長18キロメートルの峡谷です。国の名勝に指定されており、比婆道後帝釈国定公園の主要景勝地となっています。今回歩くのは、見所の多い上帝釈峡エリアです。
井原市の自宅からの距離は68km、時間にしてちょうど1時間半です。福山市に入り国道182号線を北上しますが、延々と続く坂道。ゆっくり走ると後ろに長い行列ができるので神経を使います。そして上帝釈峡、車を停めたのは、弥生食堂前の第2駐車場です。



弥生食堂 第2駐車場の前にある


散策スタート


早速出迎えてくれたのは、キツネノカミソリ 道沿いの斜面に生えていました


これは、ダイコンソウですね


しっかり身を固めたハイカー、全行程を走破するのでしょうか


渓流のところどころに巨岩

(鬼の唐門)

古い時代の鍾乳洞が崩落し入口だけが天然橋として残っています。高さおよそ8メートルの門はくぐり抜けることが出来ます。さらに門の上には4mの穴「鬼の窓」があります。

(鬼の供養塔)

10mにも及ぶ石柱は、帝釈天に命じられて雄橋・雌橋を造った 陰陽二鬼神の供養塔と言われています。


美しい清流


樹齢数百年?の巨木


何と下の方から新しい若木が成長していました


ここから、とりあえず、天然記念物の雄橋(おんばし)を目指すことにしました。ハイカーの方でしょうか、しっかり山歩きの服装で身を固めた人も多く見かけます。それにしても渓流の何と美しいことでしょう。大きな巨岩も目に付きます。渓流沿いの木陰の道、県南の井原と違って気温は低く感じられました。歩き始めてすぐに見えてきたのが、白雲洞でした。こちらはまだ訪ねたことはありませんでしたが、「入洞はお帰りの方が涼しくてお勧め」との趣旨の看板の文字が目に入ったので。なるほどと、そうすることにしました。

遊歩道周辺には、たくさんの山野草を見ることができます。熱心に撮影している人も何人か目にしました。愛好家にとっては宝の山でも、興味ない人にはただの雑草にしか見えないでしょう。私は詳しくないので花の名前はよくわかりません。でもシュウカイドウや露草もここで見ると、どこか立派で違って見えるから不思議です。球状の花の上にちょこんと止まっている小さなチョウをみつけました。おそらくセセリチョウだと思いますが、体の割に大きな目がとてもかわいく思えました。


(雄橋 おんばし)
全長90m、幅18m、高さ40mの日本を代表する巨大な天然橋。名勝帝釈峡の谷にかかる石灰岩の橋で、その雄大さから「神橋(こうのはし)」とも呼ばれています。

コロナ禍の当日、ここでマスクをしている人いない人は半々のようでした。そして、しばらくして雄橋(おんばし)に到着です。日本一の天然橋、いつみても巨大な姿に圧倒されそうです。ここはまさに撮影スポット。前方から、後方から、そして川に降りてなど何枚も撮影しました。橋の下の湿った暗い場所に小さな石が積み上げられていました。まるで賽の河原のようです。


雄橋に到着。何度見ても圧倒されます。初めて見た人はその巨大さに絶句するとか。


橋のたもとに小石が積み上げられていました


真下からみるとこんな感じ


反対側から


川で遊んでいる人を見ると橋の大きさがわかります


ミズヒキ


ゲンノショウコ


アカツメグサに停まるヒメキマダラセセリ


ヒメジョオン


フシグロセンノウ


ヤブラン



今回はもう少し先まで歩いてみることにしました。帝釈一の急流、断魚渓を目指します。
それでも距離にして500mほど。あっというまです。魚が遡上するのを拒むほど急流ということでしょうか。こうして引き返し、白雲洞を訪ねました。


(断魚渓)

帝釈峡で最も急流を成すところです。これ以上魚が遡上できない、という意味で断魚渓と呼ばれています。太古の時代に海底火山の噴火で堆積した地層で、サンゴやウミユリなどの化石が多数発見される、帝釈台地で最も古い地層です


ピンクの花に停まるモンシロチョウ


お馴染みのツユクサ


ヤマゼリ


美しい渓流


垂れさがる自然の緑のカーテン、地衣類で空気中の水蒸気を吸って単独で育つそうです


名前がわかりません。どなたか教えてください?


大きな木ですが足がタコのように伸びています


こんな軽装でも大丈夫、平坦な遊歩道ですから


美しい清流、癒されます


安全を願う石の観音様、手に持っているのはハスでしょうか

(白雲堂)

マスクをして洞内へ。立派な鍾乳洞です。うまく撮れたかどうかはわかりませんが、こういう場所の撮影、アップで撮影するとなにがなんだかわからない構図になります。なかなか難しいですね。見学して外に出ると、カメラのレンズがあっという間に曇ります。


入り口を入ったところです。今はやりのLED照明でしょうか


瑞穂の滝


天狗岩


石筍 1センチ育つのに200年かかるそうです


蛇イチゴ?


シュウカイドウ

本日の行程、約2時間ほどでしたが随分リラックスできた気がします。
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