未熟なカメラマン さてものひとりごと

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撮影日記 岡山後楽園の幻想庭園と笠岡湾干拓地のヒマワリ

2012-08-29 20:59:30 | 撮影

大勢の人で賑う展望台

撮影日記 笠岡湾干拓地のヒマワリ畑 8月16日(木)

8月の残暑きびしい中、折角の休日もなかなか出かける気力もなく家でじっとしていました。しかしHPもこのところ更新できていなくて、それなら近いところでと、笠岡湾干拓地の100万本のヒマワリ畑を撮影してくることにしました。井原の自宅から30分ほどの距離です。
例年なら、思い切り花を咲かせ一斉に同じ方向を向いている百万本のヒマワリ、青い空に映えて真夏の花にぴったりという印象ですが、当分の間、雨も降っておらず、時刻はお昼前頃のこの炎天下、あまり期待できないかもというのが正直なところでした。

 道の駅ベイファームの駐車場は、予想に反して満車状態でした。15日を過ぎて人出も少なくなっていると思ったのですが、なかなかそうではないようです。
 さて肝心のヒマワリですが、案の上ほとんどが頭を垂れていました。種をつけるとその重みで姿勢を維持できなくなるということもあるでしょう。すでに見ごろは過ぎていたようです。それでも折角なので、畑の中に入り、なんとか被写体となりそうな花を選んで撮影しました。
 花の中心部の種を意図的にとって、笑っている顔、怒っている顔を表現する、よく見る光景ですが、なかなか力作もあって楽しいものです。来年はもう少し早めに来ようと大いに反省した一日でした。




後楽園のビアガーデンで涼をとる人々

撮影日記 岡山後楽園幻想庭園(夜間特別開園)8月7日(火曜日)

岡山市へ出張に出た帰り、後楽園で幻想庭園をやっていることを思い出し、寄ってみることにしました。時刻は、夕方の7時頃、季節的に陽はまだまだ高く、灯りがともるまでには、もう少し時間がかかりそうでした。この幻想庭園、今や岡山の夏の風物詩になった感がありますが、始まったのは、2000年で、今年で早や13回目になるそうです。今年の日程を見ると、7月28日(土)から8月15日(水)で、夜の9時半頃まで開園しているようです。
入園口で、幻想庭園のうちわをもらいました。そのうちわに「年々去来の夏を忘るべからず」と小さく書いてありました。まだまだ明るいのでそれほどの人出はありませんが、中国や韓国の団体の観光客の姿が目立ちました。涼を楽しもうと浴衣や甚平姿の入園者も多く見受けられました。金曜日に浴衣姿で入園すると、入園料(大人400円)がタダになるそうです。いずれにしても涼しげで見ているだけでも気持ちいいですね。

お目当ては、庭園ビアガーデンのみという人もいて、ひたすら目的地に向かって歩いているひとの姿もあります。また、芝生の上にシートを敷いてお弁当を広げるファミリーなど、思い思いに、暑い夏の夕暮れの涼を楽しんでします。不思議なのは、蚊がいないことです。これは随分、助かりますね。
 さて、撮影ですが、この幻想庭園の一番の醍醐味は、幽玄の美といわれるLEDでライトアップされた庭園や、照明、蝋燭の明かりということになりますが、残念ながら三脚を持参していなかったので、逆に言えば明るいうちしか撮影できません。さらに最近、望遠レンズの調子が悪く、ピントが合いにくい状況です。そうこうしているうちに、照明が入り、いい感じになってきたところで、後楽園をあとにしました。


その他の画像はHPをご覧ください。
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愛犬の試練・エリザベスカラー

2012-08-27 21:25:06 | ペット


 愛犬のムック(ミニチュアプードル)が、トリミングでいつもお世話になっているペット美容室のいくみさんから、「あごの下にブツ(吹き出物)ができて、だんだん大きくなっているようなので、一度動物病院で診てもらったらどうですか」と助言をいただいていました。お盆も過ぎ少し落ち着いたので、浅口市金光町にある掛かり付けのH病院で診てもらうことにしました。「悪いものではないようですが、大きくなるまえにとっておかれた方がいいと思いますよ」ということだったのでお願いすることにしました。このブツ、一か所だけでなくあちこちに計、5個もありました。手術は全身麻酔で一晩泊まるようになるといわれました。

そして、手術日の8月25日、10時ごろに行くと、満車状態の多くのお客さんでした。
 最近のニュースで、酷暑のため、犬も熱中症にかっかっていると、きいていたのでそういうことかもしれません。待合では、シーズー、フレンチブルドッグ、柴犬、ゴールデンレトリバーなどいろんな種類のワンちゃんや猫ちゃんでいっぱいです。初対面でも、経験ある先輩?から、体験談をいろいろ聞かせてもらい大いに参考になります。
大病というと、一昨年疥癬(かいせん)にかかったことがありましたが、入院は初めての経験です。子どもたちよりもかわいいと思っているムックのことですから心配でなりません。手術のことはそれほど心配をしていませんが、術後、狭いケージの中でおとなしくしているだろうか、水は不自由なく飲めるだろうかといろいろ考えてしまいます。

お昼の4時頃、病院から「手術は無事に終わりました」と電話が入り、まずは一安心です。翌日の10時に迎えに行くと、首にメガホンのようなものを着けて出てきました。どこかフランシスコザビエルのようにも見えますが、正式には、エリザベスカラーというのだそうです。犬が傷口をひっかかないようにするためのものですが、できれば一週間、少なくとも3日間は我慢してほしいとのことでした。我慢するのは、もちろん飼い主の方です。
犬の方は、見た目よりも負担になっていないとのことでしたが、家に連れて帰ると、動くたびにカラーを「コーン」とぶつけてしまいます。餌を食べるのも、水を飲むのも、おしっこをするのも大変なようです。とにかく3日間が過ぎたら、すぐにでもはずしてやりたいと思っています。考えでみれば、早や8歳、人間でいえばもう50歳近くになります。
片方の目も白内障でだいぶ濁ってきた感じですが、以前亡くなった愛犬ミルのことを思い出し、少しでも長生きさせてやりたいと思っているところです。

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シリーズ:井原市の歴史ある名建築を訪ねて

2012-08-22 22:19:48 | 建物

高屋教会

シリーズ:井原市の歴史ある名建築を訪ねて

日本キリスト教団高屋教会教会堂 (岡山県近代化遺産)
所在地:岡山県井原市高屋町1473
建築年:大正2(1913)年
構 造:木造平屋建て(一部2階建) 

高屋町は、「ねんねこ しゃっしゃりませ 寝た子のかわいさ」で始まる「中国地方の子守唄」発祥の地であり、かつては紡績業で栄えた町です。広島県福山市神辺町と接しており、国道313号線の北側を走る旧山陽道を50mほど北に入ったところにある白い建物が高屋教会です。

日本におけるキリスト教は、20世紀初頭大挙伝道を各地に展開しつつありましたが、岡本清は明治34(1901)に、郷里の高屋に戻り、伝道に従事しました。これが高屋におけるキリスト教伝道の始まりです。明治35年「日曜倶楽部」創設の後、明治39年高屋教会が創立され、教会堂は大正2(1913)年に建設されました。

 教会堂の外観は和洋折衷で、屋根はかね勾配(45度の傾斜がある)の切妻和型瓦葺きです。また玄関屋根はむくり(反り)が付けられています。上げ下げ式の窓となっており、妻側の窓には、ギリシャ、ローマ建築など古典主義建築で見られる三角ペディメントが用いられています。イギリス下見板張りの腰部及び窓、木部は建設当初のままと見られますが、全体的に改修及び補強工事が施されており、特に当初は漆喰塗だったと思われる外壁はサイディングに改修されています。屋根瓦は葺き替えられていますが、十字架が印された鬼瓦はそのまま使われています。

 内観は正面祭壇部にはトスカナ式を模したプロセニアムアーチ(客席から見て舞台を額縁のように区切る構造物をいう)が見られます。また祭壇左右の窓にはステンドグラスが当初のまま残されています。天井は和風の竿縁天井となっており、内部は木部のペンキ補修が施されていますが、漆喰塗りの壁は表面の劣化が進んでおり、窓も一部開閉できない箇所も見られます。また祭壇に置かれた椅子やチャーチ・ピュー(信徒が座るベンチ)、オルガンも建設当初から置かれていたものであり、保存状態も良好です。

 現在、高屋町におけるキリスト教信者は、上野家、岡田家など数軒だけとなり、寂しいと、教会堂を管理されている岡田さんのお話でした。

参考文献:岡山県教育委員会発行「岡山県の近代化遺産」、こころの友「教会堂を巡る」より


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江戸時代 苦節10年ロシアへの漂流民が帰国を果たした物語(最終章)

2012-08-19 10:26:32 | 歴史

岡山県笠岡湾干拓地のヒマワリ畑

歴史ロマン 大黒屋光太夫 
江戸時代 苦節10年ロシアへの漂流民が帰国を果たした物語(最終章)

(前回までのこと)
サンクトペテルブルグで皇帝・エカテリーナ2世に謁見し日本への帰国が認められます。アダム・ラクスマンが遣日使節に任命され、オホーツクから根室に向かいました。
(つづき)

遣日使節団には、船を仕立て38名の乗員を確保するという多大な出費を伴いました。8月21日にカムチャッカを出発し、9月26日に根室半島の厚岸(あっけし)に至っています。ここで光太夫たちは、実に10年ぶりに母国の土を踏むことになります。万感込み上げるものがあったでしょう。ラクスマンは、ここで越冬小屋の建設を申し入れます。季節は冬に向かっており、まもなく辺りは氷で覆われ身動きできなくなり、長期戦を予想してのことです。
早飛脚が松前から幕府に飛びます。それでも届くまでに2週間を要します。つまり、お伺いをたてその返事が来るまで1カ月を要するということですから大変です。時の老中は、寛政の改革で有名な松平定信で、田沼意次と代わったばかりでした。「手荒くしないように、失礼のないように」と指示を出しています。そして11月の初め、蝦夷地派遣団の編成が決まります。冬の根室は寒く、生鮮食料品の確保が難しくなって壊血病が蔓延し、何と漂流民の小市が47歳で亡くなってしまいます。やっと故国に帰れたのに、今までの苦労はなんだったのでしょう。その無念さを想うと気の毒でなりません。

翌年の春、氷が解けると、使節団を乗せたエカテリーナ号は、松前に移動します。交渉は3度にわたってこの地で行われました。
第1回の会談では、ラクスマンより、まず第1の目的は、漂流民を引き渡すということ、次に通商を望んでいることなど、親善を目的とした遣日使節であることを伝えます。そして2回目の会談では、幕府方より、異国との通商はすべて長崎で行われている。長崎入港の信牌(しんぱい)を次回の会談時に与えられる、と伝えられました。そして3回目の会談は、和やかに行われました。長崎入港の信牌が渡され、すみやかに帰国するよう告げられます。ラクスマンは、今後の交渉を次の使節団にまかせることにし、松前を出航、9月8日にオホーツクに帰還しています。ただ、他の説では、信牌を持って長崎に向かうように告げられたにも関わらず、帰ってしまったとも云われています。
18世紀初め、日本は、オランダと清国のみ長崎で貿易を行っていましたが、日本からの輸出品は少なく、大幅な入超となっていました。そこで新井白石は、清国に対し年間30隻と定め、誓約した者だけに発行した許可証が信牌でした。

1793年7月23日、光太夫と磯吉が松前から江戸に向かいました。2漂民は旗本格となり、11代将軍家斉に謁見を許されました。このとき、光太夫は金メダル、磯吉は銀メダルを胸にかけロシアの正装に身を包み、まさに紅毛人のようで、とてもこの国の人には見えなかったようです。
その後、聴き取りがありましたが、光太夫の口述は、非常に詳しく、その観察力の鋭さと記憶力の確かさは、驚くべきものがあったと云われています。
そして二人は江戸に留め置かれ、ロシア情報の独占と信牌を持ったロシア船の長崎来航に備えることになります。そしてその10年後故郷に戻り一時滞在を許されています。伊勢神宮を訪れ、非命に倒れた仲間たちの鎮魂の祈りを捧げています。   
故郷の家族ですが、光太夫には、次姉のみが生存し大黒屋は絶家していましたが、磯吉の家族は、母、兄、姉、妹が元気でいたそうです。また、他の説では、妻は光太夫が死んだものと思い再婚していた、とも云われています。
江戸に戻った光太夫は、妻を娶り子どもをもうけています。そして、1828年4月15日に光太夫は78歳で、磯吉は、1838年11月15日75歳で波乱の生涯を終えています。あの高田屋嘉兵衛は、光太夫の前年の1827年に59歳でなくなっています。
(おわり)
次回は、江戸時代に日本人で初めて世界一周を体験した津田夫ら若宮丸漂流民のお話です。
参考文献:岩波書店 山下恒夫著 新書「大黒屋光太夫」、ウイキペディア

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江戸時代 苦節10年ロシアへの漂流民が帰国を果たした物語

2012-08-06 23:44:37 | 歴史

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歴史ロマン 大黒屋光太夫 
江戸時代 苦節10年ロシアへの漂流民が帰国を果たした物語

(前回までのこと)
淡路島の高田屋嘉兵衛記念館を訪ねたことがきっかけで、江戸時代にロシアへの漂流民となった人たちのことをいろいろ調べています。前回は、大黒屋光太夫が、アムチカ島(アムチトカ島とも)へ漂流し、その後シベリアを横断し、イルクーツクに到着、キリル・ラクスマンに出会うまでを書いています。
(つづき)
当時の大黒屋光太夫を見たロシア人の記録に、「光太夫は他の日本人と比べてその態度と身なりは明らかに違っていた」とあり、誰もが彼を日本の大商人と思っていたようです。ロシアへの漂流民ですが、記録に残っているものでは光太夫たちが5回目だったようです。それ以前には、大阪商人の息子・伝兵衛(デンベイ)、薩摩の権佐(ゴンザ)、南部藩の多賀丸難民などがいました。「ただ日本に帰りたい」というその夢もかなわず、止む無くロシア正教に改宗しロシア人となり、多くが日本語学校の教師になって彼の地に骨をうずめています。そして誰一人、日本に帰ってきた者はいませんでした。
光太夫は、イルクーツクで、訪ねてきた多賀丸漂流民の子どもたちと会っています。そしてその中の1名が、光太夫が日本に帰るときのエカテリーナ号に乗船し、ロシア側の通訳をしています。
当時のロシアでは、日本という国の詳細な情報が入らず、漂流民はまさに日本の情報源そのものでした。日本が資源豊かな国であることを知り、是非、通商を始めたいと思っていました。ロシアの初代皇帝ピョートル大帝以降、シベリアの総督府や知事、出先機関に日本人がいたら是非連れてくるよう指示をだしていたのです。

さて光太夫は、イルクーツクでキリル・ラクスマンに支援してもらいながら帰国嘆願書を総督府に何度か提出していましたが、返事は、ロシアに帰化し日本語の教師になれというものでした。その状況に、キリル・ラクスマンは直接、皇帝に直訴するしかないと光太夫に告げ、共に帝都に出向くよう促しました。形としては、赴任先のイルクーツクでの研究の成果を科学アカデミーに報告するため帝都に赴くキリル・ラクスマンに帯同するというものでした。このとき、仲間をイルクーツクに残して、光太夫が漂流民を代表して一人で向かったのか、それとも全員で向かったのか諸説ありますが、ここでは、全員で向かったという説をとります。帝都・サンクトペテルブルグまでの距離、実に6000キロ。日本の北海道から九州までの距離は2000キロですから、気の遠くなる距離です。

このキリル・ラクスマンの存在と、時の皇帝が、エカテリーナ2世だったということが、運を大きく導いてくれました。カテリーナ2世は、ロシア皇帝の中で最も長い間、皇帝を勤めた温情のある、そして有能な女帝でした。何とかエカテリーナ2世に謁見できた光太夫は、何としても帰国したいという思いを伝えます。ラクスマンからも、漂流民を返すことが、日本との通商を始める一番の近道と、皇帝に申し入れたのでした。皇帝からの申し渡しがあるまで、漂流民は国賓の待遇でした。一流のホテルに泊まり、町を見て歩きます。あまりの華やかさに、驚き感動したことでしょう。漂流中、彼らの一番の幸せのひと時だったに違いありません。そして申し渡しがありました。日本に帰るか、ロシアに残るか、希望をきかれます。これには、光太夫他、3名が日本へ帰ることを希望し、2人がロシアに残ることを決意しました。皇帝は、キリル・ラクスマンの二男のアダム・ラクスマンをロシア使節に任命します。(日本史の教科書に登場するあのラクスマンです)
こうして、すでに改宗した2名(新蔵、庄蔵)がロシアに残りますが、新蔵は、後にやってくる津田夫をはじめとする若宮丸の漂流民の世話をすることになります。帰国組と残留組との最後の別れは、相当つらいものだったでしょう。オホーツクで船と船員が準備され、そして出航、根室に向かいます。ついに帰国の夢が実現することになります。(つづく)

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