未熟なカメラマン さてものひとりごと

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紺碧の海と白い灯台 島根県松江市美保関町 平成29年8月27日(日)

2017-08-31 20:49:22 | 神社・仏閣
最近、県内のしゃれた旅行雑誌に、山陰地方の特集が組まれ、おいしい食事処がいろいろ紹介されていました。久しく美保関方面を訪ねていないことを思い出し、出かけることにしました。
当日は、早朝に自治会の行事があり、家を出たのは10時前でした。天気は薄曇でしたが、徐々に青空が広がり、美保関に着く頃には、快晴となっていました。

最初に向かったのが、美保神社です。ちょうど神社の前は漁港で、イカつり船が見えました。
参道の前には、イカの一夜干しのお店があり竿にたくさんのイカが物干し状態でつるされていました。
そこで思い出されるのが、昨年鳥取県浦富(うらどめ)で見た、回転式イカ干し機です。
あまりにも回転が速いので、思わず笑ってしまいましたが、効率は随分違うと思いました。

さて美保神社を訪ねる前に、寄りたいところがありました。以前から行ってみたいと思っていた青石畳通りです。通りは神社の手前右側にあります。海底の青石を切り出し、参道が石畳となっています。江戸時代から船宿もかねた回船問屋やお土産屋が軒を連ね、なかなか風情のある通りとなっています。当日は晴れでしたが、雨で濡れたら、石畳もなお趣が増すのではと思いました。


趣きのある青石畳み通り


マンホール


石の鳥居の向こうに見える漁港 風情があります



そして、美保神社へ。大きな注連縄が、出迎えてくれます。振り返ると石の鳥居の向こうに漁港が見えて、どことなく絵になります。
神社の格式の高さは外観で感じることができます。拝殿前の陶器製の狛犬の表情がとても愛らしく思えました。ちょうど、ご祈祷を受ける家族がいました。巫女さんが神楽鈴(鈴の付いた棒状のもの)を振り、シャラシャラと音がしてとても優雅に思えました。
これは巫女舞というそうですが、失礼ながら遠くから一枚撮らせていただきました。


神門の大きなしめ縄


愛嬌のある狛犬


巫女舞 神楽鈴の音色がやさしい


境内の様子

次に向かったのが、美保関灯台です。美保神社からは車で5分ほどの距離です。駐車場のすぐ近くに展望台があり、そこから日本海を眺めることができます。天気がよかったので特に海の色が美しく見えました。まさに群青色、右の少し小高い丘に立つ白い灯台とのコントラストは、感動ものです。頭上にはトンビが大きく旋回し、のんびりとした情景に心が癒されます。


日本海が美しい


灯台の白と海のブルーとのコントラストが美しい



この下辺りは釣りの名所


レトロな灯台


この建物は現在ビュッフェになっています。


遠くに隠岐の島を望む

案内板によると、灯台の最初の点灯は明治31年だそうです。石造りのレトロな外観がいいですね。
灯台に隣接した旧事務所と宿舎は、ビュッフェに改修されており、海を眺めながら飲食が可能です。
帰りに、美保関漁港を再度通過しましたが、その透明度に改めて海の美しさを感じました。


美しい漁港


こうして、美保関を後にし、境港付近を通過するころ、大きなマンションのような建物を目にしました。よく見ると何と豪華客船の「ASUKAⅡ」でした。
弓ヶ浜のレストランで昼食を摂ったあと、帰途につきました。今日は天候に恵まれてほんとにラッキーな一日でした。


境港でASUKAⅡを見かけました。


帰りに江府町に寄りました。


こちらは蒜山高原です。


空が印象的でした。
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一企業の打ち上げ花火は立派 片山工業㈱岡山県井原市 平成29年8月26日

2017-08-29 21:16:03 | 町おこし

片山工業㈱正門


会場はご覧のような賑わい

会社から帰宅すると、司会者の大きな声がマイクを通して聞こえてきます。そして軽快なBGMはムードをさらに盛り上げています。
今日は地元企業・片山工業の夏まつりなのです。まつりは夕方の5時からで、大勢の町民が会社の正門を入っていく様子が見えます。私も今日の夕食の足しにと、すぐに出かけることにしました。
この夏まつり、会社関係者だけではなく、地元住民にも広く開放しています。始まったのは、確かもう数十年前だったと思いますが、しばらく途絶えていて、最近また始まりました。
会社の人に聞くと、「社長が変わってまた始めることになった」のだそうです。
準備も費用も大変だとは思いますが、地域にまで開放しているところがすごいところです。
地域の皆さんとの親睦、そして感謝の気持ちもあるのでしょうが、再び開催しようと決めたTOPの方々に敬意を表したいしたい気持ちです。

一番の難関は、国道を渡り切ることです。国道は片側一車線ですが、夕方のこの時間帯は退勤の車で交通量も多いのです。何とか渡りきり会場へ。予想以上にすごい人出でした。模擬店には、すでにどこも行列ができています。
一番奥側にはステージが用意され、順番に出しものを披露しているようです。その時の曲はEXILEの「ライジングサン」メンバーは、私も何かとお世話になっている中国銀行のイケメン選抜隊のようでした。
この模擬店、各部署や、協力工場の人たちが出店しており値段が格別に安いのです。
私は、最初に人事総務担当の牛筋煮込みカレー(300円)に並びました。担当の若い女性の衣装が、アラビア風のファッションで、念が入っており思わず笑ってしまいました。
次に並んだのが、揚げたこ(100円)、さらに焼きそばに並ぼうと思いましたが、長い行列ができていたのであきらめ、フランクフルト(100円)に変更、最後に焼き鳥に並びましたが、列の二人前で、無常にも完売でした。


模擬店も大忙し 牛筋煮込みカレー


カラオケも盛り上がっています。


一応、夕食の食材も確保でき、雰囲気も堪能できたのでここで退散することにしました。あとは、最後のプログラム、打ち上げ花火ですが、夜の8時35分からなので、それまで随分待たなくてはなりません。遅くまでスピーカーから聞こえてくるのは、抽選会の当選番号の発表のようでした。

考えてみれば、今年、台風の影響で井原の花火が中止になり、あとは片山工業の花火だけと地元の期待もなかなかのようです。
私は8時半までに我が家の2階からカメラをセットし、もうそろそろかなと待機していると、花火の開始を告げる司会者のカウントダウンの声、そしてついに花火の打ち上げです。数は、300発ほどと少ないのですが、本物の立派な打ち上げ花火です。
この花火、そして夏まつり、ぜひこれからも続けてほしいと思います。


花火もなかなかのものでした。





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モンテンルパ 人々の熱意が大統領の心を動かした その3 加賀尾秀忍

2017-08-23 21:45:51 | 歴史
(前回のつづき)
それでは、釈放に尽力した人たちを個別に見ていきましょう。
どのような人たちが、どのような立場で訴えたのでしょうか。
ここで取り上げるのが、モンテンルパの父と言われた真言宗僧侶・加賀尾秀忍師です。
(以下、加賀尾 敬称略)


加賀尾秀忍が住職を務めた井原市東江原町の宝蔵院本堂

(その前に、時代の背景)
第二次世界大戦中に、海外で戦没した日本人は240万人。そのうちフィリピンでは約52万人が戦死、一方的に戦場にされたフィリピンでは111万の人が亡くなっています。特に戦争末期のマニラ戦は、米軍との激戦下、市民10万人以上が犠牲になったといわれています。
日本占領時代の三年を経て、また集団拷問や集団処刑、略奪、強姦を経験したフィリピン人にとって、日本人は憎悪の対象でしかありませんでした。

その後、アメリカから独立したフィリピン政府は戦犯裁判を自ら実施することになりましたが、「復讐や報復ではなく、国際法の諸原則に準拠した公正な裁判」を追及しています。
報復感情を抑え、国家の威信と国民の能力を内外に示すべく、法の下での正義の実現を図ろうとしたのです。


フィリピンによる対日戦犯裁判は1947年8月1日に始まり、最後の判決が出る1949年12月28日まで続けられました。2年半の間に73の裁判が開かれ151名の被告が裁かれました。
しかし、裁判には確たる証拠もなく冤罪が疑われる事例もたくさんあったのです。
このような状況下、日本にいる戦犯の家族は、世間からきびしい目で見られていました。

(教誨師:加賀尾秀忍)
加賀尾秀忍は、1901年(明治34年)岡山県真庭郡落合町に生まれました。昭和3年、真言宗京都大学(種智院大学)を卒業と同時に東江原村(現・井原市東江原町)宝蔵院の住職となります。
昭和24年の秋、フィリピン軍の要請でマッカーサーの命令により日本政府の指示によって戦争裁判のための教誨師として派遣されました。モンテンルパのニュービリビッド刑務所(以下、モンテンルパ刑務所)には、死刑囚74名、有期囚、無期囚69名が収容されていました。


ちなみに教誨とは、刑務所、拘置所などの刑事施設に収容されている者の、宗教的要求を満たし、心情を安定させ、規範意識を覚醒させるために、民間の篤志家(とくしか)である宗教家が施設内で行う宗教活動のことです。
昭和25年1月、戦争裁判の残務処理も終了し、加賀尾は6ヶ月の期限が切れて公の滞在をする必要がなくなりましたが、自分を頼りにする戦犯たちを見捨てて帰国することができず、自ら留まることを決意したのです。
刑務所長ブニエ氏のはからいで、刑務所の房の一つを観音堂として、そこに住まわせてもらい、囚人の残飯で生きることになりました。(ブニエ所長が身元引受人を引き受ける)


昭和26年1月、突然戦犯死刑囚14名の処刑が行われました。加賀尾は、当時心臓病を病んでいましたが、自分の体が刑場で倒れようと14名の魂につき従えて引導を渡すためとして、キリスト教教誨師ネルソン氏とともに全員の処刑に立ち会いました。
このあと、多くの戦犯が宗教に望みを託し、キリスト教の洗練を受けたようです。
加賀尾は、マッカーサー元帥、ローマ法王庁にも助命嘆願書を送り、また日本の毎日新聞にも投稿、政財界トップにも救出活動の展開を要請していました。明らかに従来の教誨師の職務を超えたものでした。何とか助けたいと思案していたとき、皆で歌えるような歌で日本の人々に訴えようと発案しました。そして死刑囚の元憲兵・代田銀太郎に作詞を、元将校の伊藤正康に作曲を頼みました。


加賀尾は出来上がった歌を歌手の渡辺はま子に送ります。渡辺はま子とは、ピオ・デュラン元駐日大使を通じて知り合い、手紙のやりとりをしていました。
昭和27年7月、歌は「ああモンテンルパの夜は更けて」という題名となり、20万枚を超える大ヒットとなりました。これにより日本国民の多くが、モンテンルパの実情を知るところとなったのです。


モンテンルパに是非、慰問に行きたいと願っていた渡辺はま子でしたが、約半年かかってついにその願いが実現します。昭和27年12月24日、加賀尾の案内のもと、モンテンルパ刑務所での独房の奥のステージで、「荒城の月」や「浜辺の歌」などを歌い、そして「モンテンルパの夜は更けて」を歌うと、合唱となり、一同は感激と感謝の涙になりました。終わりに全員で国歌を斉唱し、その後の加賀尾の声涙共に下る諭しの言葉と名セリフは一層の涙をそそり、渡辺はま子はテープレコーダーの上に泣き伏してしまったそうです。

渡辺はま子は、最初は振袖姿、イブニング、支那服と着替えて、耳と同時に目の方も楽しませてくれたそうです。
このモンテンルパ慰問録音テープは、昭和28年1月10日にラジオで放送され、大反響を呼び、本格的な戦犯救出の原動力となったのです。

昭和28年5月16日、渡辺はま子から加賀尾にアルバム式オルゴールが届きます。歌に感動した元軍人の吉田義人から送られた2冊のうちの1冊でした。
ちょうどタイミングよく、加賀尾はその翌日、キリノ大統領との会見をゆるされたところでした。キリノ大統領は、その手記に次のように述べています。加賀尾氏は釈放について嘆願するだろうと思っていたら、なにも言わず、オルゴールをお土産として手渡したのでした。「これは何の曲ですか?」と訪ねると、加賀尾は「モンテンルパの囚人が作った曲です。」とだけ答え、これにはいたく心を動かされたと。
キリノ大統領は昭和20年、日米のマニラ市街戦の最中、日本軍の攻撃に巻き込まれて最愛の妻と3人の子供を失っていたことを加賀尾に告げたのでした。


時を同じくして、フィリピン政府外務省に日本から、500万もの嘆願書が届きました。こうした状況に大統領は、ついにフィリピン独立記念日に恩赦を発表します。有期・無期受刑者は釈放、死刑囚は無期刑に減刑し、日本の巣鴨刑務所に移送する旨、発表しました。
二度とフィリピンに戻らないことが条件に、全員が祖国の土を踏むことになりました。短い人で9年、長い人では15年ぶりの帰国でした。加賀尾は、フィリピン政府の特別許可により、処刑され、土葬されていた17名の遺体を自ら発掘し荼毘に付して持ち帰ったのでした。

7月15日、加賀尾を含めた111名が日本政府の用意した白山丸に乗り込み、7月22日、午前8時半に、2万5千人の大群衆が出迎える中、横浜の桟橋に到着したのでした。
大統領は、任期の最終日、日本の巣鴨刑務所にいる無期となった元死刑囚に対しても釈放という恩赦を発表しています。これによりモンテンルパに収容されていた日本人戦犯は全員が完全に釈放となったのでした。

彼らが横浜港に到着した翌日、政府は加賀尾に感謝状と記念品を贈呈しました。彼の並外れた努力と献身を政府も無視できなかったのです。昭和52年(1977)5月14日76歳で生涯の幕を閉じるまで、彼は「13階段(絞首台)と平和」と題して講演を続けました。それは平和を祈る全国行脚の旅でした。


加賀尾秀忍書 「長楽無極」いいことがずっと続きますように 筆者所蔵 僧忍は法名

参考文献:私の戦後60年 戦犯死刑囚/中国特派員(中俣富三郎)2005年11月
参考文献:永井均著「フィリピンBC級戦犯裁判」
参考文献:「あなたの“死にがい”は何ですか?-死生観ノート」(34)大場一石
参考文献:いなほ随想 モンテンルパ死刑囚との交流
参考文献:東京人権啓発企業連絡会 ひろげよう人権
参考文献:NPO法人 国際留学生協会/向学新聞
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蕎麦の種まき 風の駅いでたに 今年度1回目のイベント 平成29年8月19日(土)

2017-08-22 21:54:15 | ふるさと
今年も、第1回蕎麦オーナーイベント「蕎麦の種まき」の案内があり、久しぶりに参加しました。
10時、予定の参加メンバー十数人が、限界集落「いでたに」に集合。吉岡代表のあいさつのあと、すぐに種まきを行いました。当日は曇り空でしたが、時折、夏らしい強い日差しも照りつけます。それでも高地という立地条件のためか、幾分涼しく感じました。それにしても、とても同じ井原市内とは思えません。



いでたに そば畑への道


打合せ

前日に、代表がトラクターで畝と溝を作ってくれていたので、私たちの作業としては、大袋に入っている蕎麦の実を発砲スティロールの丼状の容器で掬い、歩きながら目分量で適量を撒き、そのあと、足で土をかけるという単純な作業です。このあたりの土はいわゆる山土で、やや粘土質で赤みを帯びています。ということで長靴は必需品です。作業は当初1時間の予定でしたが、人海戦術のおかげか、たった30分で終了しました。
もう2ヶ月ほどすると、蕎麦の白い花が咲き収穫は10月の終わりごろでしょうか。



種まき完了後のそば畑 奥行きのある畑です。

あとは、お待ちかねのバーべキュータイムです。
バーベキュー会場は、隣の木立の中にあります。大きな松の木などが高く天に伸び、木陰を作っています。この木を利用してハンモックがいくつもかかっています。今日のために代表が設置したものでしょう。
時折、涼しい風が通り抜け、何と気持ちのよいことか。



バーベキューの準備


ハンモックもあります。


ゴルフ遊びもできます

スイカ、ブドウの果物から始まって、あとはまさに飲み放題、食べ放題の状態です。といっても私は車の運転があるので、アルコールは厳禁でした。各種の焼肉もさることながら、自給自足の野菜、そして代表の奥さまが用意したおにぎりは絶品です。そして、最後の締めは焼きそばです。もうこれ以上入らない、と一休み。ハンモックで横になってゆーらゆーら。
何時間でもこうしていたい気分です。こんな贅沢、よいのでしょうか。


せっかく早朝からウオーキングをし、減量に励んでいるのに、これで、また元に戻ったに違いありません。
代表によると、9年目のこの会を続けるかどうか迷ったとのことですが、多くの会員から、引き続き参加したいとの申し入れがあり、続けることにしたとのことでした。
今年は、山々を歩くウオーキングもイベントとして考えるとのことでした。
当分、お世話になりそうな、「週末は田舎暮らし 風の家・いでたに」です。



木立から見るいでたにの空


遠くの民家にサルスベリがきれいに咲いていました。
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世羅高原農場の“ひまわりまつり” 平成29年8月11日(金)

2017-08-17 20:39:31 | 花の名所

世羅高原農場の入園口

広島県世羅町の世羅高原農場にヒマワリを見に出かけました。こちらのチューリップ祭や秋のダリア祭などには何度か出かけたことはあったのですが、ヒマワリは初めてでした。
ホームページでは、「ひまわりまつり」の開催期間が20日までとあり、あまり日数がなかったのでお盆休みに入ってすぐに出かけたのです。
家を出た頃は、比較的よい天気だったのですが、高速に入った頃から曇り空となり、ついに小雨となりました。しかし何ということでしょう。着く頃には、一部青空が見えるほど回復し、ほっとしました。この時季、一日でお天気がころころ変わるので油断ができませんね。



ヒマワリタワー いったい何本のヒマワリを使っているのでしょう

シーズンということもあり駐車場は、8割方詰まっていて、なかなかの盛況ぶりでした。
やはり、若い男女のカップルや、女性連れ、親子連れが多く、東南アジアからと見られる外国人観光客の姿も多く目にしました。
入園料は、やや高めの800円、入園口を入るとすぐ正面にヒマワリのタワーモニュメントがあり、そして左右の畑にヒマワリがほぼ満開で広がっていました。一番に思ったことは、よかった、見ごろを過ぎていなかった、間に合ったということでした。
ただ、ヒマワリの背が高すぎて、一面の畑を上から見下ろすアングルでの撮影はなかなか困難でした。脚立を用意していたカメラマンもいて、うらやましく思いました。



満開のヒマワリ


右手には八重咲のヒマワリ


サルビアも咲いていました


微笑ましい親子

唯一の望みは風車展望台でした。なんとか、ここで開花したヒマワリを正面から撮影することができました。整然と並ぶヒマワリ、何だか見つめられているような気がするのは私だけでしょうか。
種類もいろいろでした。ゴッホが描くような八重咲きタイプのものも一面に植えてあり、中央部が黒く、葉が白いものや、背丈の低い種類のものもありました。
パンフレットによりますと、傾斜のある丘陵地に50種類、110万本植えられているそうです。サルビアも3万株植えられていて、黄色とブルーのコントラストはなかなかのものでした。
また迷路もあって子どもたちに人気のようでした。
林の日陰で小休止すると、高原の風がさっと吹いてとても清々しく感じました。



風車展望台から見るヒマワリ畑


花弁が白のめずらしい品種です。


こちらもめずらしい


初恋の丘の広大な八重咲のヒマワリ畑

ぐるりと主要部分を見たあと、味がよいと評判の朝どれのトウモロコシを10本ほど購入して農場をあとにしました。
帰りにこのところよく立ち寄る、甲山いきいき村の人気そば処「そば茶屋いきいき」でおいしいそばを堪能し、世羅をあとにしました。
結局、連休中出かけたのは、この一日だけでした。我が家は長男の家系なので、親戚の訪問も多く、子どもたちも帰ってきて、ずっと忙しくしていましたし、ましてや夜の花火などなかなか出かける気力もわきませんでした。
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