未熟なカメラマン さてものひとりごと

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古都 奈良の歩き方

2012-09-27 21:43:23 | 観光名所

世界最大の木造軸組建築物 その大きさに圧倒されます。

9月22日(土)、職場の親睦旅行があり、久しぶりに参加しました。今回の旅行先は、観光都市奈良です。行程表には、東大寺大仏殿~興福寺・阿修羅像~平城宮跡とあり、いずれも奈良を代表する観光名所ばかり、どこか修学旅行のようでもありました。でも、自分なりの被写体を見つけることができるのではと、期待もありました。前回、奈良を訪れたのは、平成20年の7月ですから4年ぶりとなります。
井原を定刻に出発、途中、事故による渋滞もあって、少し心配しましたが、最初の訪問地・東大寺の駐車場になんとか予定の時刻に到着しました。この駐車場は、南大門のすぐ近くにあり、散策にはとても便利です。
車を降りて、すぐに気づくことがありました。東アジアの若い外国人の団体です。おそらく中国か韓国の観光客でしょう。昨今、領土問題で揺れる日中・日韓ですが、このような光景を見るとほっとします。

参道に出ると、あちらこちらに鹿の姿がありました。特に小鹿は見ているだけで気分も癒される感じがします。多くの人が写真に撮り、お相手をする小鹿もうんざりかもしれません。そしてすぐ目の前に南大門。運慶快慶作の巨大な金剛力士像を眺め、少し歩くと大仏殿です。ここで、一行は大仏殿希望者と、戒壇院希望者とに分かれました。戒壇院には行ったことが無く、興味もありましたが、被写体としては、やはり大仏殿です。
それにしても、今日は何ともさわやかな一日でしょうか。青い空に秋の雲が点々と広がり何とも言えません。受付を過ぎると、回廊沿いにハギの花が咲いてまさに秋の風情です。
正面に大仏殿を拝むと、改めてその大きさに感動さえ覚えます。時は天平の時代、聖武天皇の発願で建立された、大仏殿(東大寺金堂)と大仏(盧舎那大仏)。その歴史の中で何度か兵火に会い消失、そして復元、修理されて今日にその姿を見せています。大仏殿は、当時に比べ、高さ、奥行きは現在のものと変わりませんが、横幅は、1.5倍もあったそうです。世界最大の木造建築物といいますが、近代においては、集成材によりさらに大きなものが建築され、正しくは木造軸組建物として、世界最大というのだそうです。

線香の煙を浴びて、大仏殿に入るとちょっと薄暗い中に、でーんと存在感のある大仏様。
ぐるりと回って見物を終えたあと、すぐに出口に向かいます。残された時間で、撮りたいところがいろいろあったからです。大仏殿の後ろ側を通って最初に向かったのが、二月堂裏参道です。瓦が組み込まれた土塀が続き、何ともいい感じなのです。急いで辿り着くと二月堂の裏山から下る水路に、以前見つけたように沢ガニを探しました。ずっと眺めていると、隣で同じように探していた女性といつのまにか共同作業になっていました。「ほら!あそこにいますよ!」「ほんとですね!」「ほら、ここにも!」といった感じ、なにげなく居合わせた者同士が気軽に会話できる、こういうのも旅の楽しみですね。この沢ガニ、最近、野生化したアライグマに食べられて激減しているそうです。こんなところにカニがいるという意外性。環境がいいのでしょう。これからも繁殖し続けて欲しいと願うばかりです。(つづく)

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旅日記 広島県三次市を訪ねて 平成24年9月15日(土)

2012-09-24 23:01:34 | 観光名所

広島県立歴史民俗資料館の日本庭園 

3連休中、唯一雨マークが無かった15日に、三次(みよし)市を訪ねました。井原からは、距離的に府中市を抜けて行くのが一番だと思いますが、あの信号の多さを考えると、少々遠回りでも、ついつい高速を利用し世羅ICまで行ってしまいます。世羅ICから三次までは北へ北へとひたすら走り続けます。信号がほとんどないので助かります。
最初の訪問地は、広島三次ワイナリーです。単に三次ワイナリーでいいと思うのですがどうして広島が頭についているのでしょう。駐車場はほぼ満車状態でした。最初にやってきたのがワイン売り場、試飲もできますが車の運転があるのでそうもいきません。ひととおり見た後、広場に行ってみることにしました。この日は、イベント開催の日だったようで、特設テントには、たくさんのお店が出ていました。時刻は11時過ぎでしたが、先にレストランで食事をすることにしました。バーベキューのセットにしましたが、広島牛の何とおいしいこと、そしてご飯もなかなかのものです。あまりのおいしさに感激して、店の方にどこのお米か、産地を尋ねると、三次産のコシヒカリとのことでした。
ちょうど、その頃、急に雨が降ってきました。それも土砂ぶりです。特設の舞台では、神楽が演じられるようでしたが、一旦中止となって様子見です。それでもみんなの願いが通じたのか、20分ほどたって帰る頃にはで日差しが見え始めました。
そして駐車場に戻るころ、太鼓の音が鳴り響いていたので神楽は再開されたのでしょう。

そして駐車場から次の目的地、奥田玄宋・小由女美術館に行こうとナビをセットすると、何と目の前との表示。見ると駐車場の向こう側に、しゃれた建物がありました。外観的には、どこか体育館のような感じがしました。駐車場から道路を跨ぐ陸橋があり、直接美術館に行くことができます。入口に入ると左側にレストラン、受付は右側の奥にありました。入館料は1000円で少し高めです。JAFカードを持っていたのを思い出し、特典があるかどうか尋ねると、有難いことに100円値引きになってポストカードが付いてきました。
私のここでの楽しみは、2階屋上に薄く水を張った人口池です。島根県立美術館グラントワや岡山県の成羽美術館、滋賀県の佐川美術館など近年では多くの美術館で用いられる手法です。最近では、美術館友の会で行った鳥取県の植田正治写真美術館のコンクリートの建物の間にスリット状に作られたスペースに水が張られ、見えるのは逆さ大山。なかなか絵になる景色でした。
こちらの美術館の池のウリは、水面に映る満月の月だそうです。そして満月の日は夜9時まで開館するとか。当日は特別展・棟方志功「幻の肉筆画展」が開催されており多くの入館者の姿がありました。力みなぎる作品には圧倒されるようでした。そして文化勲章も受章した奥田元宋の大作の数々、奥田小由女の繊細な装飾が施された西洋人形。なかなか見応えがありました。

そして最後に訪れたのが、広島県立歴史民俗資料館・広島県立みよし風土記の丘です。名前から古墳があるのは容易に想像ができましたが、驚いたのが県立歴史資料館です。あまりの立派な建物にびっくりしました。そして、とても立派な庭園もありました。広い芝生もあって、春や秋、のんびりするには最高の穴場かもしれません。当日、大学の先生のセミナーがあってか駐車場は満車でした。ちなみに古墳の数は176もあるそうです。
帰りに、国道184号沿いにある「世羅なし」と書かれた看板のお店で、「幸水」を買って帰りました。これがなかなか甘くて最高なんです。 

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江戸時代世界一周を体験した男たちの物語

2012-09-19 21:16:20 | 歴史

雨上がりの広島三次ワイナリー 本文とは関係ありません

7月に淡路島・高田屋嘉平衛記念館を訪ねたのをきっかけに、江戸時代にロシアへの漂流民となった人たちのことを調べています。前回は、石巻若宮丸の漂流民・津太夫たちがイルクーツクに辿り着き、皇帝にペテルブルグに呼びだれるまでのことを書いています。

一行は、7台の馬車に分乗して昼夜を問わず首都ペテルブルグに向けて走り続けました。途中で体調を悪くしたり、病気にかかる者もいて何人かが脱落しました。それでもやっとモスクワに辿り着きます。そしてペテルブルグへ。イルクーツクからペテルブルグまで、実に7000キロ、49日間を要しました。悪路の道を一日平均140キロ以上走るのですから、それは過酷な移動でした。
彼らは到着してすぐ、商務大臣ルミャンチェフの屋敷に引き取られました。そしてそれから、皇帝に謁見するまでの15日間、彼らは国賓の扱いを受けています。光太夫のときもそうでしたが、イルクーツクとは比較にならないほど華やかな街、見るものすべてがめずらしく、ここでの滞在は彼らにとって、夢のような日々だったに違いありません。またほんとうに久しぶりに海の匂いも嗅いだことでしょう。そして謁見のとき、皇帝アレクサンドル1世(若干26歳)が10人にそれぞれ帰国の意思を確認すると、津太夫、左平、儀平、太十郎の4人が帰国の意思を表明し、6人が残留を願い出ました。4人に対しては、その後も帰国するまで国賓並みの接待が続きました。

そして帰国の船が決まり、出航のとき、彼らは、残留組の仲間たちと10年間滞在したロシアに最後の別れをします。
この帰国の船は、アレクサンドル1世とレザノフの支援下でロシア最初の世界一周艦隊の指揮官となった、クルーゼンシュテルンが指揮する旗艦ナゼージダ号とネヴァ号の二隻です。もともと漂流民返還に伴う通商交渉と、この世界一周の話は、まったく個別のことでしたが、結局、二つの話が相乗りする形となりました。距離的には、光太夫がとった、イルクーツクまで引き換えし、オホーツクから千島、根室に至るコースが最短だと思いますが、期せずして津田夫たちは、自らの意思とは全く関係なく、世界一周する船に同乗することになったのです。
ここで登場するのが、歴史の教科書にも登場するあの有名なレザノフです。彼はどのような人物だったのでしょうか?

1764年にサンクトペテルブルグに生まれ、砲兵学校を出て近衛連隊に入隊、その後退役して地方裁判所の判事となりました。その後、サンクトペテルブルグ裁判所に勤務し、のちに海軍省次官秘書などを勤め、1791年に官房長となっています。このとき若干27歳、とても有能な人物だったということがわかります。このころまでに毛皮商人のシェリホフと知り合い、この事業に興味をもって、その後会社の指導者になっています。そして合同アメリカ会社の経営者となり、同社は国策会社露米会社に発展しています。アラスカからカムチャッカに延びるアリューシャン列島、及びカムチャッカから千島列島の統治を許可されています。レザノフは、露米会社の食料打開や経営改善には南にある日本との交易が重要と考え、遣日使節の派遣を宮廷に働きかけていました。
先のアダムラクスマンが持ち帰った信牌を手に、正式に2回目の遣日使節として皇帝より任命され、隊長としてこの船に乗り込んでいます。

それから、この船には、ロシアやヨーロッパ各地の博物学者・天文学者・画家たちも乗り込んでいました。彼らの資料や、絵は当時の日本をはじめ世界の多くを知る研究材料として、科学アカデミーに残されています。そして、レザノフの通訳として漂流民・善吉も乗り込みました。
(つづく)

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惜しかった100万人目の入場者 

2012-09-13 22:15:19 | 観光名所

100万人目の入場者 福山の佐藤さん親子 笠岡市長から花束を受け取り満面の笑顔

9月8日の土曜日、愛犬ムックの手術後の抜糸をしてもらうため、金光町のH動物病院に行った帰り、ふと「道の駅笠岡ベイファーム」でコスモスが咲いているのではと思い、衝動的に寄ってみることにしました。ヒマワリが終わり、幾分ひっそりとした感じではありましたが、臨時駐車場にも随分車が入っていました。
コスモスは、ごく普通の白とピンクのお花畑、その間にキバナコスモスが植えてあり、フラットな畑で壮観ではありましたが、花が小さいのと種類が少ないのとで少し物足りなさを感じました。おまけにアップで撮影しようと思っても、断続的に風が吹いてなかなか集中できません。おまけにお花畑には雑草も目立ち、少々残念な気がしました。といってもこれだけ広いと、人の力で草をとるわけにもいかず、悩ましいところです。

このあと、名物のソフトクリームを買おうと、道の駅に行きました。隅のテーブル席でソフトクリームを食べたあと、入り口に向かいましたが、どことなく、ざわざわしている感じがして違和感がありました。そこで注意して目を凝らすと、なんと入り口手前の上の方にくす玉があるではありませんか。何かセレモニーが始まるようです。それならとカメラを構え期待を持って眺めていました。

すると、先ほど私の前に道の駅の建物に入ったファミリーの親子4人(母親と小さな子どもたち3人)が呼び止められ、くす玉の下に案内されました。そして、待機していた三島笠岡市長とともにくす玉の紐を引っ張ると、「祝 ご来場100万人目おめでとうございます」と書かれた垂れ幕が下がりました。そして拍手の中、市長からバラの花束、駅長から笠岡産のぶどう一箱が手渡されました。事前に待ち構えていた報道陣のカメラのシャッター音が響きます。私もその中に交じって撮影をさせてもらいましたが、位置取りが悪くてなかなかいい角度が確保できません。しかし、なんとおしいことか!もう少しで新聞に載ったのにと、思う反面、いやいや、醜態をさらさなくてよかった、と微妙な心境でした。しかし、どうやって100万人目をカウントするのだろうと思ったりもしましたが、それはさておき被写体としては、このようなファミリーがぴったりと納得です。

翌日の新聞によりますと、入場者100万人目となった、福山市在住の佐藤さん親子は、このベイファーム、初めて訪れたとありました。また、ベイファームのホームページには、当日、午後1時から100万人目来場のイベントが開催される旨、お知らせがありました。
この道の駅・笠岡ベイファームは、昨年の8月4日にオープンし、1年1ヵ月で100万人目の入場者となりました。これからが正念場だと思いますが、駅周辺の広大な農地を活用してさらなる発展を期待したいと思います。これからも、春は菜の花、夏はヒマワリ、秋はコスモスとなるのでしょうが、管理を徹底していただき完成度の高い花畑を期待して止みません。

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ベンガラ色の家並みが続く吹屋を訪ねて=岡山県高梁市=

2012-09-11 22:38:15 | 古い町並み

町並みから吹屋小学校に向かう坂道の脇にある食堂の田舎そばは絶品です。

9月2日の日曜日、青空が見えたので、久しぶりに高梁市吹屋の町並みを訪ねました。醍醐桜(場所の確認)と勝山の町並み、神庭の滝などの真庭市と、どちらにしようかと直前まで迷っていましたが、結局、近場を優先し、吹屋にしました。近年、道路が整備されたので非常に行き易くなりました。広い駐車場も整備されて、受け入れ態勢も十分です。

途中で、広兼邸の案内板が見えたので、先にそちらへ寄ってみることにしました。カーブの多い狭い山道を進むと、山の中腹にこつ然と姿を見せる広兼邸。その石垣の重厚さと存在感は圧倒的で、まるで城郭のようにも見えます。横溝正史の小説「八つ墓村」の映画化に伴い、たびたびロケ地として使用されていることは有名な話です。駐車場から、坂道を登ると、脇の石垣から赤と白の花をつけたハギが交互に垂れ下がり、季節感を感じさせてくれます。そして正門の前まで来て、眼下に目をやると、素晴らしい眺望です。下の駐車場にボンネットバスが入ってくるのが見えました。吹屋では、片山家住宅が、国の重要文化財に指定されていますが、同じ江戸時代後期に建てられたこの広兼邸が、どうして指定されないのかいつも不思議に思います。見学を終えて、駐車場まで戻るとボンネントバスにお客さんが乗り込んでいました。当然のことながら、エアコンは無いので窓はすべて開放。扇子やうちわは必需品のようです。

このあと、吹屋の町並みで食事を摂ることにしました。お目当ては田舎蕎麦。私の勤務する会社でとても蕎麦好きの方がいて、どこの蕎麦がおいしいか、いつも話題になりますが、この休憩所の田舎蕎麦が最高とのことでしたので、今一度、その味を確認しておこうと思ったからです。(ということですが、実はこちらのお店、個人的には3度目になります。)季節的にざるそばでもと思いますが、こちらでのメニュー、田舎蕎麦はあってもざる蕎麦はありません。この田舎蕎麦、具がいっぱい入っていて、素朴ですがなかなかの味わいです。450円というお値段もうれしいですね。時刻は午後2時を過ぎていましたが、お店には先客が5名いました。

お腹が膨れたので、町並みの観光の定番、吹屋小学校と、遠目にラフォーレ吹屋を見た後、町並みを散策しました。
通りの真ん中あたりに、ブルーシートをかけて修復している建物があって、町並み全体を撮ろうと思っても、どうしても視野の中に入ってしまうので、とても残念に思いました。町並みには少ないながらも、観光客の姿がありました。少しカーブして下る通り。ベンガラ色に統一されて続く町並みには、いつもながら心を癒される感じがします。



吹屋の町並みには心を癒される感じがします。
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