未熟なカメラマン さてものひとりごと

ようこそ、おいでくださいました。

岡山県総社市 吉備路五重塔と菜の花畑、日本百名城・鬼ノ城を訪ねて

2022-03-12 22:55:42 | 歴史
訪問日:2022年2月28日(月)
2月の最終日、青空が広がり、撮影意欲を掻き立てる朝でした。このところ午後から風が強くなり、雲が広がる傾向があるため、早めに家を出発することにしました。
久しぶりに総社市の備中国分寺と鬼ノ城(きのじょう)を訪ねることにしたのです。

向かう途中、いつものように矢掛の町並みにある老舗のお店で旬の“いちご大福”を買い求め、すぐに倉敷市真備町を経由して吉備路・国分寺に向かいました。


備中国分寺五重塔周辺を歩く


菜の花畑と備中国分寺五重塔はこの季節の定番カット


吉備路自転車道

緩やかな丘陵地の田んぼの向こうに、堂々とそびえる重要文化財の五重塔が実に絵になります。その田んぼの一角に、菜の花が植えられており見ごろとなっていました。
この季節を象徴する菜の花と五重塔は、カメラマンお決まりの構図です。


こうもり塚古墳

菜の花畑を撮影したあと、散歩がてらに、こうもり塚古墳を訪ねてみることにしました。
小山のように見える前方後円墳。後円部石室の巨大な石組と石棺には驚くばかりです。その大きさは奈良の石舞台古墳にも匹敵するといわれています。
6世紀後半、古代の人はどのように運び積み上げたのでしょうか。また貝殻石灰岩をくり抜いて造られた石棺は、現井原市野上町から運ばれたとありますが、その距離も気になるところです。
このあと、国分寺の梅林を訪ねましたが、残念ながら見ごろはもう少し先のようでした。



石室の入り口


堅牢な石組


石棺


出口付近 スケールの大きさに圧倒される


備中国分寺正面


梅園の白梅と五重塔


境内の地蔵様


こんもりと繁るモンキーポッドのような巨木

日本百名城 鬼ノ城(きのじょう)

そして次に向かったのが、鬼ノ城です。平野部からも山の頂上にその姿を確認することができます。
つづら折りの山道を、対向車が来ないことを祈りながら進むこと10分。やっと駐車場に到着しました。周辺には民家も見られ驚きます。駐車場からきつめの坂道を歩いて進むと、脇道にそれる感じで学習広場があり、ここからの眺めが一番のビュースポットになっています。



古代山城 鬼ノ城遠景



復元された西門


学習広場に続く散策路


7世紀後半に築かれた


西門を内側から見る


素晴らしい眺望


逆方向から見る


城壁の内外に敷石を残す


高さ約6mの版築土塁

鬼ノ城は、古代の山城で大和朝廷が倭国防衛のため、7世紀後半に築城したと伝えられています。
遺構は保存状態がよく、西門付近では、柱の本数や大きさ、土塁や石垣が完全な形で残されていました。城の周囲は、2.8㎞、この西門が木造で復元されており、古代の山城を象徴するシンボルとなっています。
眺望は実に素晴らしく、森林浴で気分もリフレッシュ、おまけに他の観光客の姿はほとんどなく、たまにすれ違うハイカーとの、「こんにちは!」と交わすあいさつも心地よいものでした。


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北前船で栄えた日本遺産・御手洗は遊女が支えた港町だった。

2021-04-01 19:51:27 | 歴史
訪問日:令和3(2021)年2月21日


本州と下蒲刈島とを結ぶ安芸灘大橋(有料)平成12年1月開通・長さ1,175m 大津泊庭園から

久しぶりに広島県呉市を訪ねました。一番の目的地は、大崎下島の御手洗(みたらい)です。
訪ねるのは、橋で陸続きとなってから2度目です。自宅からの所要時間は2時間半、距離にして146kmでした。
ナビを信じて進むと何と、安芸津港にやってきました。フェリーでの案内でした。これには少々慌てましたが、気を取り直して185号線を海岸沿いに走っていると、海には牡蠣筏が並び、さすが牡蠣の生産高日本一の広島だと思いました。
そしてやっと安芸灘大橋までやってきましたが、通行料金730円とその高額にびっくりです。ここから、さらに蒲刈大橋、豊島大橋、豊浜大橋を渡らなければなりません。安芸灘大橋から御手洗までの所要時間は、24km40分でした。



豊浜大橋 平成4年11月開通・長さ543m 豊島と大崎下島を結ぶ

(歴史の見える丘公園)

御手洗で最初に訪ねたのは「歴史の見える丘公園」です。公園への案内表示があったので迷わず進みました。細いくねった山道です。対向車が来ないことを祈りながら走らせること5分ほどで駐車場に到着しました。
展望台からの眺望は素晴らしいものでした。ベンチには静かに海を眺める老夫婦の姿があり印象的でした。眼下に御手洗の町を俯瞰することができます。さて、この公園の一角に「おいらん公園」があるはずなのですがよくわかりません。ちょうど下から登ってきた若い男性に道を尋ねると、「この下の方にありましたよ」とのことでした。
また戻ってくるのは大変だなと思いながら真下に続く階段を下ると、おいらん公園と書かれた石碑がありその下に墓地がありました。
墓地は、海が見下ろせる高台にあります。そこには100基以上の遊女の墓が整然と並んでいました。



駐車場から展望台につづくスロープ


御手洗地区の重要伝統的建造物群保存地区の選定にあわせて、地区を見下ろせる高台に設けられた公園。御手洗や来島海峡、四国の山々が一望できる。まさに天然の良港。


眼下に広がる御手洗の町並み。千砂子波止も見える。


高燈籠のアップ


ベンチで静かに海を眺めるご夫婦

(おいらん公園)


展望台から急な階段を下る

御手洗における遊女に関する最も早い記録は、元禄5(1692)年にドイツ人医師ケンペルが著した「江戸参府旅行日記」と考えられています。そして、公式にはじめて認可されたお茶屋は、享保9(1724)年に開業した若胡屋(わかえびすや)です。その後3軒のお茶屋が開業し、最も栄えたのは宝暦期(1751~63)と推測されています。宝暦5(1755)年には、若胡屋/46名、藤屋/27名、海老屋/27名で計100名の遊女がいた(豊町史)と記録され、全国の花街番付にも載るほどでした。実に町の住人の2割が遊女だったといいます。
その遊女の数も江戸末期には41名に、そして近代以降も御手洗の花街は存続し、最終的に売春防止法が施行された昭和33(1958)年まで継続していました。



急傾斜防止工事の際、享保15(1730)年頃から江戸時代末期に至るまでの遊女・童子それにかかわる人たちの墓が百墓に余って発掘された。


墓石が整然と並ぶ


若胡屋の文字が見える

この御手洗の花街は、他と違い周辺地域から隔絶された存在ではありませんでした。地域住民との密接な繋がりを持ちながら維持されてきたのです。2003年、土に埋もれ忘れられていた墓石を海の見えるこの地に移す中心的な役割をした今崎仙也さんは、NHK「日本風土記・北前船の旅人たち」の番組の中で、少年の頃の記憶を懐かしみながら次のように語っています。

「御手洗には銭湯が3軒あって、一番風呂は遊女なんですよ」
「夕方、化粧を早くしなきゃならんということでね」
「遊女たちも学校に勉強にいく子もおるし、一緒に町民運動会にも参加する子もいる」
「あまり違和感もない状況で私たちは接してきました」
墓石を移して整備したことについて
「江戸時代から非常に御手洗を支えてくれた人たちということでね」
「感謝の気持ちを込めて景色のいいところに移設してあげようじゃないかということになったんです」
「遊女たちは自分の出身地の船が港に入ると、あの船に乗って帰りたいと思ったんじゃないでしょうか」


関連ブログ 前回の記事「遊女たちの悲しい物語があった
参考文献:「大崎下島御手洗における花街の景観と生活」加藤晴美
     NHKBS新日本風土記「北前船の旅人たち」
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ねんねこしゃっしゃりませ♪ 中国地方の子守唄・誕生秘話 岡山県井原市高屋町

2021-01-21 23:45:14 | 歴史

井原鉄道 子守唄の里高屋駅

井原市高屋町の井原鉄道「子守唄の里高屋」駅の高架のプラットフォームへつづく階段を登っていると、「ねんねこしゃっしゃりませ~」のメロディーが自動的に流れてきます。
ご存知、山田耕筰編曲の、「中国地方の子守唄」です。



高屋町のランドマーク・華鴒大塚美術館 美しい日本庭園(華鴒園)で知られています。

この唄が世に出るきっかけとなったのは、同町出身の声楽家、上野耐之が東京の音楽学校在学中に、山田耕筰のもとを訪ね、故郷で歌われている、子守唄を披露したことが始まりでした。まもなく中国地方の子守唄として発表され、日本を代表する子守唄のひとつとなりました。


上野家の道路わきに設置された中国地方の子守唄紹介盤
耐之は、この山陽道高屋宿脇本陣上野家で出生した。

このことで私が残念に思うことは、なぜ中国地方なのか、ということです。井原市高屋町は、県境にあり、広島県福山市神辺町に接しています。どのあたりで歌われていたのか、そのエリアを特定することは困難かもしれません。
しかし、中国地方は、岡山県、広島県、山口県、鳥取県、島根県の5県にまたがるエリアで、その範囲はあまりにも広いのです。
できれば、高屋の子守唄、もしくは、井原地方の子守唄、もしくは備中地方の子守唄としてもらいたかったと思います。今さらどうすることもできませんが、いつも思う残念な点です。

しかし、調べてみると山田耕筰は東京生まれですが、岡山市に住む姉の家に寄宿し高校に通学しています。しかるに岡山県の地理にはある程度詳しいはずなのですが、あえて中国地方としたのは何か意味があったのでしょうか。



教会堂 高屋におけるキリスト教の歴史は、明治34年、プロテスタント岡本清が神戸から郷里に帰り伝道に従事したことから始まる。教会堂は上野家一族が中心になって資金を出し、大正2年に建立された。

さて、本題に戻りますが、上野耐之は幼いころから母=今(いま)さんの子守唄を聞いて育ちました。
この上野家の血をひく、故Sさんは、寄稿文で次のように紹介しています。
その頃家業は醤油の醸造販売を手掛け、父母はキリスト教に入信、敬虔なクリスチャンとして過ごしていました。耐志もまた両親に伴われ礼拝に出席、その時歌われる讃美歌で、母・今の歌声が一段と透き通る声で美しく聞こえ、信者間でも評判になっていました。

耐之もその影響で歌に興味を持ち、自分も歌の世界を目指し、興譲館中学校を経て東京の上野の音楽学校に進学、作曲家を志望し勉強中、ある日、山田耕筰の門をたたき作曲の指導をお願いしたところ、「君は何が得意か」との質問に「自分は歌が得意です」と答え「それでは君の好きな歌を歌ってご覧」と言われ「幼少の頃母が歌ってくれた子守唄です」と答え、地元の子守唄を披露しました。

「君の声、また歌詞曲、共に素晴らしい、すまないがこの歌を俺に呉れないか」と言われ、この子守唄を、正式な歌曲に仕上げられ「中国地方の子守唄」として世に紹介、広く世の中の人々に愛唱されるようになりました。



当時の面影が残る小路(裏通り)
旧山陽道の高屋の町並み、神辺宿と矢掛宿の合いの宿、江戸時代末期頃から伝わったとされるこの地方の子守唄。あの篤姫も通ったであろう町並みを歩くと、機織(はたおり)の音とともに、子守唄がどこからか聞こえてきそうです。


歌のあと、耐之がお願いしたのが、「ころは、眠たい昼下り、井戸つるべのガラガラ・・・という音がやんで、やがて国道を通る巡礼の鳴らす鈴の音が聞こえてくる、のどかな田舎の村、こんな情景を伴奏にとりいれていただければ幸いです」と。
まもなく中国地方の子守唄として出版されましたが、耐之は、のちに「母の子守唄」としてほしい気持ちであったと、新聞に述べています。


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井伏鱒二の小説「黒い雨」の舞台を行く。映画を見て私が気になってしょうがなかったこととは!

2020-09-15 22:33:24 | 歴史
(黒い雨とは?)
黒い雨(くろいあめ)とは、原子爆弾投下後に降る、重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物の一種です。核分裂で生成される物質は水溶性ですが、火炎や強風にによって舞い上がった煙の中の泥やほこり、すすの成分が雨滴に吸着して黒い色になったものです。

(黒い雨訴訟)
戦後75年、いまだに原爆と戦っている人たちがいます。広島地裁は、令和2年7月29日、原爆投下直後に降った放射性物質を含んだ「黒い雨」を国の援護対象区域外で浴びた原告84人全員を被爆者として認めました。しかし、広島県、広島市、国は控訴しました。過去の最高裁判断や、健康被害を黒い雨の影響とする新たな科学的知見がないことをその理由としています。また、県や市が求める援護対象区域の拡大に関し、区域の拡大も視野に入れた再検討を行うため、これまでに蓄積されてきたデータを最大限に活用し、最新の科学技術を用いて、可能な限りの検証を行うとしています。今後の展開を注視していきたいと思います。

(映画のロケ地、岡山県八塔寺ふるさと村)
そんな折、先月の初め、映画やテレビドラマのロケ地としても知られる、岡山県備前市吉永町の「八塔寺ふるさと村」を久しぶりに訪ねました。美しい田園風景には心を癒されましたが、その茅葺民家の象徴的な1棟が、八塔寺国際交流ヴィラでした。もともと村のはずれにあったものを、わざわざ映画「黒い雨」のために今の場所に移転させたそうです。
今村昌平監督は、撮影の候補地としてその実際の舞台である小畠(現広島県神石高原町)を訪ねたそうです。しかし当時の状況から随分様変わりしているので、当地での撮影をあきらめ別の候補地を探していたところ、八塔寺の存在を知り決めたそうです。


八塔寺ふるさと村 岡山県備前市吉永町加賀美 撮影日:2020.8.11


小畠村の閑間重松宅に使用された、八塔寺国際交流ヴィラ

(映画「黒い雨」を見て気になったこと)
実際に八塔寺のロケシーンが銀幕でどのように映っているかとても興味がありました。その物語のラスト、矢須子(田中好子さん)が倒れ、救急のトラックで運ばれるシーンがありました。私が気になっていたのは、その後の矢須子のことです。突然終わった感じがして、気になって仕方ありません。
DVDのデジタルニューマスター版では、矢須子が生き延びて原爆投下から20年後に四国の霊場をヤケドの四十男と共に巡礼として歩く原作には無いエピソードが19分のカラー映像として描かれているそうです。しかし映画で、今村監督は最後まで迷ったあげくそのシーンは採用しなかったそうです。(Wikipediaより)
こちらでのロケは100日間もかけて行われました。ある雑誌のインタビュー記事で、田中好子さんは、次のように語っています。
「撮影現場の八塔寺に行ったとき、最初はセーターとGパンだったけど、いつかジャージーになり、スニーカーはサンダルになって、気がついたらもんぺと長靴の毎日。村のたたずまいや合宿生活が私を変えて、矢須子という役に近づいた。」と。


(井伏鱒二の小説・黒い雨には、モデルがあった
井伏鱒二は、旧深安郡加茂町の出身でした。釣り仲間の旧神石郡三和町小畠の重松静馬から、自分が体験した被爆のことをノートにまとめてある、孫の世代に知ってもらうため、ぜひこれを題材にして小説を書いて欲しいと頼まれます。当時東京在住の井伏は、被爆に関してはまったく知識がなく、この日記を使用してよいか尋ねます。すると一向に構わないとの返事。井伏は新潮社と相談し、10万円を新潮社から、後日5万円を井伏が負担し、買い上げています。また、重松に幾度も相談をし、調査の依頼もしています。また、実際の被爆者から聞き取り調査もしています。まさにこの小説は、二人三脚で出来上がったものといえます。当初は、姪の結婚という題でスタートしていますが、途中から黒い雨に改題しています。
物語は、閑馬重松・シゲ子夫妻と、姪の矢須子の3人を主人公に、広島での被爆から、重松の生家である小畠村でのできごとを題材にしています。


(重松日記の誕生)
日記の原本は、重松家に保管されていましたが、重松家現当主の文宏氏ご夫婦の了解を得て、太宰治の研究で知られる・相馬正一氏(そうましょういち:1930~2013)が重松の被爆日記から表記を現代仮名遣いで活字化し、筑摩書房から「重松日記」として出版したのでした。日記の著者は重松静馬となっています。静馬氏が逝去して実に20年後のことでした。
但し、重松日記には、広島から小畠村に帰った以後のことは、一切書かれていません。当時、小畠村の生家には、小学生の養女フミエさん(現当主重松文宏氏の奥様)がいました。重松日記・巻頭の手紙はこのフミエさん宛てに書かれたと思われます。
重松日記は、2001年5月に第一冊が発行され、以降第三冊まで7000部が発行されましたが在庫切れとなっていました。2018年、実に17年ぶりに第四冊1000部が発行されました。



筑摩書房から発行された重松日記 小説「黒い雨」の第一資料

(志麻利で重松文宏さんから聞いた話)

そこで、物語の舞台となった神石高原町小畠を訪ねてその資料を拝見したいと思いました。特に、矢須子のモデルとなった安子さんの物語への関わり合い、その後どのように生きられどのような生涯を送られたのか?を知りたいと思ったのです。

訪ねたのは、黒い雨の資料を保存展示している、ふれあい平和サロン歴史と文学の館「志麻利」です。玄関先で声を掛けると「わざわざ、このために県外からお出でいただきましたか」と恐縮しながら、うれしそうに、迎えていただきました。玄関の受付で記帳し、資料が展示されている畳の部屋に案内されました。この志麻利、週3日のみ開館し、会員が交代で対応しているとのことでしたが、この日はたまたま重松文宏館長が当番に当たっておられたようで本当にラッキーでした。



ふれあい平和さろん・志麻利 右側の建物


重松文宏氏から詳しく説明をいただいた


井伏鱒二(左)と重松静馬氏


井伏鱒二(左)と重松静馬氏


井伏鱒二の原稿 題は「姪の結婚」


展示室


展示室 

展示室は、井伏鱒二と重松静馬氏の出会いから始まって、黒い雨の執筆に至る経緯、また関連する資料が、ぐるりと並べられていました。私は事前にネットから重松日記関連記事を読み、ある程度は理解できていたと思います。重松さんとの会話の中で、何度も「これはよくご存知ですね」と感心いただきました。

重松文宏さんは、当年84歳だそうですが、とてもお元気でしっかりされていました。初め、矢須子のモデル安子さんのご主人かと思いましたが、年齢が合いません。前出の幼いころから養女に入られていたフミエさんのご主人にあたられます。

(訪問日:2020年8月23日)

(矢須子のモデル、安子さんのかわいそう過ぎる生涯)
重松日記の最後の章に、その後の安子さんについて書かれていました。私が最も感心があった部分です。安子さんは、重松夫妻と広島から帰ってきて、翌年結婚しています。その後しばらく子どもはできませんでしたが、9年目(昭和30年)にして待望の第1子誕生。2年後に第2子が誕生したあと軽度の原爆病を発症、昭和35年1月21日、原爆症による心臓疾患で死去、若干35歳の命でした。
映画の矢須子役の女優・田中好子さんは、映画収録3年後に乳がんが見つかりました。以後、表面には出しませんでしたが、女優業も兼ねながら癌との闘病生活が始まりました。そして、こちらも53歳の若さで亡くなっています。


(安子さんは、ほんとに黒い雨を浴びたのか)
小説「黒い雨」では、回想する形で、矢須子は黒い雨を浴びたことになっていますが、重松日記では、一切そのことについては書かれていません。となれば、証言者の話を聞いた中で、あるいは何かをヒントに井伏が創作で書き上げたということでしょうか。このことについて、相馬正一氏も「井伏の思い違いか作り話である」と述べています。小説なので、それは一向にかまわないのですが、この小説の題名であり、とても重要なテーマなので気になりました。

(物語の舞台となった小畠を行く)


小畠の町並み


「黒い雨」のモデル 重松静馬氏生家


井伏鱒二揮毫による記念碑


井伏鱒二「黒い雨」の文学碑


つつじが丘公園から見る小畠の町


「黒い雨」の終章となる乱塔池

最後に、小畠の町を散策して帰ることにしました。実はナビをセットし向かう時、かなりの田舎と思っていたら商店や民家が連なる想像以上の町筋でした。どうしても八塔寺の田園風景がイメージにあり余計にそう感じたのでしょう。物語の舞台となっているスポットを重松さんから教えていただきました。最初に訪ねたのが重松家です(外観のみ)、映画と違って、町並みを見下ろす高台にありました。もともと麦藁葺きでしたが現在はトタンで覆われています。終戦時すでに築200年以上(重松日記)とのことでしたから、最低でも250年以上経っていると思われます。堂々たる構えです。
次に向かったのが、つつじが丘公園です。重松さんから聞いて、おおよその見当はつけていましたが、少し道に迷いました。急な坂を上りきると公園らしきエリアがあり、文学碑と書かれた石碑がありました。文面は次のとおりです。


「戦争はいやだ 勝敗はどちらでもいい 早く済みさえすればいい いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」

重松日記には、その日の日めくりカレンダーから「最も正しき戦争よりも、最も不正な平和を選ぶ」と、ローマの政治家、キケロの言葉が印刷してあった、とあります。この言葉が引用されたのでしょう。
つつじが丘公園の眺望はなかなかのものでした。眼下に小畠の石州瓦の町並みが見えます。
そして最後に向かったのが小説にある鯉を養殖したという池・乱塔池です。
こうして、本日の日程を終え、最後に重松さんにもう一度お礼の挨拶をして小畠をあとにしました。
気になっていたことは解決しましたが、たまたまこの時代に生まれ、悲惨な体験を余儀なくされた広島の人々のことを思うと、いたたまれない気持ちになりました。


ふれあい平和サロン歴史と文学の館・志麻利 広島県神石郡神石高原町小畠1733
 TEL(0847)85-2808 開館日:毎週月・木・日 開館時間:御前10時~午後3時
冬期閉館(12・1・2月) 重松日記はこちらで求めることができます。
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上田重安(宗箇)と塙団右衛門直之 島根県・櫻井家住宅を訪ねて

2019-12-10 22:05:08 | 歴史

駐車場から山道を歩く。振り返ってみたところ


可部屋集成館の正門


裏山の美しい紅葉

先月の初め、美しい日本庭園で有名な足立美術館に向かう途中、紅葉スポットで知られる可部屋集成館櫻井家住宅を訪ねました。
奥出雲町の国道432号線から少し山道を入ったところに、駐車場がありました。
事前の情報で、この駐車場脇にあるのが、評判の蕎麦店「清聴庵」でしたが、時間的にまだ営業前のようでした。
駐車場から傾斜道を数分歩くと、小高いところに可部屋集成館があります。
入館料は、櫻井家住宅と合わせ、1000円でしたが、JAFカードの提示で900円でした。

まず、櫻井家住宅を先に見学することにしました。国の重要文化財に指定されているこの住宅、ご当主が実際に住んでおられるので、座敷にあがることはできませんでしたが、玄関先の土間からは、座敷が何部屋も続きその立派さがわかります。
この住宅の奥にあるのが、松平不昧公が命名したという日本庭園「岩浪」です。
圧巻なのは、山の上の方から、幾筋にも分かれて流れ落ちる滝です。
滝は、庭園の池の水となり、そこには悠々と泳ぐコイがいて、まるで江戸時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えます。



重要文化財・櫻井家住宅 現存する建物のもっとも古いものは享保20年(1735)の記録があり、母屋も元文3年(1738)に建てられた


大名茶人として名高い松江藩主・松平治郷(不昧)が初めて櫻井家を訪れると聞き、6代当主の苗清(なえきよ)が1803年、滝を中心とする庭園と屋敷に「上の間」を造った


日本庭園


櫻井家住宅は、このような山の谷あいにある


治郷公は、滝を「岩浪(がんろう)」と命名。 滝は高さ約15メートル。1キロ上流の内谷川から水を引き、岩の上から落としている。
この滝が、お成りの際、もてなしの心で造られた人工の滝と知る人は少ない。


池の澄んだ水


ゆったりとコイが泳ぐ


深い谷


秋には美しい紅葉を見ることができる


水車小屋


生成されるそば粉。粒子が相当に細かいので、つなぎがなくても十分打てるとのこと

紅葉は、事前の情報で色づき始めと聞いていたので、それほど期待はしていなかったのですが、住宅の裏山の木々の紅葉は見事でした。
そして、住宅の南側は、深い谷となっており、川を挟んでのカエデは、まだ緑でしたが、紅葉するとそれは見事だろうと推察できます。
これらのカエデは、五代の室が京都から輿入れの際に持ってきて植えたものと伝わっているようです。
こうして、立派な住宅と庭園を楽しんだ後、「可部屋集成館」で櫻井家の貴重な資料を拝見することにしました。
学芸員の方から、簡単に説明をしていただきましたが、その中で、当家は戦国の武将・塙団右衛門の末裔家です、との説明がありました。
このとき「塙団右衛門」と聞いて、どこか記憶の片隅にあったのが「宗箇が倒した相手」ということでした。
そのことを尋ねると「はい!その通りです」と興味ある話を聞くことができました。
部屋の入り口には、NHK大河ドラマ「真田丸」で登場する塙団右衛門の写真が掲示されていました。
また、その役を演じた俳優の小手伸也さんが、わざわざこちらにあいさつに来られたということです。

そこで、上田重安(宗箇)と塙団右衛門のことについて少し調べてみました。


上田重安(宗箇)とは?

数々の戦いで一番槍の功を立てた歴戦の武将、茶道を千利休ついで古田織部に学び、上田宗箇流の流祖となって、茶人、造園家として業績を残した。

・永禄6年(1563)現在の愛知県名古屋市南区星崎の出身
・代々、丹羽長秀の家臣
・本能寺の変が起こると、光秀の娘婿の津田信澄の首を挙げる
・長秀の死去後、秀吉の直臣となり1万石の大名となる
・関ヶ原の戦いでは、西軍につき敗戦、領地を没収され剃髪、以後宗箇と名乗る
・蜂須賀家政に請われその客将となり、徳島城表御殿庭園を作庭
・浅野家に請われて家臣となり、1万石を与えられる。
和歌山城西ノ丸庭園、粉河寺庭園を作庭
・大阪の陣(冬の陣)では、浅野長晟に従って従軍
・大阪夏の陣、樫井合戦では、敵方の大将の一人である塙団右衛門の首級を挙げる
・浅野氏が和歌山藩から広島藩に移封されると、現在の大竹市小方に1万2000石を与えられる
・以後は、茶道と造園を趣味として生活を送り、浅野家別邸縮景園、名古屋城二の丸庭園を作庭
・慶安3年(1650)88歳で没した
・茶道は、上田宗箇流として連綿とつづき、現在は16代・上田宗冏家元


塙団右衛門直之とは?

・出自は不明
・豊臣秀吉の家臣・加藤嘉明に召し抱えられ、度々武功をあげる
・1000石の知行をもらい鉄砲大将に出世、名を塙団右衛門直之と改名
・関ヶ原の戦いで、命令を無視したため嘉明の勘気を受けるが、憤慨し出奔
・小早川秀秋に召し抱えられ、1000石の知行で鉄砲大将となるが、主家が断絶して浪人となる
・その後、松平忠吉に仕えたがまたしても主家が断絶、その後福島正則に仕えたが加藤嘉明の抗議で罷免
・妙心寺大龍和尚のもとに寄宿して仏門に入り「鉄牛」を称する
・大阪冬の陣が始まると還俗し、豊臣方に参加
・浪人衆の一人として大将・大野治房の組に預けられ、志願して夜襲をかける
そのとき「野討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札を士卒にばらまかせる
・大阪夏の陣で武将の一人に任じられ、大野治房の指揮下で出陣し、浅野長晟と対戦
・樫井の戦いで、浅野家家臣の田子助左衛門、亀田大隅、八木新左衛門、および横井平左衛門(上田宗箇の家人)らと交戦
一説には、田子の弓矢を額に受けて落馬したところを、八木に打ち取られた、また異説では、亀田大隅あるいは横井平左衛門が打ち取ったとも、また上田宗箇本人と遭遇し、槍一本に突かれたとの説もある。
・直之の墓所は、大阪府泉佐野市南中樫井にある


実際のところどうだったのか?

上田宗嗣著「茶道上田宗箇流」には、次のように記述されている

大阪夏の陣の緒戦、浅野長晟は軍を泉州樫井まで進め、二万の大阪勢を待ち受けた。
このとき宗箇は浅野左衛門佐の隊に加わり、塙団右衛門に傷を負わせ、大阪方の猛攻をくい止める大功を挙げた。世に言う泉州樫井の戦いである。
戦の最中、急迫する敵を待ち受けながら、宗箇は平然として小刀を持って竹やぶの竹を切り、茶杓二本を作った。茶杓の銘を「敵がくれ」という。


津本陽「風流武辺」では、次のように描かれている

樫井の集落の道筋は城兵で混み合い、塙団右衛門は思うように馬を進められない。
宗箇は槍をふるって躍り出ると、団右衛門の家来山県三郎右衛門と付き合い、組内となり宗箇が下になった。
宗箇の家来二人が三郎右衛門を槍で突き、打ち取った。
団右衛門は脇腹に矢傷を受けたが、すさまじい勢いで槍をふるい、敵を寄せ付けない。
そのとき紺具足に黒母衣をつけた小柄な宗箇が、声をふりしぼり名乗りをあげた。
団右衛門は宗箇と突き合う。宗箇は槍を捨て斬りかかった。
団右衛門は宗箇の冑を槍で殴りつける。
宗箇はひるまず太股へ斬りつけ、組み付き、死力をふりしぼり、組み付いた腕を離さなかった。
剛力の団右衛門は宗箇を脇に抱え。締め付けて樫井村の出口まで引きずっていこうとした。
宗箇の家来たちはあとを追い、ひとりの小姓が団右衛門の冑の錣を両手でつかみ、後ろに引き倒す。
落馬したところへ顔を狙い十度ほど刀を突きこむ。
塙団右衛門はその場で絶命した。(一部省略)


櫻井家のその後

・大阪夏の陣で、始祖塙団右衛門討死のあと、嫡男直胤は母方の姓「櫻井」を名乗る
・広島の福島正則に仕えたが、同家改易の時、広島の郊外「可部郷」に住み、鉄山業を営む
・正保元年(1644)三代直重は、出雲領上阿井の地に移り、屋号を「可部屋」と称し“菊一印”の銘鉄を創り出す
・“菊一”は、最も良い鉄砲地鉄として認められ、松江藩より「御鉄砲地鉄鍛方」を命ぜられる
・松江藩に認められ、やがて五代利吉は、「鉄師頭取」の要職を拝命し、広く地域内の鉄山業を仕切る
・現当主は、13代櫻井三郎右衛門氏
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