前回 倉敷市児島を巡る旅その2「塩田王国」を築いた野崎武佐衛門の屋敷 につづく
旧野崎家住宅を訪ねた後、次に向かったのが「児島ジーンズストリート」です。
児島地区の町おこしの一貫として、2009年に味野商店街の空き店舗を利用してスタートしました。
その広さ、東西300mと南北120mに飲食店なども含め30店舗のお店が立ち並んでいます。
訪ねた日が平日で、通りを歩く人も少なかったのですが、さほど広くない道の両側のお店から、若いスッタフの人たちの明るい声が聞こえてきます。
通りのスタート地点は、旧野崎家住宅付近からすでに始まっています。
この通りの一番のシンボルが、頭上に通されたロープにぶら下がるヴィンテージジーンズ。これはなかなかインパクトがあります。
強いデニム地、風雨に打たれようともどうということはありません。適度に色落ちし、風合いが出て逆にいいかもしれませんね。
考案した人は素晴らしいと思います。
頭上にロープで吊るされたジーンズ1
頭上にロープで吊るされたジーンズ2
通りのマンホール「KOJIMA JEANS STREET」のプレートがはめ込まれています。
駐車場の角のところにある、桃太郎JEANS 児島味野本店
建物が重厚なDANIA JAPAN
次に、㈱JAPAN BLUEの「オーダースーツ」のお店 CROWN LABEL
店頭に織機のようなものが展示されていました
閑散とした通り 右のお店はSAIO オリジナルブランドのカジュアルパンツを展開
ブッシュパンツのお店 HIGH ROCK
小さな公園の一角 トイレもこのようにジーンズ仕様
大きな鉢に黄色の花が咲いていました
児島地区は、瀬戸内海に面した港町。塩分を含む土が稲作には向かず、古くから綿花栽培が盛んに行われたことで、真田紐、足袋、軍服、学生服、帆布、作業服と、繊維産業の町として独自に発展してきました。
ジーンズはもともと、アメリカで生まれたものですが、そのアメリカから原反を輸入し、日本で初めてジーンズを作り上げたのが、この町のジーンズメーカー「ビッグジョン」といわれています。
児島には、縫製、織り、染め、加工などの高度な技術をもつ職人さんたちが集まり、「国産ジーンズ発祥の地」「ジーンズの聖地」とも言われています。
児島駅の構内、バス、タクシーなどあらゆるものがデニム仕様になっていてジーンズの町をアピールしています。
デニムの聖地・井原
このジーンズの聖地・児島に対し、近年「デニムの聖地」として売り出しているのが、井原(いばら・岡山県井原市)です。
井原デニムとは、井原市のデニム生地、デニム製品、そのブランドを指して使われる言葉です。
井原は、デニム生地の工場、ジーンズの縫製・加工工場が集まる産地で、1970年ごろにはジーンズの国内生産の約70%(年間1500万本)を生産していました。
この井原地方に綿作りが伝わったのは戦国時代末期と言われています。
江戸時代に綿花の栽培が盛んになり、その後、藍が伝わると、綿糸を染色し木綿布に織ったものが、特産品として知られるようになりました。
また明治時代から小倉織が生産されるようになり、井原の小倉織は、「備中小倉」として全国はおろか海外にも輸出されるようになります。
備中小倉は、表が藍染めの紺、裏地が白の厚手の綿織物で、デニムと似た特徴をもつこと、その生産で培われた技術が現在のデニム生産につながる礎となったのではと、ということから、国産デニムのルーツ、日本デニムのふるさと、とも言われています。
実際に昭和35年にデニム生地を国内で初めて生産したという記録も残っています。
‘デニムの聖地・井原’を謳っているのは、このことを根拠としているのです。
井原のジーンズ生産量は次第に減っているものの、縫製・加工工場は現在も少なくありません。
またデニム生地に関して言えば、児島でも生産している企業はもちろんありますが、井原市(備中・びっちゅう)のほか、お隣の町・広島県福山市(備後・びんご)地域が国産デニムの一大産地となっています。
デニムを織る機屋やインディゴ染めをする染色工場など、ジーンズやデニムにまつわる様々な業種が集まって、備中備後地域のデニムの魅力をもっと発信するため、県の枠を越えて‘備中備後デニムプロジェクト’を起こし、連携してものづくりに取り組んでいます。
次回 倉敷児島を巡る旅 その4 下津井の町並みと瀬戸大橋
旧野崎家住宅を訪ねた後、次に向かったのが「児島ジーンズストリート」です。
児島地区の町おこしの一貫として、2009年に味野商店街の空き店舗を利用してスタートしました。
その広さ、東西300mと南北120mに飲食店なども含め30店舗のお店が立ち並んでいます。
訪ねた日が平日で、通りを歩く人も少なかったのですが、さほど広くない道の両側のお店から、若いスッタフの人たちの明るい声が聞こえてきます。
通りのスタート地点は、旧野崎家住宅付近からすでに始まっています。
この通りの一番のシンボルが、頭上に通されたロープにぶら下がるヴィンテージジーンズ。これはなかなかインパクトがあります。
強いデニム地、風雨に打たれようともどうということはありません。適度に色落ちし、風合いが出て逆にいいかもしれませんね。
考案した人は素晴らしいと思います。
頭上にロープで吊るされたジーンズ1
頭上にロープで吊るされたジーンズ2
通りのマンホール「KOJIMA JEANS STREET」のプレートがはめ込まれています。
駐車場の角のところにある、桃太郎JEANS 児島味野本店
建物が重厚なDANIA JAPAN
次に、㈱JAPAN BLUEの「オーダースーツ」のお店 CROWN LABEL
店頭に織機のようなものが展示されていました
閑散とした通り 右のお店はSAIO オリジナルブランドのカジュアルパンツを展開
ブッシュパンツのお店 HIGH ROCK
小さな公園の一角 トイレもこのようにジーンズ仕様
大きな鉢に黄色の花が咲いていました
児島地区は、瀬戸内海に面した港町。塩分を含む土が稲作には向かず、古くから綿花栽培が盛んに行われたことで、真田紐、足袋、軍服、学生服、帆布、作業服と、繊維産業の町として独自に発展してきました。
ジーンズはもともと、アメリカで生まれたものですが、そのアメリカから原反を輸入し、日本で初めてジーンズを作り上げたのが、この町のジーンズメーカー「ビッグジョン」といわれています。
児島には、縫製、織り、染め、加工などの高度な技術をもつ職人さんたちが集まり、「国産ジーンズ発祥の地」「ジーンズの聖地」とも言われています。
児島駅の構内、バス、タクシーなどあらゆるものがデニム仕様になっていてジーンズの町をアピールしています。
デニムの聖地・井原
このジーンズの聖地・児島に対し、近年「デニムの聖地」として売り出しているのが、井原(いばら・岡山県井原市)です。
井原デニムとは、井原市のデニム生地、デニム製品、そのブランドを指して使われる言葉です。
井原は、デニム生地の工場、ジーンズの縫製・加工工場が集まる産地で、1970年ごろにはジーンズの国内生産の約70%(年間1500万本)を生産していました。
この井原地方に綿作りが伝わったのは戦国時代末期と言われています。
江戸時代に綿花の栽培が盛んになり、その後、藍が伝わると、綿糸を染色し木綿布に織ったものが、特産品として知られるようになりました。
また明治時代から小倉織が生産されるようになり、井原の小倉織は、「備中小倉」として全国はおろか海外にも輸出されるようになります。
備中小倉は、表が藍染めの紺、裏地が白の厚手の綿織物で、デニムと似た特徴をもつこと、その生産で培われた技術が現在のデニム生産につながる礎となったのではと、ということから、国産デニムのルーツ、日本デニムのふるさと、とも言われています。
実際に昭和35年にデニム生地を国内で初めて生産したという記録も残っています。
‘デニムの聖地・井原’を謳っているのは、このことを根拠としているのです。
井原のジーンズ生産量は次第に減っているものの、縫製・加工工場は現在も少なくありません。
またデニム生地に関して言えば、児島でも生産している企業はもちろんありますが、井原市(備中・びっちゅう)のほか、お隣の町・広島県福山市(備後・びんご)地域が国産デニムの一大産地となっています。
デニムを織る機屋やインディゴ染めをする染色工場など、ジーンズやデニムにまつわる様々な業種が集まって、備中備後地域のデニムの魅力をもっと発信するため、県の枠を越えて‘備中備後デニムプロジェクト’を起こし、連携してものづくりに取り組んでいます。
次回 倉敷児島を巡る旅 その4 下津井の町並みと瀬戸大橋