未熟なカメラマン さてものひとりごと

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やまびこ農園の花ハスは素晴らしい!(撮影日記7月22日)

2012-07-28 00:29:59 | 撮影

朝陽を受けて鮮明さが増す花ハス

今年も広島県世羅のやまびこ農園に花ハスの撮影に行ってきました。5時に起床、5時半に家を出発しました。日曜日の早朝、さすがにこの時間の交通量は少なく、いつもは渋滞にかかる府中市内もなんなく通過しました。それでも出発前からずっと気になっていることがありました。車のガソリンがあまりなかったことです。目盛はあと二つになっていました。走行可能距離は120キロと表示されていました。当初120キロもあれば十分に行って帰れるだろうという読みは、だんだん心細くなってきました。

途中に24時間営業のセルフ式ガソリンスタンドは、いくつかありましたが、ハス畑に朝陽が射しこむようになると撮影はかなり難しくなってくるので、少しでも早く現地に着きたいという思いがそれに勝っていたのです。それでも府中市内を過ぎるころには、走行可能距離は70キロになっていました。目盛はあと一つです。こうなると、この車も4年目になるけれども、ここまで少なくなって乗ったことは過去になく、果たしてこの数字は信用できるのだろうか、という疑心暗鬼にも陥って、最後には、いざとなればJAFか自動車保険のロードサービスでも呼べばいいやと居直る始末。おまけに、うっかりナビのとおり進むと、車が一台やっと通れる山道にも入ってしまいました。まさに踏んだり蹴ったりでしたが、何とか目的地に到着することができ、まずは一安心です。
そもそも焦りがいけないのだ、ここは撮影に集中して落ち着こうと思いました。

やまびこ農園は、今年で4年連続4回目になります。さすがに1.2年目ほどの感動はありませんが、無垢で大きな花を見ていると心が癒される感じがします。すでに車が5.6台停まっており、7.8人の先客がいました。カメラ教室の方々でしょうか。皆さん一列に並ぶ感じで三脚を構え、先生と思われる人からレクチャーを受けていました。このハス畑には、ハスが種類ごとに区分けして植えられていますが、全体的につぼみが目立ち、昨年に比べると少し開花が遅れているようでした。傾斜地にハスの大きな水田が4つ並んでいます。主に中の二つの畑に開花が見られました。いつも朝梅雨で靴やズボンのすそが濡れてしまうのですが、今回は長靴を用意していたのでその心配もありません。一番のお気に入りは、ミセスローカムという品種で、咲き始めの美しさは、まるで白桃のようです。

鳥の鳴き声が聞こえ、トノサマガエルが人の気配に驚き田んぼに飛び込んで「ポチャン!」と音がします。そばでウシガエルが「ゲーゲー」と低い声で鳴き、トンボが音もなく飛び交う、里山のなんだか懐かしい風景がそこにありました。
じっくり三脚もいいのですが、今回は心の余裕もなく手持ち撮影にしました。40枚ほど撮るとついに朝陽が射しみ始めました。射し込み始めのやわらかい光は、その瞬間しか味わえないようないい感じなのですが、朝陽がのぼってしまうとこれはいけません。コントラストが強すぎて撮影は難しくなってしまいます。気温も一気に上昇し始め、汗がじわっと出てきます。まさに、ジ・エンド。早々に引き揚げ帰ることにしました。
さて、心配なのは車のガス欠。まっすぐ家路を目指しますが、走行可能距離は見る間に少なくなって、府中市内に入ることには、30キロを切っていました。でも、ここまで来ると一安心、最初に出会ったセルフのガソリンスタンドで、とりもなおさず給油しました。あー、何とか間に合ったと、ほっとすると、自宅までのドライブは何と気持ちのいいことか。何事も事前の準備が大事。大いに反省のあった今日の一日でした。



熱心に撮影をするカメラマン
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歴史ロマン 大黒屋光太夫と彼らを支えた人たち その2

2012-07-25 20:33:55 | 歴史

我が家のオリーブと青い空 本文とは関係ありません。

(前回のつづき:アムチカ島を脱出し、キリル・ラクスマンに出会う)
アムチカ島からロシア人と共に脱出した光太夫たちは、日本に帰りたい一心で、帰国嘆願書を届けるために、いわれるまま、カムチャッカからオホーツク、そしてヤクーツクへとソリで向かうわけですが、彼らを一番苦しめたのが極限の寒さと、壊血病ではなかったでしょうか。
アムチカ島では、漂流で痛めた体が寒さに耐えきれず6人の命をすでに失っていますし、ヤクーツクを出発するころには、さらに5人減って6人(諸説あり)となっています。特に、このヤクーツクは北半球で最も気温が低いところと云われ、厳寒期にはマイナス50度以上になりますし、夏には30度以上になることもあるそうですから、年間を通しての寒暖の差は、80度にもなります。冬季には、新鮮な食糧が手に入らないため、壊血病で命を無くす者が多発しました。

ビタミンCを含まない食事を約60~90日間続けると、体内のビタミンCの蓄積総量が許容限度以下になり、出血性の障害をもたらす壊血病を発症すると言われていますが、このビタミンCと壊血病の関係があきらかになったのは、1932年のことです。ただ、新鮮な野菜や果物、特にかんきつ類を摂取すると発症が少なくなるというのは、当時でもわかっていたようですが、ただでさえ極寒の地での冬場の食料の確保は大変だったようで、飢饉の年には大勢の餓死者を出したといわれています。

ところで、ここまで見るとロシア人は漂流民に概ね寛大であったということがわかります。アムチカ島では、漂流民を拒むことなく受け入れて、行動を共にし、船で脱出していますし、ヤクーツクからイルクーツクまで行動を共にしてくれたホトケーヴィチ(ホッケイチ)も命の恩人ではなかったでしょうか。何よりも一番の功績は、あのキリル・ラクスマンを紹介してくれたことです。
イルクーツクは、バイカル湖西岸内陸にあたり、このころ、中国、朝鮮、満州などの人々が交易に訪れる繁華な土地でした。そして光太夫たちはラクスマンに会うわけですが、彼がいなかったら、光太夫たちは永遠に日本に帰ることができなかったでしょう。
過去、多賀丸の漂流民、それ以前にも大阪廻船や薩摩廻船の漂流民がいたことを聞かされますが、これら多くの漂流民が、望郷の念に抱かれながらも、帰るすべも無く帰化し、この地で亡くなっています。ただ一人として日本に帰ったものはいなかったのです。

ちなみに、記録に残っている最初の日本人漂流民は、伝兵衛という人で、カムチャッカに流れ着き、ヤフーツクへ移って、その後モスクワでピョートル1世に拝謁し、1705年、サントペテルブルグの日本語学校の教師を命じられています。漂流の時期は、光太夫よりも85年も前のことです。

ラクスマンは、フィンランド出身の自然科学者で、光太夫よりも14歳年長でした。彼のかつての師が長崎に留学していたので、日本に特別の興味を持っていたといわれています。地質の研究が認められて帝都・サントぺテルブルグ科学アカデミーの会員となり女帝エカテリーナ2世や政府高官との知遇を得ていました。
(そして、遂に帰国へ と続く)



三重県亀山市関宿で見たムクゲ 本文とは関係ありません。
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高知の旅 北川村モネの庭マルモッタンを訪ねて(平成24年7月15日)

2012-07-23 22:09:00 | 観光名所

モネの見ていた風景がここにある

モネの絵は、日本の各美術館に合計で20点近くあるそうです。私もいくつかの美術館で何度かお目にかかったことがあります。香川県直島の地中美術館、倉敷の大原美術館、京都の大山崎山荘美術館などですが、特に地中美術館は、5点もの大きな絵がぐるりと展示されていて、まさにモネの世界、とても印象的でした。また大原美術館の睡蓮は、児島虎次郎が自らモネに交渉し買い付けたものだそうですから念がいっています。
また、こちらのモネの庭もそうですが、フランス・ジヴェルニーにある「モネの庭の睡蓮」を株分けしてもらって育てている美術館もいくつかあるようです。

 さて、こちらのモネの庭は、世界でも唯一、ご本家からお墨付きをいただいているそうで、フランスのモネの庭そっくり再現されていますし、その管理についても指導・監修を仰いでいるそうです。ところで気にかかるのが、名前にもなっているマルモッタンと、過疎の進む北川村になぜ誘致されたのかということです。HPやパンフレットには何も記載されていません。マルモッタンというのは、有名なモネの収集家の名前で、その絵画を多く所有しているのが、マルモッタン旧宅を美術館の建物としているマルモッタン美術館です。素直に、このモネの庭の名前が「マルモッタン」と考えればいいのでしょうか。
さて、坂を登ったところにある第1駐車場は、ほぼ満車で観光バスも数台停まっているという盛況ぶりでした。
モネの庭は、この駐車場を境に二つのエリアに分かれています。このため受付がちょっとわかりにくい場所にあります。山側にあるのが、お目当ての水の庭と光の庭、下って裾野側にあるのが花の庭です。もちろん最初は、一番のお楽しみ、水の庭をめざします。途中の遊歩道には、人口の滝やユリなどの季節の花々が咲いてまさに癒しの風景です。水の庭の池は、ジヴェルニーから株分けした赤や青のスイレンが咲き、その葉に赤とんぼや、井原では見たことのないチョウトンボなどが停まって、被写体としては申し分ありません。池の周囲にはところどころに撮影ポイントも用意されていて、多くの人が写真を撮っていました。これぞ画家モネのこだわりの庭、多くの名作が生まれたスイレンの咲く庭かと、モネの描いた風景に出会った気がしました。

 水の庭を堪能した後、隣の光の庭を目指します。ここでは地中海のイメージが演出されていて珍しい植物も植栽されていますが、熱い日、ここまで来る人はそう多くないようでした。こうして山側のエリアを見た後、一旦駐車場に出て裾野側にある花の庭を見ようと思いつつ、その前に腹ごしらえをしようとレストランに向かいました。しかし何とそこは順番待ち。それでは帰りにどこかで、名物カツオのたたきでも食べて帰ろうと、ソフトクリームで一時しのぎをすることにしました。しかし暑い夏の日のせいか舐めているさきから、ぼたぼたと溶けて落ちてしまいます。

それにしてもレストラン前のデッキからの眺めは何と素晴らしいことでしょう。向かいの山々は黒い雨雲に覆われて雨が降っているようでした。眼下に見る花の庭の花々は、暑い日差しのせいで少し元気がないように思われましたが、背の高さや花の色の配色をうまく考えて植えられているさまには感心しました。それにしても、今日はうれしいことに行く先々で天気が回復し、去るころには、雨が降ってくるという有難い一日でした。
このあと、安芸市に寄り、野良時計、土居廓中(どいかちゅう)と呼ばれる武家屋敷あと、三菱財閥の基礎を一代で築いた岩崎弥太郎の生家などを見学しました。帰りの南国IC付近の道の駅で、お目当てのカツオのたたき定食で舌鼓を打ったあと、高知をあとにしました。久しぶりに充実した一日となりました。



デッキの水鉢に植えてあったとてもきれいなスイレン。
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高知県室戸市安芸市を訪ねて その1-吉良川の町並み-

2012-07-17 20:55:19 | 古い町並み

粋な暖簾のカフェ

連休中の天気予報は、曇り時々雨でかんばしいものではありませんでしたが、暑い夏の季節、このくらいの方が、カンカン照りよりはましかも、と出かけることにしました。今回の訪問先は、高知県安芸市です。武家屋敷の残る土居廓中(どいかちゅう)と呼ばれる家臣たちの屋敷跡、岩崎弥太郎の生家、安芸市のシンボル・野良時計、そしてモネの庭で有名な、北川村の「モネの庭マルモッタン」です。そして、いろいろ調べて行くうちに、もう少し先の室戸市吉良川町に、重要伝統的建造物群保存地区の「吉良川の町並み」があることに気づきました。これははずせないな、ということで、まず一番遠い吉良川の町並みを訪ね、そのあとモネの庭、そして安芸市を訪ねるという、かなりの強行軍となってしまいました。

笠岡ICから高速に乗って、南国ICで降りますが、流れに合わせて走ると、井原からこの間の所要時間が約2時間、ここから、吉良川町までさらに1時間半かかってしまいました。瀬戸大橋を渡るころには晴れ間ものぞいていましたが、トンネルを抜け南に行くにしたがって、空はどんよりとして、今にも雨が降ってきそうな天気になってきました。ということで、降らないうちにひとつでも早くにと、とにかく焦っていました。
55号線は、ときどき右手に太平洋が見え、なかなかの快適道路です。
そして、やっと吉良川の町並みに到着しました。大きな「重要伝統的建造物保存地区」とかかれた看板が目を引きます。ここに20台ぐらいの駐車場がありました。
町並みは、とても閑散としています。私の他に観光客の姿は一名のみでした。こちらの町並みの一番の特徴が、水切り瓦と呼ばれる壁の途中にある何層もの瓦。太平洋に直に面している町。そういえば、昔、甚大な被害をもたらした室戸台風というのもありました。これらのはげしい暴風雨から家々を守るための、このような先人の知恵と工夫が随所に見受けられます。
他の重伝建地区に見られる町並みとどこか趣が異なります。観光客をあて込んだ喫茶店やお土産物のお店は、ほとんどありません。現代の静かな町並みという感じですが、ところどころ白壁の土蔵や町屋が点々とあるぐらい。と思いきや、一軒だけ、旧家と土蔵を活用した、とてもしゃれたお店がありました。時間があれば、是非、おいしいコーヒーで一服したかったのですが、なにせ、天気が気になり、ここはパスすることに。この白い漆喰壁の町並みは、吉良川で廻船業が盛んになった明治中期に形成されたようです。吉良川産の備長炭を船で京阪神に運び、帰りに日曜雑貨を積み込む。富を得た商家が、浜地区と呼ばれる旧街道沿いに家を建てたのです。
町並み館でいただいたパンフレットに、「石ぐろ」と呼ばれるこの地方独特の石垣が載っていました。それではと、路地を少し入り坂道を登ると、この「石ぐろ」を配した通りや民家が随所に見受けられました。

この石は、浜辺や河原で拾い集めたものだそうです。こうして急ぎ散策すること約30分。とにかく、雨が降らなくてよかったと、次の目的地「北川村 モネの庭 マルモッタン」に向かいました。(つづく)



御田八幡宮への参道付近は、景観が素晴らしい
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“漂流民・大黒屋光太夫と彼を支えた人たち”その1

2012-07-14 21:30:42 | 歴史

岡山後楽園 本文とは関係ありません。

先日の「高田屋嘉兵衛と大黒屋光太夫」の続編です。 
大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の廻船の船頭でした。1782年、嵐のため江戸に向かう廻船が漂流し、アリューシャン列島のアムチカ島に漂着。その後ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルグで女帝エカテリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から9年半後の1792年に根室港入りして帰国するというすさまじい体験をしました。

帰国した時の彼の肖像画が残っています。髪は三つ編みにして後ろに垂らしそれを黒い絹布で包んでいます。首にはエカテリーナ2世からいただいた金メダルをかけています。この金メダルは格別の勲功のある平民に贈られるもので、賜ったのはロシア本国でもたった二人しかいなかったそうです。洋服はロシアから持ち帰ってきたもので銀モール製のコートとお揃いのズボンをはいています。これを見た日本人には、さぞ異様な姿に映ったことでしょう!顔の印象としては、垂れ目、大きな鼻、特徴的な眉毛だったそうです。

高田屋嘉兵衛との大きな違いは、彼がロシアへの漂流民だということです。当時、日本は鎖国をしていましたので外洋に乗り出せるような大きな船の建造を認めていませんでした。嘉兵衛よりも18歳も年長であり、遭難した時期(高田屋嘉兵衛は抑留された時期)も、30年も前のことです。暴風雨に会い、舵をなくし、止む無く帆柱を切断した船は、洋上の木の葉でしかありません。あとは、海流の流れるままに、ということで実に8カ月の間、漂流しつづけ、やっとアリューシャン列島の小島にたどり着いています。どうしてそのように長く洋上で生きていることができたのか。実は、江戸に届けるために多くの米(140俵ほど)を積んでいたのです。雨水を貯め、16人の船員が、少しずつ、少しずつ食べてしのいだのでしょう。しかし米を炊きつける練炭がなくなり、生米を食べるしかなくなって、ついに壊血病になって一名が亡くなっています。
毎日、毎日見る同じ海、同じ顔ぶれ、揺れる船の上の狭い空間で過ごす日々は、精神的にも極限状態ではなかったでしょうか。この間、特に船内で事件らしきものが何もおきなかったのは、船頭・光太夫のリーダーシップによるところが大きかったのでしょう。

島(アムチカ島)は、高い山のない平坦な島で、樹木はなく岩山だけの島でした。島には先住民のアレフトとロシア人の狩猟団がいました。その年のうち、寒さと弱った体力により、さらに4人の仲間を失います。2年後にロシアからの迎えの船が来ましたが、皆の見ている前で、接岸に失敗し大破してしまいます。そしてさらに2年後、協力して船を修復し、やっと島を出ることができました。乗船者は、ロシア人25名、日本人9名と、光太夫が日本から連れてきた猫一匹です。この島で暮らした4年間でロシア語をマスターしたといわれています。(つづく)  



岡山後楽園のハスの花 本文とは関係ありません。
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