良く晴れた真夏日。
メメント・モリ・・・いつか訪れる死を忘れるな。
母は、いつも死の恐怖の隣にいた。
幼くして実母を亡くし、長じては、いつも、何処かしか、身体の不調があって。
そして、その不調を、私に言い続けた。
『実母の享年(34歳)迄は、生きられないかもしれない。』
その予想を大幅に更新して、母は、88歳(実際は、89歳)迄、生きながらえた。
88年間の生涯で・・・たぶん、『死』を意識しない日は、なかったのではないか・・・。
私が知る限りだけれど、母を悩ませたものに、『中耳炎』が最初で、コレは、晩年に、聴覚を殆ど失う原因ともなった。
それに伴う、めまい、耳鳴りには、悩まされ続けた。
胃腸の不調。消化器系が弱かった・・・これも、手術とかで、治る類ではなく、いつもなんとなく、調子が悪い。
そのうち、職場や家庭内での神経戦による不眠。
これは、半世紀以上、母を悩ませる症状となった。
コレもたぶん、耳の不具合から来る随伴症状だったのかもしれない。
眠りたいのに、眠れない・・・コレは、かなり辛かったと思う。
ぎっくり腰からはじまった腰痛。
転んだり、打撲したり、切り傷、擦り傷・・・などは、日常茶飯事。
人生のオーラスには、脊柱管狭窄症による足の異常。しびれ、冷感。
脚に水をかけられたようにヒヤーとする・・・としきりに訴えた。
テレビに洗脳され、重大な病かと、日々、自分の症状と照らし合わせ、不安を煽り、その病状の書籍を買い求め、読むには、読むが、一旦、症状が、軽くなると、他の不調が気になる・・・といったループ。
毎日が、『メメント・モリ』であった。
気の毒と言えば、気の毒だけれど、それに付き合った私は、たぶん、もっと気の毒だっただろう。
よく頑張ったワタシ・・・とは、思うけれど、私も、身体が動かないときは、イライラしたり、怒鳴ったり、もっと母に良くしてあげればよかったとおもうけれど・・・。今更ながら・・・。
最後迄、一緒に居たのに、決して、相容れることのなかった私の母と、その母の存在と一緒だった『死』という友達。
いつも忘れずに一緒に居たのに、最後は、その『死』を意識せず、居眠りしながら、逝ってしまった母。
いまや彼岸の住人となった。